タグ別アーカイブ: 寺内町

眞鍋城(大津城)/ 大津寺内(大阪府泉大津市)

眞鍋城

在地の土豪・眞鍋氏の居城。
築城時期は不明だが、鎌倉時代初期には城館が存在したと伝わる。

眞鍋氏は元は日根郡淡輪村の在地土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が和泉郡大津村に城館を構えて在城した。
同地には鎌倉時代初期から城館が存在していたと考えられ、城主に斎藤民部大輔・斎藤主膳正らの名が見られる。
そのことから元は斎藤氏(和泉守護代を努めた斎藤氏の一族か)の城館があり、その後に眞鍋氏が入城したものと思われる。
戦国期には織田氏に従い、眞鍋貞友が1576年の第一次木津川口の戦いに水軍を率いて参戦し、戦死している。
眞鍋貞友の跡を継いだ眞鍋主馬大夫貞成は蜂屋頼隆に属して1582年の甲州征伐に従軍し、1584年の紀州征伐では水軍を率いて菅達長の水軍を破ったほか、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍している。
関ヶ原の戦い後、眞鍋貞成は福島正則に4千石で仕えた後に浪人を経て紀州藩士となっているが、その後の眞鍋氏の動向は不明。

城は天正年間に廃城になったと思われる。
眞鍋城の跡地には伯太藩主・渡辺氏の菩提寺である長泉寺(現在の南溟寺)が建立され、釣屋道場(現在の強縁寺)・東右衛門道場(現在の緑照寺)とともに大津寺内を形成した。

現在も同地には南溟寺が建ち、本堂前に城址碑が建つ。
1679年の絵図には境内の周囲を四角く囲んだ堀が描かれている。 続きを読む

鷺森御坊(和歌山県和歌山市)

鷺森御坊

紀伊国おける一向宗(浄土真宗)の別院。
1476年、紀伊国冷水浦に建てられた冷水道場が始まり。

1693年成立の『鷺森旧事記』によると、冷水浦の住人・喜六大夫が熊野参詣の途上で冷水浦を訪れた蓮如に帰依し、1476年に冷水道場を建立したとされる。
その後、道場は1507年に名草郡の黒江、1550年に和歌浦弥勒寺山に移り、1563年に雑賀庄鷺森に移転。
同地には石山本願寺から退去した顕如が1580年から1583年にかけて滞在しており、浄土真宗の本拠地として位置付けられていた。

戦国時代末期に羽柴秀吉による紀州征伐によって衰退するも、紀州国内の門徒の支援によって1768年に再興。
第二次世界大戦中の和歌山大空襲によって建造物は焼失。
1948年に再建され、その後に改築された建物が現在に残る。
2015年に実施された発掘調査では、御坊の南辺にあたる和歌山市立城北小学校のグラウンドで幅16m、深さ3mの堀跡が検出された。

正式名称は『本願寺鷺森別院』。
当時は「鷺森御坊」「雜賀御坊」「鷺森本願寺」とも呼ばれていた。 続きを読む

砂城 / 砂教会(大阪府四條畷市)

砂城

在地の土豪・結城左衛門尉忠正の居城。
築城時期は不明。

結城氏は室町時代初期に摂津国西成郡の分郡守護として名が見られ、室町幕府の奉行を務めていた一族。
戦国期には結城左衛門尉忠正が三好長慶に仕え、松永久秀に属した。
結城忠正は1563年に高山友照・清原枝賢らとキリスト教の洗礼を受け、畿内で活動するキリシタンの有力な庇護者として「結城殿」と称された。

時期は不明だが、自身の居城近くにキリシタン寺院(教会)を建設。
教会を中心とした砂の地は「砂の寺内」と呼ばれ、信徒3,500人が集まったと耶蘇会史通信使史料に記される。
1577年、結城弥平次(結城忠正の甥)によって砂の教会は破壊され、同地の東に位置する岡山に新しく教会が建てられた。
同じ頃、結城氏の本拠も岡山に移ったものと思われる。

1617年、砂の教会の跡地に法華宗寺院の妙法寺が創建され、現在に至る。
城の具体的な位置は不明であるものの妙法寺付近であることは明らかであり、妙法寺の前で東に折れ曲がる旧河内街道沿いにあった可能性が高いと考えられる。 続きを読む

三箇城(大阪府大東市)

三箇城

飯盛城の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、三箇氏による築城と考えられる。

三箇氏は元は大和国宇智郡に住した一族で、鎌倉時代中期に佐藤頼之の子・包頼が河内国讃良郡三箇村に移って「三箇包頼」と名乗ったことが始まりとされる。
永禄年間に三箇頼照が三好長慶に仕え、三好氏の支配下となる。
1561年、三好氏と対立した畠山高政に攻められ落城。
しかし、その後も三箇城は三好氏の本城である飯盛城の西の出城として機能した。
1573年に三好義継が自害すると織田信長に属し、所領を安堵される。

1563年、キリスト教の洗礼を受けた三箇伯耆守頼照(洗礼名サンチョ)は城内に教会を建設。
領内に1,500名の信徒を保護し、三箇の地は畿内におけるキリシタン信仰の拠点となった。
頼照が築いた教会は「五畿内で最も大にして美麗」と称えられ、湿地帯に囲まれた3つの島に浮かぶ様相をルイス・フロイスは「教会は水に囲まれた小さい島にある」と報告している。
1582年、本能寺の変で明智光秀に与したことで羽柴秀吉方に攻められ落城。
その後は白井氏の居城となるが、1587年のキリスト教禁止令(バテレン追放令)により廃城となった。

現在の三箇菅原神社付近にあったと伝わるが、詳しい位置は不明。
神社の前には城址を示す碑が建つ。
飯盛城を背後にして河内平野を臨む位置にあり、飯盛城の西側の防衛を担う要地であったことが窺える。 続きを読む

富田寺内(大阪府高槻市)

富田寺内

本願寺の寺院・教行寺を中心とした寺内町。
1476年、蓮如が室町幕府管領・細川勝元から土地を寄進され、寺院を建立したことが始まり。

寺院は富田道場と呼ばれ、1498年に蓮芸(蓮如八男)が住持となる。
道場を中心に寺内町が形成され、北摂における一向宗のの布教拠点として隆盛を極めた。
1532年、室町幕府管領・細川晴元と対立し、富田道場と寺内町は尽く焼失。(享禄・天文の乱)
1536年に晴元が日蓮宗側と対立して天文法華の乱が起こると、道場の再建が許され、再び寺内町が形成された。
蓮如がこの地で『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を書き写したことから、寺院は後に『教行寺』と称されるようになる。

1594年に実施された検地で寺内町を含む富田村一帯には436の屋敷地があり、同地域の政治的中心地である高槻村を上回る規模であったとされる。
しかし、検地を境に寺内町としての特権を失い、宿場町としての機能は西国街道の整備に伴って芥川宿へと移行した。

現在も同地に建つ教行寺を中心に細い路地に民家が密集しており、寺内町の雰囲気を残す。
県道132号線を南東端として阪急線・JR線に向かって上り坂が続く地形が、寺内町全体が台地上にあったことを窺わせる。 続きを読む

天満寺内(大阪府大阪市)

天満寺内

本願寺の寺院・天満本願寺を中心とした寺内町。
1585年、顕如が豊臣秀吉より寺地を寄進され、寺院を建立したことが始まり。

1580年、本願寺11世・顕如は石山合戦における和睦の条件として石山本願寺を織田氏に明け渡し、紀伊国鷺森に退去。
1585年、豊臣秀吉は顕如を大坂に呼び戻し、大坂城から大川を挟んだ北側の天満の地に寺地を寄進した。
新しく建立された寺院は「天満本願寺(中島本願寺、川崎本願寺とも)」と呼ばれ、大坂城下の整備とともに寺院の西側に寺内町が形成された。
1591年、本願寺は京の六条堀川に移転。
天満本願寺の跡地には1601年に東本願寺天満別院が置かれるも、1608年に移転。
大坂の陣が終結した1616年に川崎東照宮が創建された。

本願寺の移転後も寺内町は存続。
大坂城が江戸幕府の直轄地となった1619年頃、大坂城下に取り込まれたものと思われる。
後に「天満組」という町組が組織され、大坂三郷と呼ばれる大坂城下の一画を担うまでに発展した。

天満本願寺は現在の造幣局付近に位置していたとされる。
大阪天満宮の南側にある滝川公園内に「天満組惣会所跡」の碑が建つ。 続きを読む

赤野井寺内(滋賀県守山市)

赤野井寺内

本願寺の寺院・顕証寺(赤野井別院)を中心とした寺内町。
1339年、本願寺の僧・存覚(本願寺三世・覚如の長男)が寺院を建立し、布教の拠点としたことが始まりとされる。
1465年、比叡山延暦寺による大谷本願寺の打ち壊しに遭った蓮如が同地に道場を開いた。

赤野井は野洲川西岸に広がる平野部のほぼ中心にあり、赤野井港を擁して守山から大津へと続く街道の中継地として栄えた土地。
蓮如が道場を開く以前より本願寺との関連が深く、近隣の金ヶ森とともに湖南地域における本願寺門徒の重要な布教拠点となった。
元和年間に蓮如の六男・蓮淳が顕証寺(赤野井別院)を建立。
その後、寺院は本願寺派の西別院と大谷派の東別院に分かれた。

寺内町の範囲は明らかではないが、現在も赤野井別院を中心に多くの寺院が建ち並ぶ。 続きを読む

近松寺内(滋賀県大津市)

近松寺内

本願寺の寺院・顕証寺(近松寺)を中心とした寺内町。
1469年、蓮如が園城寺より近松寺の寺領を分与されて寺院を建立したことが始まり。

1468年、比叡山延暦寺による堅田への攻撃を察した蓮如は、堅田を出て園城寺へ避難。
その翌年に園城寺より近松寺の寺領を分与され、顕証寺を建立した。
寺院は長男・順如、その死後は六男・蓮淳が継承。
1518年に「顕証寺」の寺号は久宝寺御坊へと引き継がれている。
江戸時代には寺院を中心に末寺と門前町が取り囲む寺内町を形成し、大津代官の支配から離れた独自の統治が行なわれていた。

1945年、陸軍の命によって寺院は取り壊された。
1981年に現在の建物が再建される。
一般には「近松別院」「近松御坊」と呼ばれる。 続きを読む

尾山御坊 / 尾山城 / 金沢城(石川県金沢市)

金沢城

加賀藩・前田氏代々の居城。
1587年、前田利家が尾山城を大規模に改修して築城。
尾山城は元は加賀における本願寺の拠点・尾山御坊(金沢御堂)であり、1580年に佐久間盛政が攻め落として入城。
そのときに「金沢城」と改称され、1583年に前田利家が入城した際に「尾山城」と改められた。
「金沢城」の名称が再び定着したのは1600年以降と考えられる。

1587年から始められた改修で曲輪や堀が拡張され、5重の天守や多数の櫓が建築された。
天守は1602年に落雷で焼失。
1606年には本丸も焼失し、1631年の大火を機に二の丸の拡張と辰巳用水の整備が進む。
1759年の火災で城の大部分を焼失。
以降、本丸部分の再建はされず、二の丸に建てられた御殿が藩庁となる。
周囲には大手堀・いもり堀・百間堀・白鳥堀が巡らされ、防衛のために城下町に多くの寺社が建てられた。
5代藩主・前田綱紀が大名庭園『兼六園』を造営。
当時、兼六園は石川門から土橋で連結され、百間堀と白鳥堀を分断していた。

明治維新後も存城し、軍施設として利用される。
戦後、軍の第九師団司令部庁舎が金沢大学本部となり、1995年まで丸の内キャンパスが置かれていた。

現存建造物として石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫が城内に残存し、それぞれ重要文化財に指定。
その他にも、切手門・二の丸御殿唐門・二の丸能舞台・玉泉院丸太鼓塀などが移築現存する。
また、城内には多種多様の石垣が存在し、1592年に構築された本丸東側の高石垣を始め、慶長・元和年間の外郭整備、寛文期、宝暦・安永期、享和・文化期の修築により、技術の進歩と使い分けによって様々な様式の石垣が城内に共存する。
現在に伝わる縄張りは、1631年の大火による再整備をもって完成したとされる。

1999年から復元整備事業が始まり、2001年に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元。
2006年から第2期復元整備事業が進められ、2014年までに石川門の保存修理、橋爪門二の門・河北門・いもり堀(一部)の復元、玉泉院丸跡の整備が完成した。
二の丸御殿の復元も計画されているが、現時点では「絵図・文献資料の解読に一定期間が必要であり、復元は困難」との考えが示されている。
2008年、『金沢城跡』として国史跡に指定。 続きを読む

だいうすの城(京都府京都市)

だいうすの城

京におけるキリシタン集住地のひとつ。

集住地が形成された時期は不明だが、1587年のバテレン追放令をもって京のキリシタン勢力は衰退。
寛文年間に成立した京の地誌『京雀』では、豊臣秀吉によって破却されたとされる。
1602年、同地にイエズス会の修道院が建てられる。
1605年には洋式の大聖堂が建てられ、周辺には再びキリシタンの町が形成された。

菅大臣神社の南側、菊屋町を中心とした高辻通・西洞院通・新町通・松原通に囲まれた区画一帯が城域とされる。
中心地である菊屋町は、かつて「ダイウス町」と呼ばれていた。
四方を堀で囲み、集住地全体を城塞化したものと考えられる。 続きを読む

金ヶ森御坊(滋賀県守山市)

金ヶ森御坊

湖南地方における一向宗の布教拠点。
1465年、大谷本願寺の打ち壊しに遭った本願寺第8世法主・蓮如が布教の拠点を移すため、堅田衆の援助を得て道場を開いたことが始まりとされる。

金ヶ森は東山道と琵琶湖を結ぶ街道沿いの要地であり、戦国期には道場を中心に寺内町として発展。
元亀年間には織田信長との抗争のために要塞化するも、1571年に落城した。

寺内町の範囲は明らかではないが、天保年間に描かれた村絵図が残る。
それによると、金ヶ森御坊と向かいの善立寺を中心に現在の金森町・大門町・三宅町一帯に広がっていたと考えられる。 続きを読む

大坂本願寺(石山本願寺)(大阪府大阪市)

石山本願寺

浄土真宗の本山。
正式には『大坂本願寺』と呼ぶ。
1533年に山科本願寺から祖像が移されたことで浄土真宗の本山となる。

細川晴元や織田信長ら畿内の覇者と度々衝突し、特に織田氏とは11年に渡って抗争を続けた。
1580年、正親町天皇の調停で織田氏との和議が成立。
寺領を明け渡す。

大坂の中心地・上町台地の北端に建ち、北側を流れる淀川と大和川を自然の堀に見立て、寺域の周囲を空堀と土塁で囲んだ城郭寺院。
1496年に御坊として始まって以降、長い年月をかけて次第に城塞化し、織田氏との抗争の折には周囲に51ヶ所もの砦を構築していたとされる。
その堅牢な立地は大坂城へと受け継がれた。 続きを読む