タグ別アーカイブ: 寺院城郭

大覚寺城(兵庫県尼崎市)

大覚寺城

室町幕府2代将軍・足利義詮の陣城。
1359年、足利義詮が在陣。

大覚寺は605年に百済の僧・日羅によって創建され、1275年に琳海が再興した律院寺院。
1359年に足利義詮が半年間に渡って在陣したことから、『大覚寺城』と呼ばれるようになった。
大覚寺の門前には市場が設けられて市庭町として発展し、中世都市としての尼崎が形成されたといわれる。

現在の大覚寺は1617年の尼崎城築城に伴って移転したもの。
当時の絵図には境内の北東側に大物橋が描かれており、現在の尼崎市東本町4丁目付近にあったと推測される。 続きを読む

鴨江城(静岡県浜松市)

鴨江城

南北朝時代における南朝方の城砦のひとつ。
築城時期は不明。

鴨江寺が城塞化したものと考えられるが、詳しくは不明。
鴨江寺は大宝年間に創建された寺院で、鴨江の長者・芋堀長者が行基に願って観音堂を建立したことに始まると伝わる。
史料上の初出は1333年、後醍醐天皇が鴨江寺に知行を与える綸旨を出したことが確認できる。
1339年には北朝方の高師泰・高師冬らによって「鴨江城」が落城したことが、『瑠璃山年録残編』の裏書に記される。

現在も同地には鴨江寺が建つ。
鴨江寺境内一帯と、その東隣にある浜松市立西小学校の敷地までが城域とされる。 続きを読む

鷺森御坊(和歌山県和歌山市)

鷺森御坊

紀伊国おける一向宗(浄土真宗)の別院。
1476年、紀伊国冷水浦に建てられた冷水道場が始まり。

1693年成立の『鷺森旧事記』によると、冷水浦の住人・喜六大夫が熊野参詣の途上で冷水浦を訪れた蓮如に帰依し、1476年に冷水道場を建立したとされる。
その後、道場は1507年に名草郡の黒江、1550年に和歌浦弥勒寺山に移り、1563年に雑賀庄鷺森に移転。
同地には石山本願寺から退去した顕如が1580年から1583年にかけて滞在しており、浄土真宗の本拠地として位置付けられていた。

戦国時代末期に羽柴秀吉による紀州征伐によって衰退するも、紀州国内の門徒の支援によって1768年に再興。
第二次世界大戦中の和歌山大空襲によって建造物は焼失。
1948年に再建され、その後に改築された建物が現在に残る。
2015年に実施された発掘調査では、御坊の南辺にあたる和歌山市立城北小学校のグラウンドで幅16m、深さ3mの堀跡が検出された。

正式名称は『本願寺鷺森別院』。
当時は「鷺森御坊」「雜賀御坊」「鷺森本願寺」とも呼ばれていた。 続きを読む

砂城 / 砂教会(大阪府四條畷市)

砂城

在地の土豪・結城左衛門尉忠正の居城。
築城時期は不明。

結城氏は室町時代初期に摂津国西成郡の分郡守護として名が見られ、室町幕府の奉行を務めていた一族。
戦国期には結城左衛門尉忠正が三好長慶に仕え、松永久秀に属した。
結城忠正は1563年に高山友照・清原枝賢らとキリスト教の洗礼を受け、畿内で活動するキリシタンの有力な庇護者として「結城殿」と称された。

時期は不明だが、自身の居城近くにキリシタン寺院(教会)を建設。
教会を中心とした砂の地は「砂の寺内」と呼ばれ、信徒3,500人が集まったと耶蘇会史通信使史料に記される。
1577年、結城弥平次(結城忠正の甥)によって砂の教会は破壊され、同地の東に位置する岡山に新しく教会が建てられた。
同じ頃、結城氏の本拠も岡山に移ったものと思われる。

1617年、砂の教会の跡地に法華宗寺院の妙法寺が創建され、現在に至る。
城の具体的な位置は不明であるものの妙法寺付近であることは明らかであり、妙法寺の前で東に折れ曲がる旧河内街道沿いにあった可能性が高いと考えられる。 続きを読む

勝楽寺館(滋賀県犬上郡甲良町)

勝楽寺館

佐々木道誉の隠居館。
1337年、室町幕府設立後に隠棲地として築城。

佐々木道誉(佐々木高氏)は足利尊氏に従い、室町幕府の設立に絶大な貢献を果たした人物。
鎌倉幕府執権・北条高時に御相伴衆として仕えていたが、足利尊氏に従って倒幕運動に参加。
室町幕府設立後は政所執事と若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津6ヶ国の守護を兼ねた。
1337年より勝楽寺に館を構えて隠棲し、78歳で亡くなるまで同地に居住した。

現在、城域には勝楽寺が建つ。
勝楽寺は1341年に佐々木道誉が東大寺の雲海和尚を開山として創建した臨済宗の寺院。
道誉の念持仏とされる大日如来坐像、道誉の三男・高秀の画による道誉画像(ともに重要文化財)が伝わり、境内には道誉の墓が建つ。 続きを読む

園城寺光浄院(滋賀県大津市)

園城寺光浄院陣所

織田信長が1568年の上洛の際に陣所として使用した寺院。
光浄院は室町時代に山岡資広が建立した園城寺内塔頭寺院のひとつ。

1568年、足利義秋(足利義昭)を奉じての上洛を進める織田信長は、観音寺城の六角氏を撃退。
10月24日に守山、10月26日には大津に到着し、園城寺光浄院に陣を置く。
その翌日に義昭と同地で合流し、入京を果たした。
1571年の比叡山焼き討ちの際には前日に光浄院に宿泊し、山岡景友らの接待を受けている。

現存する光浄院客殿は1601年に山岡景友が再興したもので、国宝に指定されている。 続きを読む

頂妙寺構(京都府京都市)

頂妙寺構

日蓮宗の寺院を城塞化した寺院城郭。
頂妙寺は1473年、日祝による創建。

下総国出身の僧・日祝が細川勝益から寺地の寄進を受け、1473年に創建。
創建当時の寺地は南を四条通、北を錦小路通、西を万里小路(現在の柳馬場通)、東を富小路通に至る範囲にあった。
1509年に新町長者町(現在の上京区元頂妙寺町)に、1523年には高倉中御門(現在の京都御苑内厳島神社付近)に移転した。
1536年に発生した天文法華の乱に備えて寺院を城塞化するも、焼失。
後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨により、1542年に旧地に再建された。

1673年、禁裏に隣接しているという理由で現在地に移転。
移転前の地は京都御苑の敷地内にあり、遺構および目印となるものは残されていない。 続きを読む

行願寺(京都府京都市)

行願寺

天台宗の寺院。
1004年、行円による創建。

天台宗の僧・行円が一条小川の一条北辺堂跡地に創建。
行円は日頃から鹿の皮をまとっていたことで「革聖」「皮仙」と称され、寺の名も『革堂』と呼ばれた。
1565年6月17日に起こった永禄の変において、将軍襲撃の首謀者の一人である三好義継が前夜に行願寺に宿陣したことが『天文日記』に記されている。
1590年、豊臣秀吉による都市整備に伴って寺町荒神口に移転。
1708年の大火の後、そこから南に下がった現在地に移転した。

創建当初の寺地は京都御苑の西方にあって、現在は住宅地となっている。
付近には革堂町・革堂仲之町・革堂西町の町名が残る。 続きを読む

刀根山砦(大阪府豊中市)

刀根山砦

1578年の有岡城の戦いにおける織田方の陣城のひとつ。
『信長公記』によると、稲葉貞通・氏家直昌・安藤定治・芥川某の4名が在陣した。

大阪モノレール柴原駅の南、常楽寺(刀根山御坊)が建つ高台にあったとされる。
常楽寺は1363年に豊島庄北轟木に建立された寺院で、1459年に同地に移転。
遺構は残っていないものの、豊中市および伊丹市の平野部を一望できる立地にあり、同地に城砦であったことを窺わせる。 続きを読む

阿星山観音寺陣所(六角高頼本陣)(滋賀県栗東市)

阿星山観音寺陣所

長享・延徳の乱(鈎の陣)における六角高頼方の陣所のひとつ。

観音寺は733年に南都の高僧・良弁が創建した法相宗の寺院。
嵯峨天皇をはじめとした歴代天皇によって厚く庇護され、僧房24宇の一大道場として賑わっていたとされる。
長享の乱(鈎の陣)では六角高頼が同寺に布陣し、足利義尚方との戦いで伽藍は尽く灰燼に帰した。
1687年、比叡山東塔北谷惣持坊の末寺となり、天台宗の寺院として復興。

阿星山の北西麓、集落を見下ろす位置に現在も観音寺が建つ。
寺は江戸時代の間に荒廃して無住寺となっていたが、近年になって住職が入山し、復興が進んでいる。 続きを読む

観音寺城(滋賀県近江八幡市)

観音寺城

佐々木六角氏代々の居城。
1335年、六角氏頼が観音正寺を城塞化したことが始まりとされる。
当時の六角氏の本城は観音寺城から南西に位置する金田館にあり、いつ頃から観音寺城が本城として機能したかは不明。
少なくとも氏頼以降、満高・満綱・持綱・久頼までは金田館を本城としており、高頼の代になって慈恩寺館、次いで観音寺城に本城を移したものと思われる。

応仁の乱で六角氏は西軍に属しており、東軍に与した京極持清に2度に渡って攻められ落城。
1469年、六角高頼は近江守護を解任され、代わりに京極持清が近江守護に就任。
それに激怒した高頼は前年の戦いで焼失した観音寺城を修築し、鎮圧に向かった多賀高忠と六角政堯を撃退。
観音寺城を奪還した。
1489年から1491年に及ぶ長享・延徳の乱、1502年の伊庭貞隆・行隆の反乱においても観音寺城を一時奪われているが、ともに奪還している。
1568年、織田信長の上洛軍に支城の箕作山城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃走。
その後、六角義賢は石部城を拠点に抵抗を続けるも観音寺城に戻ることは出来ず、そのまま廃城になったと思われる。
但し、元亀年間の改修と思われる石垣の痕が見られることから織田方の城として存続していた可能性も指摘される。

繖山(標高432.9m)の南腹斜面に築かれた山城。
築城当時は観音正寺を城塞化した簡易的な砦であったと思われるが、大永年間には城郭としての構えが完成していたとされる。
1532年に将軍・足利義晴を迎えるための大規模な改修が行なわれ、1550年頃には総石垣造りとなっていたことが発掘調査によって明らかとなった。
正確には把握されていないものの曲輪の数は1,000ヶ所以上あり、それらの曲輪は防御施設としてではなく、国人衆の居館が築かれていたものと考えられている。

1969年より2年間に渡って発掘調査が実施され、いくつかの曲輪の構造が明らかとなった。
特に大規模な曲輪が西尾根に連なる本丸・平井丸・池田丸、東端の淡路丸であり、それぞれに広い空間と居住用の施設、巨大な石垣と虎口を備えていたことが確認できる。
西尾根の標高395m地点にある本丸は幅4mの石段の先に広大な空間を有し、曲輪の内部からは建物礎石と貯水槽、排水設備などが検出された。
また、「二階御殿」と呼ばれる建物があったと思われている。
本丸の南側に隣接する平井丸は最大規模の曲輪となり、長さ32mに及ぶ虎口跡、潜り門、北東部には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見されている。
平井丸の南側にあって主要部の南端となる池田丸は南北2段の構造を持ち、周囲に土塀を巡らせた御殿と庭園、貯水槽などが検出された。
主要部の最東端にあって鬼門の方向に当たる淡路丸は50m四方の空間を土塁で囲み。その内外を石垣で固めた構造を持つ。
南西・西・北東に虎口を備え、南側には目賀田丸と呼ばれる土塁で囲まれた腰曲輪を備えている。
その他、絵図によると大手道沿いに宇野丸・久保丸・山崎丸、観音正寺境内に種村丸、北側の稜線沿いに三雲丸・高宮丸・和田丸・楢崎丸・永原丸・蒲生丸・沢田丸・三国丸・馬渕丸・馬場丸・三井丸・伊庭丸・大見付・進藤丸・後藤丸、東端に赤田丸・松岡丸・鯰江丸、西尾根周辺に佐野丸・小梅丸・伊藤丸・松吉丸・長束丸・三の丸・落合丸・木村丸などの曲輪があったことが確認できる。
また、追手道の麓にある天満宮は「御館」と呼ばれる六角氏の居館跡であるとされる。
三井丸と伊庭丸の中間付近に「佐佐木城址」の碑が建つ。

1982年、『観音寺城跡』として国史跡に指定。 続きを読む

武佐寺城(滋賀県近江八幡市)

武佐寺城

武佐寺を城塞化した寺院城郭。
1355年、足利尊氏が後光厳天皇を連れて「江州武佐寺」に逃れたことが『太平記』で確認できる。

1354年、足利直冬は足利尊氏と対立する諸勢力を率いて上洛。
足利尊氏は京を放棄し、後光厳天皇を連れて近江武佐宿の武佐寺へと避難した。
その1ヶ月後、尊氏は洛中で直冬方を敗って石清水八幡宮に敗走させ、京の奪還に成功した。

武佐寺の位置には諸説あるが、武佐宿内の広斉寺は建立時に「武作寺」を称して武佐の村名の由来になったとされる。 続きを読む

猪名寺砦(兵庫県尼崎市)

猪名寺砦

猪名寺を城塞化した寺院城郭。
築城時期は不明だが、永正年間の両細川の乱で陣城として利用された。

猪名寺の創建や由緒に関する文献史料はなく、発掘調査によって創建時期は飛鳥時代後期の白鳳時代と推定される。
1578年の有岡城の戦いで伽藍が焼失し、廃寺となった。

猪名川と藻川が分岐した藻川沿いの西岸に位置する。
佐璞丘公園の南西、法園寺の横に「猪名寺廃寺址」の碑が建つ。 続きを読む

常光寺城(兵庫県尼崎市)

常光寺城

浄光寺を城塞化した寺院城郭。
1360年、佐々木秀詮による築城。

佐々木秀詮は佐々木秀綱の長男で、祖父・佐々木高氏(佐々木道誉)が摂津守護となったことに伴って摂津に派遣された。
しかし、1362年に南朝方の楠木正儀・和田正武らと摂津渡辺で戦い、戦死している。
その後の城の動向は不明だが、1578年の有岡城の戦いで織田方に攻められ落城している。

現在、城域には皇大神社が建つ。
皇大神社は1700年に同地の代官・藤田庄衛門の助力によって再建、社殿が造営され、現在に至る。
社殿と北側の鳥居は再建当時のものが残存しており、1928年に拝殿・弊殿・本殿の覆殿が造営された。 続きを読む

正覚寺陣所(浦上則宗陣)(滋賀県草津市)

正覚寺陣所

長享・延徳の乱(鈎の陣)における足利義尚方の陣所のひとつ。
1487年、六角高頼討伐のために浦上則宗が布陣した。

浦上則宗は「上笠の正覚寺」に陣を敷き、義尚方の先鋒として甲賀郡に攻め入る。
しかし、六角高頼が姿を眩ませたために長期戦となった。
翌年5月に甲賀衆によって陣を焼かれており、本国の播磨では山名氏との戦闘が続いていたことから浦上則宗がいつ頃まで在陣を続けたかは不明。

正覚寺は草津市上笠地区にあったが、現在は消滅している。
西教寺の東側付近にあったとされるも周辺は住宅地となり、痕跡はない。 続きを読む

伊岐代城(滋賀県草津市)

伊岐代城

印岐志呂神社を城塞化した城砦。
1335年、比叡山の僧・宥覚が印岐代宮(印岐志呂神社)に砦を築いたことが始まりとされる。

1335年12月、後醍醐天皇の足利尊氏討伐に呼応した宥覚は僧兵千人を集め、印岐代宮に砦を築いて拠点とした。
京に向かう尊氏軍の背後を突こうとしたものの高師直の軍に急襲され、砦は一夜で陥落。
この戦いで宥覚をはじめ多くの僧兵が戦死し、生き残った者は船で対岸の坂本に逃れたとされる。

1572年に六角氏の残党が挙兵した際には織田氏の軍勢が乱入し、近江南部平定の拠点のひとつとしている。
度重なる戦火で神社は焼失したが、慶長年間に芦浦観音寺と長束正家の手によって社殿が復興。
大坂の陣の前には徳川家康が武運長久の祈願のために立ち寄ったとされる。

志那港と中山道を結ぶ志那街道と浜街道の交点に位置する。
現在も城域には印岐志呂神社が建つ。
境内の正面には石垣が築かれ、その両脇に土塁と堀を巡らせて外枡形の虎口を形成。
境内の西端に溝と低土塁、東端に低土塁と思われる地形が確認でき、社殿は周囲より僅かに高くなっている。
但し、それらが城の遺構であるかは不明。
元は不規則な多角形をした平坦地を持ち、その周囲を土塁と堀で囲っていたとされる。 続きを読む

蓮光坊構(兵庫県加古川市)

蓮光坊構

三木合戦における羽柴秀吉方の陣所のひとつ。
1578年、志方城と神吉城を攻める羽柴方の後詰が陣を置いたとされる。

1578年、羽柴秀吉は別所氏に与した志方城の櫛橋氏、神吉城の神吉氏を攻めるために蓮光坊に布陣。
境内の大きな松の木に陣鐘を吊るし、指揮を取ったと伝わる。

蓮光坊は蓮如の教化によって開基した浄土真宗の寺院。
後に蓮光寺、妙正寺と改号され、現在に至る。
羽柴秀吉が陣鐘を吊るしたとされる松は「釣鐘松」と呼ばれていたが、1947年に害虫被害で枯れている。
境内の太鼓楼には、秀吉にゆかりのある「刻告げの太鼓」が現存する。 続きを読む

長寿寺陣所(浦上則宗陣)(滋賀県湖南市)

長寿寺陣所

延徳の乱(第二次六角征伐)における足利義材方の陣所のひとつ。
1491年、義材方の先鋒を務めた浦上則宗が陣を敷いたとされる。

浦上則宗は主君・赤松政則とともに出陣し、長寿寺に在陣。
六角高頼の陣代である山内政綱を討つなど功を挙げ、1492年には高頼の軍を破って甲賀に敗走させた。
その後、高頼が伊賀を経て伊勢へと逃れたことで義材方は討伐を断念。
六角虎千代(六角政堯の養子)を近江守護に任命し、六角征伐は終了した。

長寿寺は奈良時代に聖武天皇の勅願によって創建された天台宗の寺院。
室町時代には足利将軍家が祈願所としている。
安土城内にある三重塔は元は長寿寺にあり、織田信長によって摠見寺に移築された。 続きを読む

本圀寺(京都府京都市)

本圀寺

日蓮宗(法華宗)の大本山。
1253年に法華宗の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことが始まり。

1345年、第4世・日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転。
寺地は北は六条坊門(現在の五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めていた。
足利将軍家の庇護を受け、1398年には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。
1536年、天文法華の乱で焼失。
1542年に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を出し、1547年に再建された。

1568年、足利義昭が織田信長の支援で上洛を果たすと、仮御所として機能。
翌年の1569年、三好三人衆が足利義昭を襲撃する事件が発生。(本圀寺の変)
防衛上の脆弱さから新たな御所として二条城が建築されることとなり、その際に寺の建物の一部が解体、移築され、屏風や絵画なども運び出された。

1969年、京都市郊外の東山区山科(現在の山科区)に移転。
跡地は本願寺聞法会館と、その駐車場となっている。 続きを読む

本能寺(京都府京都市)

本能寺

法華宗本門流の大本山。
1415年、日隆による創建。

創建当時の寺号は「本応寺」。
開祖の日隆は法華経の解釈を巡って妙本寺5世・月明と対立し、1418年に同地を追われる。
1429年に帰洛し、1433年に如意王丸という人物から土地の寄進を受けて再建。
そのとき、寺号を「本能寺」に改めた。
室町時代後期には足利将軍家の庇護を受け、洛中法華21ヶ寺のひとつとして栄えた。

戦国期には織田信長が入洛時の宿所として使用。
1582年6月21日未明、少数の供を連れて宿泊中の織田信長を明智光秀率いる1万3千の軍勢が襲撃。
信長以下32名と中間衆24名が討死・自害した。(本能寺の変)
1591年、豊臣秀吉の命で現在の京都市中京区下本能寺前町に移転、再建された。

東は西洞院通、西は油小路通、南は蛸薬師通、北は六角通に囲まれた寺域を有し、その規模は東西約140m、南北約270mに及ぶ広大なものであったとされる。
2007年に実施された発掘調査により、城郭を思わせる堅牢な防御施設があったことが判明。
周囲には土塁が巡らされ、その外側に石垣を施した幅約4m・深さ約1mの堀が巡らされていたことが確認された。
また、本能寺の変のときと思われる焼けた瓦が多数出土している。

現在、同地には京都市立堀川高等学校本能学舎と高齢者福祉施設、カフェなどが建つ。 続きを読む

敏満寺城(滋賀県犬上郡多賀町)

敏満寺城

敏満寺が城塞化した寺院城郭。
敏満寺は飛鳥時代に胡宮神社境内に建てられた天台宗の寺院。
中世には48伽藍120坊を擁する湖東一大寺院として勢力を誇り、佐々木氏(京極氏・六角氏)との対立の過程で城塞化したものと考えられる。

1562年、浅井氏から離反した久徳城主・久徳実時を支援したとして、浅井長政に攻められる。
胡宮神社の神官・新谷伊豆守勝経を始めとした800人が応戦するも戦死し、堂宇は尽く焼け落ちた。
寺は翌年に再建されるも1572年に織田信長の焼き討ちによって残る坊舎を焼かれ、寺領を没収。
敏満寺はそのまま廃され、慶長年間から始まった彦根城築城に際して建物の礎石が運び去られている。

青龍山(敏満寺山)の西麓、舌状台地の先端に位置する。
名神高速道路上りの多賀サービスエリア敷地内に土塁の一部と枡形虎口、それに付随する櫓台の跡が良好な状態で残存。
下りのサービスエリア敷地内と胡宮神社の境内にも土塁の遺構が残る。
敏満寺の寺域と城域が離れているため、寺院自体が城塞化したのではなく独立した出城として構築された可能性が指摘される。 続きを読む

多賀城(滋賀県犬上郡多賀町)

多賀城

河瀬氏の支城のひとつ。
築城時期は不明だが、城主に多賀大社の神官「河瀬主馬」の名が確認できる。
河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に勢力を持つ一族で、中世末期には大神主として多賀大社の実権を握っていた。

多賀大社の南、西徳寺が城域とされる。
西徳寺は736年創建の寺院で、835年に法相宗から天台宗に、1505年に浄土真宗に改宗。
1570年に浅井氏と織田氏の争による戦火で焼失し、1573年には石山合戦に参加した門徒760人が戦死したとされる。 続きを読む

四十九院城(滋賀県犬上郡豊郷町)

四十九院城

唯念寺が城塞化した寺院城郭。

唯念寺は731年に行基によって創建された法相宗の寺院で、行基が49番目に建立したことから当初は『四十九院』と呼ばれていた。
後に天台宗に改宗し、1506年に本願寺実如が一向宗の道場とした。
1580年、寺名を『唯念寺』に改める。

1351年、北畠親房と楠木正儀の侵攻によって京を追われた足利義詮が同寺に一時避難し、陣所としている。
翌年に3万の軍勢を整えた義詮は佐々木道誉と共に草津山田から堅田を経由して京に攻め入り、京の奪還に成功した。
1353年に再び京を追われた際にも、後光厳天皇を奉じて同寺に下向している。
1570年に織田氏と石山本願寺の対立が激化すると、四十九院の門徒200名が石山本願寺を救援するために挙兵。
安土付近で織田方と戦闘になり、多くの門徒が戦死した。
1615年の大坂夏の陣では、彦根藩の要請で大坂方の後方攪乱と周辺の一揆に対する警戒を担ったとされる。

同地には現在も唯念寺が建つ。 続きを読む

金蓮寺(四条道場)(京都府京都市)

金蓮寺陣所

洛中・洛東における戦いで陣所として利用された寺院。
金蓮寺は1311年に浄阿真観が後伏見上皇より祇陀林寺を賜り、寺院の名を『金蓮寺』と改めたことに始まる。

1356年、佐々木道誉が一族の戦死者を弔うために宅地を寄進。
足利義満の庇護を受け、1489年に足利義尚の葬儀が同寺で行なわれるなど、足利将軍家との関係を深めた。
戦国期には洛中・洛東における戦いで陣所として利用され、1558年の北白川の戦いでは三好長慶が同地に陣を置いて足利義輝・細川晴元と対峙。
1573年に織田信長が足利義昭追放のために入洛した際、同地に陣を置いている。
寺院は度々焼失しては再建を繰り返したが、1864年の禁門の変で類焼したことを最後に現在の京都市北区鷹峯に移転した。

東西を浄心寺から新京極通、南北を四条通から新京極公園付近までを範囲とする方形の区画にあったとされる。
その立地から『四条道場』とも呼ばれた。 続きを読む

妙覚寺(京都府京都市)

妙覚寺

日蓮宗の本山(由緒寺院)。
1378年、妙顕寺の僧であった日実が小野妙覚の外護を受けて創建。

創建当時は四条大宮にあったが、1483年に足利義尚の命で二条衣棚に移された。
1536年の天文法華の乱で焼失。
1542年に後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、1548年に同地に再建された。
1572年、織田信長が入洛時の宿所として使用している。

1582年6月21日に発生した本能寺の変では、前日より信長の嫡男・織田信忠が宿所としていた。
信忠は変を察すると東隣の二条殿に移って明智光秀の軍勢に応戦し、戦死。
そのときに二条殿が焼失したことが『兼見卿記』などから確認できるが、妙覚寺に戦火が及んだかは不明。
1583年、豊臣秀吉の命で現在の京都市上京区清蔵口町に移転した。

現在、同地には「上妙覚寺町」「下妙覚寺町」の地名が残るに留まり、当時の面影を伝えるものはない。 続きを読む

補陀楽寺城(滋賀県甲賀市)

補陀楽寺城

大原氏の支城のひとつ。
築城時期は不明だが、大原城の支城として大原氏の一族が築城。

1585年、甲賀衆は羽柴秀吉によって所領を一斉に没収され(甲賀破議)、大原氏は同地を離れた。
補陀楽寺城も同時期に廃城になったものと考えられる。

JR甲賀駅から北西に1kmほど向かった線路沿いにある補陀楽寺境内および大原市場公民館が城域とされる。
補陀楽寺を城塞化した寺院城郭であり、50m四方の方形単郭の構造であったと考えられる。
境内の北面と東面に高さ2m、長さ30mほどに渡って土塁の一部が残存する。
かつては西面にも土塁が残っていたが、公民館の建設によって消滅。
1995年に実施された発掘調査で土塁下層の溝跡から戦国期の遺物が出土しており、土塁は戦国時代末期に築かれたものと推定される。

線路を隔てて南東に位置する市場陣山城は、詰めの城であったと考えられている。 続きを読む

佐井寺城(大阪府吹田市)

佐井寺城

山田城の支城のひとつ。
山田城に香西玄蕃が入城した応仁年間の築城と考えられる。

千里丘陵の一角、佐井寺付近にあったと推測される。
佐井寺は677年に道昭が建立した真言宗の寺院。
天正年間に戦火で伽藍坊舎が焼失し、1647年に楽順によって再興された。
当時の領主であった京都所司代・板倉重宗が寄贈した梵鐘が現存する。 続きを読む

尾山御坊 / 尾山城 / 金沢城(石川県金沢市)

金沢城

加賀藩・前田氏代々の居城。
1587年、前田利家が尾山城を大規模に改修して築城。
尾山城は元は加賀における本願寺の拠点・尾山御坊(金沢御堂)であり、1580年に佐久間盛政が攻め落として入城。
そのときに「金沢城」と改称され、1583年に前田利家が入城した際に「尾山城」と改められた。
「金沢城」の名称が再び定着したのは1600年以降と考えられる。

1587年から始められた改修で曲輪や堀が拡張され、5重の天守や多数の櫓が建築された。
天守は1602年に落雷で焼失。
1606年には本丸も焼失し、1631年の大火を機に二の丸の拡張と辰巳用水の整備が進む。
1759年の火災で城の大部分を焼失。
以降、本丸部分の再建はされず、二の丸に建てられた御殿が藩庁となる。
周囲には大手堀・いもり堀・百間堀・白鳥堀が巡らされ、防衛のために城下町に多くの寺社が建てられた。
5代藩主・前田綱紀が大名庭園『兼六園』を造営。
当時、兼六園は石川門から土橋で連結され、百間堀と白鳥堀を分断していた。

明治維新後も存城し、軍施設として利用される。
戦後、軍の第九師団司令部庁舎が金沢大学本部となり、1995年まで丸の内キャンパスが置かれていた。

現存建造物として石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫が城内に残存し、それぞれ重要文化財に指定。
その他にも、切手門・二の丸御殿唐門・二の丸能舞台・玉泉院丸太鼓塀などが移築現存する。
また、城内には多種多様の石垣が存在し、1592年に構築された本丸東側の高石垣を始め、慶長・元和年間の外郭整備、寛文期、宝暦・安永期、享和・文化期の修築により、技術の進歩と使い分けによって様々な様式の石垣が城内に共存する。
現在に伝わる縄張りは、1631年の大火による再整備をもって完成したとされる。

1999年から復元整備事業が始まり、2001年に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元。
2006年から第2期復元整備事業が進められ、2014年までに石川門の保存修理、橋爪門二の門・河北門・いもり堀(一部)の復元、玉泉院丸跡の整備が完成した。
二の丸御殿の復元も計画されているが、現時点では「絵図・文献資料の解読に一定期間が必要であり、復元は困難」との考えが示されている。
2008年、『金沢城跡』として国史跡に指定。 続きを読む

徳昌寺城(滋賀県東近江市)

徳昌寺城

臨済宗妙心寺派の寺院・徳昌寺の境内にあったとされる城。
築城時期など、詳細は一切不明。

上羽田町内の北、徳昌寺の境内に大規模な土塁と堀跡が現存。
60m四方の範囲に高さ4mほどの土塁が確認できる。
周囲には堀が巡らされ、その幅は4m、深さは1m程度と推測される。
南東部には櫓台と思われる若干の高まりが見られ、北西部の外側には井戸跡が残る。
本格的な防御機構が確認できるが、その詳細は明らかでない。 続きを読む

正覚寺城(大阪府大阪市)

正覚寺城

室町幕府管領・畠山政長の陣城。
1477年、応仁の乱において畠山政長が正覚寺に布陣したことが始まりとされる。

正覚寺が城塞化した寺院城郭。
1477年、河内に下向してきた畠山義就に攻められ、政長は領国を追われた。
政長はその後も正覚寺城を拠点に河内奪還のための戦いを続けるも、1493年に明応の政変が起こると孤立。
畠山義豊に攻められて城は落城し、政長は自害した。(正覚寺合戦)
1496年に河内守護・遊佐氏と誉田氏が同地で水利権を巡って合戦に及んでいることが確認できる。
1577年には石山本願寺攻めのために織田方が陣を置いている。

現在、城域には旭神社が建つ。
境内中央の木の茂みに城址を示す碑が建つ。
正覚寺は1493年の落城をもって廃寺となり、1962年に現在の位置に再建された。 続きを読む

総持寺砦(大阪府茨木市)

総持寺砦

1578年の茨木城攻めにおける織田方の本陣。

1578年、荒木村重が織田氏に謀叛を起こすと、茨木城主・中川清秀は縁故の村重に味方。
織田方は総持寺跡(1571年に織田氏の焼き討ちによって焼失)の台地に砦を築いて茨木城攻めの本陣とし、織田信澄が入城した。
同年に茨木城が開城すると砦は使用されなくなり、そのまま廃されたものと思われる。

総持寺は1607年に徳川家康の命により、片桐且元が再建をした。 続きを読む