タグ別アーカイブ: 平山城

出石城(兵庫県豊岡市)

出石城

出石藩の藩庁。
1604年、小出吉英による築城。

1580年、有子山城の山名堯熙が織田氏に降伏し、戦国大名としての但馬山名氏は滅亡。
有子山城には1585年に前野長康、1595年に小出吉政が入城した。
関ヶ原の戦いで小出吉政は西軍に属したものの、東軍に属した弟・小出秀家の功によって6万石の所領を安堵され、出石藩が成立。
1604年、小出吉政の和泉国岸和田藩への転封に伴い、嫡男・小出吉英が出石藩を継承した。
その際、有子山城の山上部分の曲輪および天守を廃し、山麓の曲輪と館のみを居城とするように幕府に申請。
城は『出石城』と命名され、出石藩代々の居城となる。

1696年に9代藩主・小出英及が3歳で死去すると小出氏は無嗣断絶となり、松平忠周が4万8千石で入領。
1706年に松平忠周が信濃国上田藩へ転封となると仙石政明が5万8千石(後に3万石に減封)で入領し、明治維新に至るまで9代に渡って同地を統治した。

有子山の北西山麓に築かれた平山城。
主要部は最上段の稲荷曲輪から雛壇状に曲輪が展開され、本丸・二の丸・下曲輪と続く梯郭式の構造を持つ。
麓には谷山川を隔てた正面の平地に三の丸、主要部の西側下に西の丸が展開され、三の丸は川と水堀で囲まれていた。
また、本丸の東側には東西に細長い山里曲輪が配されている。
築城当時より天守は存在せず、本丸の四隅に櫓が建てられていた。
小出氏の統治時代には本丸に藩主邸宅、二の丸に政庁があったが、松平忠周の代に三の丸に対面所を築いて政庁を移している。
小出吉英の代に城下町が整備され、現在の出石の町並みの基礎が形成されたと考えられる。

1871年、廃城。
建物はすべて取り壊されたものの主要部の石垣がほぼ完存し、三ノ丸北辺の水堀が現存する。
1968年、出石町史跡(後に豊岡市史跡)に指定。
同年に本丸東隅櫓および西隅櫓が、1994年には登城橋および登城門が復元された。
三の丸跡には豊岡市役所出石総合支所(旧出石町役場)が建ち、西の丸跡の一部は駐車場になっている。
現存する水堀の周囲は「登城橋河川公園」として整備され、1871年建造の辰鼓楼(元は城主の登城を知らせる太鼓を叩く楼閣、1881年に現在の時計台となる)をシンボルとした観光名所となっている。
1989年に城下町の景観形成に向けた計画が策定され、町並み調査を開始。
城下町に残る歴史的建造物の保存活用活動が展開された。

2017年、有子山城とともに続日本100名城に選定。 続きを読む

木崎城 / 豊岡城(兵庫県豊岡市)

豊岡城

山名氏の支城のひとつ、のちに豊岡藩初期の藩庁。
時期は不明だが、山名持豊が此隅山城の出城として築城。

詳しい時期は不明だが、此隅山城の出城として山名持豊が築城したことに始まる。
長享年間には播磨攻めから撤退する山名政豊に従って但馬に戻った田公肥後守豊職が木崎城に拠り、山名俊豊擁立を望む諸将の動きに抵抗している。
戦国期には垣屋氏が城主に配されて同地での勢力を強め、1575年以降は垣屋豊続の影響下として木崎城は轟城の支城網に組み込まれたものと思われる。

1580年に山名氏の本城である有子山城が落城すると、宮部継潤が入城。
同地は「豊岡」と改められ、城の改修と城下町の整備が進められた。
1582年に宮部継潤が鳥取城に転封となった後は木下重堅、尾藤知定、明石則実、福原道高と城主が替わり、1598年に杉原長房が2万石で入領。
しかし、杉原氏は3代・重玄のときに無嗣子断絶で改易となり、豊岡は幕府領となった。
1668年に京極高盛が3万5千石で入領するも山麓に陣屋が築かれ、豊岡城はそれまでに廃城になったものと思われる。

神武山(標高48m)一帯に築かれた平山城。
山頂の本丸を中心に、東西に渡って曲輪が階段状に展開される連郭式の構造を持つ。
本丸は60m四方程度の平坦地となり、東側に虎口石垣、北西隅には五角形の小規模な天守台があったとされるも現在は何れも消滅している。
本丸西側の稜線上に笠の丸、北側に萩の丸が配され、東側の稜線上にも複数の曲輪が見られる。
城域全体の規模は東西330m、南北160mに及ぶ。

公園整備と貯水施設の建設によって遺構の大部分は消滅しているが、1992年に実施された発掘調査で本丸南側の斜面に3本の堅堀を伴う畝状堅堀が発見されるなど、戦国期の改修の痕跡が確認されている。 続きを読む

横山城 / 福知山城(京都府福知山市)

福知山城

在地の土豪・塩見氏の居城、後に福知山藩の藩庁。
永正年間、塩見大膳頼勝による築城。

元は猪崎城を本城とする塩見氏の支城のひとつ。
天田郡一帯に勢力を拡げた塩見頼勝は由良川と土師川の合流点に城砦(横山城)を築き、嫡男の頼氏(横山頼氏)を配した。
その子・横山信房の代に明智光秀を主将とした織田氏による丹波侵攻が始まり、赤井直正・波多野秀治らと共に抵抗。
一時は明智方を撃退するも1578年に赤井直正が病死すると、翌年に波多野氏の居城・八上城、赤井氏の居城・黒井城が相次いで落城する。
同年に明智方に攻められ、横山信房は自害して横山城は落城。
明智光秀による丹波国平定が達成されると「福知山城」と改められ、城代に藤木権兵衛と明智秀満が置かれた。
1582年に山崎の戦いで明智光秀が敗死すると羽柴秀吉の支配下となり、羽柴秀勝・杉原家次・小野木重勝が城主を努めた。

関ヶ原の戦い後、有馬豊氏が6万石(後に8万石に加増)で入城して福知山藩が成立。
有馬氏の統治下において、現在に残る近世城郭と城下町が完成した。
1620年に有馬豊氏が久留米藩に加増転封されると岡部長盛、次いで稲葉紀通が藩主となり、1649年に松平忠房が4万6000石で入領。
1669年に松平忠房が肥前国島原藩に加増転封された後に朽木稙昌が3万2000石で入領し、以降は明治維新に至るまで200年13代に渡って朽木氏の統治下となった。

由良川と土師川の合流点、西岸の丘陵上に築かれた連郭式の平山城。
丘陵東端の最頂部(標高35m)に本丸を設け、西に向かって二の丸・伯耆丸・内記丸が連なる。
『平面古図』によると、天守は三重四階の大天守の北側に二重二階の小天守が連なる連結式の構造で、南側には菱櫓と連結した建物があった。
本丸と二の丸にはそれぞれ御殿が建てられており、二の丸御殿が政庁の役割を持っていたと思われる。
伯耆丸は有馬豊氏の弟・有馬伯耆守重頼の屋敷があったことから、その名が付けられた。
その他、北側に左門丸・対面丸・大膳丸が配され、城郭全体の規模は東西600m、南北300mに及ぶ。
城下町は南側に武家屋敷、北側に町屋が広がり、由良川沿いには寺町を形成。
城域の西側と南側に外堀が巡らされ、東から北にかけては由良川が流れて天然の堀の役目を果たしていた。

1871年、廃城。
建物の多くは解体・払い下げられ、1887年に二の丸が台地ごと削り取られたほか、堀の大半も埋め立てられた。
1973年より天守の復元計画が進められるも、オイルショックの影響で中断。
1984年に再開されると5億円以上の寄付金を集め、1985年に小天守と続櫓、1986年には大天守が完成した。
復元天守は近世初期の望楼型の外観を忠実に再現した鉄筋コンクリート造によるもので、内部は福知山市郷土資料館となっている。
本丸跡地が福知山城公園、伯耆丸跡地が伯耆丸公園として整備。
現存建造物として福知山市内の明覚寺・法鷲寺・正眼寺・観瀧寺に移築された城門が福知山市重要資料に指定されており、二の丸銅門にあった銅門番所が本丸内に移築されている。
また、天守の西には豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸が残り、現在も豊富に水を湛えている。

福知山城本丸の天守台は野面積みと算木積みを組み合わせて築かれており、宝篋印塔や五輪塔などの石造物(転用石)が大量に使用されていることが特徴。
発掘調査によって現時点で約500点の転用石が検出されており、その多くは塩見氏の城や所縁のあった寺院を破却して集められたと考えられ、『丹波史』には荒木山にあった法興寺や宝積寺から石を集めていたとの伝承が残る。

2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む

吹上城 / 和歌山城(和歌山県和歌山市)

和歌山城

豊臣秀長(羽柴秀長)の居城、後に紀州藩の藩庁。
1585年、羽柴秀長が「吹上の峰」に築城したことが始まり。

紀州征伐の副将として功を挙げた羽柴秀長は、その平定後に紀伊・和泉2ヶ国を加増される。
若山の南麓にあたる「吹上の峰」を城地と定め、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親・横浜良慶を任じて1年で完成。
その際、同地は若山から「和歌山」と改められた。
1586年より桑山重晴が城代を務め、1596年の隠居後は孫の桑山一晴が城代を継承。
関ヶ原の戦い後に桑山一晴が大和国新庄藩に転封されると、浅野幸長が37万6000石で入領した。
1619年に浅野氏が安芸国広島藩に加増転封された後は徳川頼宣(徳川家康十男)が55万5000石で入城し、御三家・紀州徳川家が成立。
以降、14代に渡る紀州徳川家の居城として明治維新を迎えた。

和歌山市の中心部、虎伏山(とらふすやま、標高49m)に築かれた平山城。
北側を流れる紀の川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸・西の丸・砂の丸・三の丸、南側に南の丸が配された梯郭式の構造を持つ。
1621年より城の大改修と城下町の拡張を始められたが、大規模な改修であったために幕府より謀反の嫌疑をかけられた。
外堀も拡張して惣構とする計画があったが中止され、その名残として「堀止」の地名が残る。
1655年、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火し、西の丸・二の丸に延焼。
1813年には西の丸大奥より出火し、西の丸御殿が全焼した。
また、1846年には落雷で大天守・小天守を含む本丸の主要建造物が全焼したが特例で再建が許可され、1850年に大天守・小天守などが再建された。

1871年、廃城。
1901年に本丸跡・二の丸跡が「和歌山公園」として一般開放された。
1931年、国史跡に指定。
1935年には大天守・小天守・北西隅櫓・西南隅櫓・楠門・北東多門・北西多門・西多門・南多門・東倉庫・西倉庫の11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定されるも、1945年の和歌山大空襲によって指定建造物11棟すべてが焼失。
1958年、水島栄三郎(1850年の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫)が所蔵する天守図と『御天守御普請覚張』を参考に天守群が鉄筋コンクリート製で再建された。
現在、公園となっている本丸跡・二の丸跡以外は市街地化され、南の丸跡には和歌山公園動物園、三の丸跡には和歌山県庁舎と和歌山市役所、和歌山市消防局・和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁などの公的機関や和歌山中央郵便局、和歌山県立近代美術館・和歌山県立博物館、和歌山大学付属小中学校などが建つ。
現存する岡口門とそれに付属する土塀が1957年に国の重要文化財に指定。
そのほか、西の丸庭園が国の名勝、追廻門が和歌山市文化財に指定されている。

2006年、日本100名城に選定された。 続きを読む

末次城 / 松江城(島根県松江市)

松江城

在地領主・末次氏代々の居城、後に松江藩の藩庁。
鎌倉時代前期、末次氏による築城。

末次氏は佐々木氏分流富田氏の庶流で、末次胤清を祖とする一族。
鎌倉時代前期に同地に領して亀田山に城(末次城)を築き、室町時代には山名氏に従って明徳の乱・嘉吉の乱などで功を挙げた。
文明年間には尼子氏に従っていたと思われ、毛利氏との間で末次城の争奪戦が繰り広げられた。
1571年、毛利元就に攻められ落城。
元就の八男・元康が末次氏を継承して「末次元康」を名乗り、末次城に入城した。
1591年に豊臣秀吉の命で末次元康が備後国神辺城に移ったことにより、末次城は廃城になったと思われる。

1600年、堀尾忠氏が関ヶ原の戦いでの功によって出雲・隠岐二国24万石で月山富田城に入城し、松江藩が成立。
1607年より末次城跡地の亀田山に築城が始まり、1611年に月山富田城より藩庁が移された。
堀尾氏が無嗣断絶で改易になると、京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐二国26万石で入領。
京極氏の統治時代に三の丸が造営され、東西360m、南北560m、周囲に幅20~30mの内堀を巡らせた全域が完成した。
1637年には京極氏も無嗣断絶となり、1638年に松平直政が18万6000石で入領。
以降、越前松平氏10代の居城として明治維新に至る。

宍道湖を臨む亀田山(標高29m)に築かれた平山城。
小瀬甫庵の縄張による輪郭連郭複合式の構造で、本丸を中心に北側に出丸(北の丸)、東側から南側にかけて二の丸が囲み、二の丸の南下段に三の丸が配される。
天守は複合式望楼型の地上4重5階・地下1階の構造で本丸地上面より30m(天守台上面からは22.4m)の高さがあり、南側に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属。
2重目と4重目は東西棟の入母屋造、二重目の南北面に入母屋破風の出窓が付く。
壁は1重目と2重目は黒塗の下見板張りとなり、3重目と4重目および附櫓は上部を漆喰塗、下部を黒塗下見板張りとしている。
1738年から1743年にかけて大改修が行なわれ、その際に天守が改装されて現在の姿になったと推測される。
本丸跡および二の丸跡には石垣がほぼ完全な状態で残り、特に本丸東面の石垣は高さ13mを誇る。
南面から東面にかけては観光地化されて曲輪と石垣の観察が容易になっているが、西面にも南北に細長い曲輪跡と石垣が残存。
北の丸跡には城山稲荷神社が建ち、三の丸は島根県庁の敷地となっているが堀と曲輪の形状は明瞭に残っている。

1871年、廃藩置県によって廃城。
1873年の廃城令によって天守を除く建造物がすべて撤去され、天守は出雲郡の豪農・勝部本右衛門と元松江藩士・高木権八によって買い戻された。
1927年、天守を含む城域一帯が松平家より松江市に寄贈され、公園として整備。
1934年、国史跡に指定。
1935年に天守が国宝(旧国宝)に指定された後、1950年の文化財保護法の施行に伴って重要文化財に指定された。
1960年に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元されたことを始め、1994年に二の丸と三の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋、2000年に二の丸南櫓と塀、2001年二の丸中櫓と太鼓櫓と塀が復元された。
松江市では大手門復元に向け、懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探している。
2006年、日本100名城に選定。
2015年、天守としては5件目の事例となる国宝に指定された。 続きを読む

米子城(湊山城)(鳥取県米子市)

米子城

米子藩の藩庁、後に鳥取藩の支城。
1600年、中村一忠による築城。

『出雲私伝』によると1470年に尼子清定に敗れた山名氏が米子城に入ったとされ、応仁の乱の頃には米子城が存在していたことが窺える。(但し、中世の米子城は飯山に築かれていたとする見解が有力)
1600年、中村一忠が関ヶ原の戦いの功により伯耆一国17万5000石で入領し、米子藩が成立。
中海に面した湊山一帯に五重の天守を備えた城郭が築かれ、米子十八町と呼ばれる職人町・商人町の形成、加茂川を外堀とした運河の造成など、現在の米子の町の基礎となる城下町の整備が進められた。
1609年に中村氏が無嗣断絶で改易されると、加藤貞泰が伯耆国内2郡6万石で入領。
1617年、加藤貞泰の大洲転封に伴い、米子藩は廃藩となった。
その後、伯耆一国は鳥取藩・池田光政領となり、米子城には家老の池田由成が城代として駐在。
1632年に池田光政の岡山転封に伴って池田光仲が鳥取藩主となると、家老の荒尾氏が11代に渡って城代を務め、明治維新に至る。

湊山(標高90m)および峰続きの丸山(標高52m)一帯に築かれた平山城。
湊山山頂の本丸を中心に北東方向に二の丸と三の丸、北側の丸山山頂に内膳丸が配置された梯郭式の構造を持ち、中世米子城があった飯山も出丸として利用された。
本丸は日本海と島根半島、中国山地が一望できる位置にあり、天守(大天守)と四重櫓(小天守)、二重櫓、多聞櫓、鉄御門などが置かれた。
1878年に撮影された古写真によると大天守は独立式望楼型4重5階の構造で、2重目に大入母屋破風と千鳥破風、軒唐破風、3重目に入母屋破風と千鳥破風、4重目には軒唐破風が施され、高さは21mあったとされる。
小天守は1591年に同地を領した吉川広家によるものと伝わり、独立式望楼型3重4階の構造を持っていた。
本丸跡は曲輪の形状がほぼ完全な状態で残されており、大天守台と小天守台の石垣のほか、鉄門や北側の遠見櫓跡、東側の番所跡などの石垣が良好な状態で確認できる。
二の丸跡は形状を残したまま大部分がテニスコートとなっており、東側に25m四方の桝形虎口と周囲の石垣が残存。
敷地内には井戸跡が残るほか、荒尾氏家臣・小原家屋敷の長屋門が1953年に移築保存され、1984年まで米子市立山陰歴史館として利用されていた。
三の丸跡は鳥取大学医学部付属病院と米子市営湊山球場の敷地となっており、周囲に土塁状の地形が見られるが城の遺構であるかは不明。
内膳丸は北の峰続きの丸山山頂にあり、南北100mに渡って2段になった細長い曲輪跡と石垣が残る。
城域全体には30棟の櫓と20棟の門が建てられ、周囲の堀には中海から海水が引き入れられていた。

1871年、廃藩置県によって廃城。
米子駐在の士族らに無償で払い下げられるも1879年に民間の手に渡り、すべての建物が撤去された。
1933年、城跡一帯が米子市に寄贈され、公園として整備。
1982年から1984年にかけて石垣の修理が実施され、1988年より始まった発掘調査で船入りの跡などが発見された。
2006年、国史跡に指定。
2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む

石山城 / 岡山城(岡山県岡山市)

岡山城

金光氏・宇喜多氏の居城、後に岡山藩の藩庁。
正平年間、上神高直による築城。

南北朝時代に名和氏の一族・上神高直が「石山台」に城を築いたことが始まりとされる。
戦国期には金光氏の居城となり、1570年に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して以降は宇喜多氏の支配下となる。
宇喜多直家は1573年に亀山城から居城を移し、福岡など備前国内の商業地から商人を呼び寄せて城下町を形成。
直家の死後、嫡男・宇喜多秀家が57万石に及ぶ遺領を継承すると8年に渡る大改修を行ない、近世城郭へと発展した。
1600年、関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が改易となると小早川秀秋が52万石で入領。
しかし、その2年後に秀秋の急死によって小早川氏は断絶。
1603年、池田忠継が28万石で入領して岡山藩を立藩した。
1621年、鳥取に国替えとなった池田光仲に代わり、池田氏宗家・池田光政が入領。
以降、10代に渡って池田氏宗家が同地を治め、明治維新を迎えた。

旭川流域の小高い丘上に建つ梯郭式の平山城。
旭川とその支流によって形成されたデルタ地帯に連なる丘(石山・岡山)に位置する。
築城当初は石山に城が築かれていたが(石山城)、宇喜多秀家の代に岡山に本丸を設けて石山城を取り込む形で城を拡張。
主要部である本丸・二之丸内郭(石山城本丸)・西之丸(石山城二之丸)を内堀で囲み、その西側に二之丸・三之丸を配置した。
本丸には高石垣が築かれ、その内部は本段・中の段・下の段に分かれた構造を持つ。
本段の北端に4重6階の複合式望楼型天守が建てられた。
本丸の北側から東側にかけては旭川を付け替えて堀としており、南側には西国街道を通して城下町を拡大整備。
小早川秀秋の代には三之丸の外側に三之外曲輪の整備して城下町のさらなる拡大が行なわれ、元禄時代の絵図によるとその規模は南北3.5km、東西1.3kmに及んだとされる。
元和年間の池田忠雄の代に本丸中の段が拡張され、表書院を建設。
その頃に岡山城の縄張りは完成し、建物は本丸に天守と3棟の御殿、3層以上の高層櫓9棟、2層の櫓11棟、8ヶ所の櫓門があったとされる。

1873年の廃城令によって建物の取り壊しや堀の埋め立てが進められ、1882年には天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなる。
1931年に天守が、1933年に月見櫓・西之丸西手櫓・石山門が国宝(旧国宝)に指定。
しかし、1945年6月29日の岡山空襲で天守・石山門は焼失した。
1950年、文化財保護法の施行によって月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定される。
1966年に天守が鉄筋コンクリート造の外観復元で再建され、それと同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。
1987年、『岡山城跡』として国史跡に指定。
2006年、日本100名城に選定された。
黒漆塗の下見板が張られた外観から、別名を『烏城』と呼ばれる。 続きを読む

篠山城(兵庫県丹波篠山市)

篠山城

篠山藩の藩庁。
1609年、徳川家康の命による天下普請として築城。

1609年、徳川家康は八上城主となった松平康重に対し、大坂城の豊臣家をはじめとする西国の諸大名への抑えとして山陰道の要衝である篠山盆地に新城の築城を命じた。
総奉行に池田輝政が任命され、藤堂高虎の縄張による15ヶ国20大名の助役による天下普請によって6ヶ月の工期で完成。
松平康重は八上城から完成した篠山城に移り、篠山藩を立藩する。
松平庶家が代々の藩主を務めた後、1748年に青山忠朝が亀山藩より5万石で転封。
以降、青山氏6代の居城として明治維新を迎えた。

篠山盆地中央部の丘陵上に築かれた平山城。
中心部に本丸と二の丸を配し、その周囲を内堀と三の丸、さらに外周を外堀で囲んだ輪郭式の構造を持つ。
本丸には天守台が築かれているが、天守は建設されていない。
その理由は、城の構造があまりにも堅固であることを幕府が懸念したためと伝えられている。
二の丸に大書院が建てられ、篠山藩の藩庁として機能。
三の丸の北側・南側・東側には馬出が設けられ、そのうち南側と東側の馬出の土塁と水堀が明瞭に残る。
内堀と外堀、本丸・二の丸の石垣がほぼ完全な状態で残存。
外周は1辺が約400mのほぼ正方形の形状となっている。

1871年に廃城。
1873年より建物の取り壊しが始まるも、二の丸の大書院は旧藩士・安藤直紀の働きかけによって保存され、篠山尋常小学校(篠山小学校)の校舎として利用された。
しかし、1944年に失火によって大書院が焼失。
1954年より国に対して保存活動を行なわれ、1956年に国史跡に指定。
1993年、城下町が兵庫県の景観形成地区に指定。
2000年に二の丸大書院が復元され、内部の一般公開が始まる。
2006年、日本100名城に選定された。 続きを読む

龍野城(兵庫県たつの市)

龍野城

龍野藩代々の藩庁。
1672年、脇坂安政による築城。

元は赤松氏の居城で、1617年より龍野藩の藩庁が置かれた。
1658年の京極高和の讃岐丸亀移封に伴って破却されるが、1672年に脇坂安政が入領して再建。
以後、1871年の廃藩置県まで脇坂氏10代の居城となる。

鶏籠山の南麓、赤松氏時代の居館部に築かれた平山城。
再建に際して赤松氏時代にあった山上の山城部分は放棄され、機能していなかったと見られる。
陣屋形式の構造で、明治時代に描かれた絵図によると本丸とその南東に広がる二の丸で構成されていることが窺える。

遺構は本丸石垣が残るのみで、それ以外はすべて廃藩置県によって破却された。
1979年に本丸御殿、大手埋門、本丸南東の武具櫓、南西の隅櫓が再建。
再建に当たっては当時の資料や現在する古絵図に基づいた検証が行なわれている。
尚、南西の隅櫓は当時に存在しなかった模擬櫓となる。
移築建造物として、東門が浄栄寺(たつの市揖保川町)の山門として、大手門が因念寺(たつの市揖保川町)の山門として移築現存する。
その他、光遍寺(たつの市揖保川町)の山門、常全蓮光寺(揖保郡太子町)の山門も龍野城からの移築門であると伝わる。 続きを読む

明石城(兵庫県明石市)

明石城

明石藩の政庁。
1617年、明石藩主となった小笠原忠真によって築城を開始。
1619年正月から作事が始まり、翌年の正月には小笠原忠真が船上城から移り住んだ。

徳川秀忠より船上城に代わる新城築城の命を受け、小笠原忠真と本多忠政によって築城地に人丸山(赤松山)を選定。
幕府旗本の都筑為政・村上吉正・建部政長らを普請奉行とし、三木城・高砂城・枝吉城・船上城などの建材を使用して築城された。
1632年、小笠原忠真は豊前国小倉藩に転封。
その後は藩主が目まぐるしく入れ替わり、1682年に越前松平氏・松平直明が6万石で入城。
以後、明治維新まで10代189年間に渡り、越前松平氏の居城となる。
1874年、廃城。

丘陵舌端に築かれた連郭梯郭混合式の平山城。
JR明石駅の北側にあり、山陽道から丹波・但馬・淡路に通じる交通の要衝に位置する。
本丸を中心に東側に二の丸・東の丸、南側に三の丸、西側に稲荷曲輪を配置。
城の中心部となる本丸・二の丸・東の丸の石垣や土塁、堀などの作事は江戸幕府が担当した。
本丸の西南に天守台が造られているが天守は建てられず、四隅に建てられた三重櫓(巽櫓・坤櫓・乾櫓・艮櫓)のうち坤櫓が天守を代用したとされる。
四隅の櫓のうち、巽櫓(本丸南東端)と坤櫓(本丸南西端)が現存。
巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝わり、坤櫓は伏見城から移築されたものと判明している。
本丸には藩主の居館として3階建ての御殿が建てられ、その他の建造物として二重櫓6棟、平櫓10棟、門27棟が存在した。

城跡を含む周辺は1883年より公園整備が始まり、1918年に「兵庫県立明石公園」として開園。
1957年、巽櫓および坤櫓が国の重要文化財に指定。
1995年の阪神・淡路大震災で櫓や石垣が被害を受けたが、1999年に全面修復された。
2004年、城跡が「明石城跡」として国史跡に指定。
「日本さくら名所100選」および「日本100名城」に選定されている。 続きを読む

尾山御坊 / 尾山城 / 金沢城(石川県金沢市)

金沢城

加賀藩・前田氏代々の居城。
1587年、前田利家が尾山城を大規模に改修して築城。
尾山城は元は加賀における本願寺の拠点・尾山御坊(金沢御堂)であり、1580年に佐久間盛政が攻め落として入城。
そのときに「金沢城」と改称され、1583年に前田利家が入城した際に「尾山城」と改められた。
「金沢城」の名称が再び定着したのは1600年以降と考えられる。

1587年から始められた改修で曲輪や堀が拡張され、5重の天守や多数の櫓が建築された。
天守は1602年に落雷で焼失。
1606年には本丸も焼失し、1631年の大火を機に二の丸の拡張と辰巳用水の整備が進む。
1759年の火災で城の大部分を焼失。
以降、本丸部分の再建はされず、二の丸に建てられた御殿が藩庁となる。
周囲には大手堀・いもり堀・百間堀・白鳥堀が巡らされ、防衛のために城下町に多くの寺社が建てられた。
5代藩主・前田綱紀が大名庭園『兼六園』を造営。
当時、兼六園は石川門から土橋で連結され、百間堀と白鳥堀を分断していた。

明治維新後も存城し、軍施設として利用される。
戦後、軍の第九師団司令部庁舎が金沢大学本部となり、1995年まで丸の内キャンパスが置かれていた。

現存建造物として石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫が城内に残存し、それぞれ重要文化財に指定。
その他にも、切手門・二の丸御殿唐門・二の丸能舞台・玉泉院丸太鼓塀などが移築現存する。
また、城内には多種多様の石垣が存在し、1592年に構築された本丸東側の高石垣を始め、慶長・元和年間の外郭整備、寛文期、宝暦・安永期、享和・文化期の修築により、技術の進歩と使い分けによって様々な様式の石垣が城内に共存する。
現在に伝わる縄張りは、1631年の大火による再整備をもって完成したとされる。

1999年から復元整備事業が始まり、2001年に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元。
2006年から第2期復元整備事業が進められ、2014年までに石川門の保存修理、橋爪門二の門・河北門・いもり堀(一部)の復元、玉泉院丸跡の整備が完成した。
二の丸御殿の復元も計画されているが、現時点では「絵図・文献資料の解読に一定期間が必要であり、復元は困難」との考えが示されている。
2008年、『金沢城跡』として国史跡に指定。 続きを読む

木幡山城(第二次伏見城)(京都府京都市)

木幡山城

京における豊臣秀吉の本城。
慶長伏見地震による指月城倒壊の後、背後の木幡山に築城。

『当代記』によると、慶長伏見地震の2日後に築城に着手していたことが窺える。
1597年、天守および御殿が完成。
しかし、1598年に豊臣秀吉が死去すると後継の豊臣秀頼は遺言に従って大坂城に移る。
ほとんどの大名も屋敷を大坂に移したため、城は荒廃した。
1600年、会津征伐を前に徳川氏の重臣・鳥居元忠が城代として入城。
関ヶ原の戦いが勃発すると、宇喜多秀家率いる西軍4万に攻められ落城した。

1602年に徳川家康の命により、藤堂高虎を普請奉行として再建。
徳川家康・秀忠・家光の3代は木幡山城で征夷大将軍の宣下を受けている。
徳川家光の将軍宣下が実施された後、1623年に廃城となった。

本丸を中心に北西側に弾正丸・大蔵丸・得善丸・御花畑山荘、西側に治部少丸・二の丸、北東側に松の丸、南東側に名護屋丸・三の丸・山里丸、南側に四丸など12の曲輪で構成される。
徳川家康による再建時もその縄張はほぼ踏襲されたが、北西側の曲輪と堀は放棄された。

1964年、御花畑山荘跡地に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園。
園内には洛中洛外図を参考にして5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門が建設された。
2003年の閉園後は伏見桃山城運動公園として整備。
本丸を含む主郭部分は明治天皇陵として立入禁止となっている。
遺構はほとんど確認されないが、廃城時に櫓や城門など多くの建築物が各地の城に移築された。 続きを読む

指月城(第一次伏見城)(京都府京都市)

指月城

豊臣秀吉の隠居城。
1593年、関白の位を豊臣秀次に譲った秀吉が自身の隠居城として築城。

秀吉自らが観月の名所と知られる伏見指月を散策して場所を選定したとされ、1592年秋に着工。
翌年には諸大名との茶会を催していることから、概ね完成したものと思われる。
築城当初は邸宅としての性格が強かったが、1594年から政庁とするべく改修。
宇治川の流れを変えて外濠とし、新たに街道を整備するなど、大規模な土木工事が行なわれた。
このとき、淀城や破却後の聚楽第から多くの建物が移築される。

1596年9月5日、大地震により天守が倒壊。(慶長伏見地震)
秀吉は倒壊を免れた建物に避難した。

その所在は長らく不明とされてきたが、2015年にマンション建設に伴う発掘調査で石垣と堀の一部が出土。
堀底から出土した金箔が施された五七桐紋の瓦片などから、城の存在が裏付けられた。 続きを読む

浜松城(静岡県浜松市)

浜松城

徳川家康の居城、後に浜松藩の藩庁。
1570年、徳川家康が曳馬城を拡張して築城。

武田氏の侵攻に備え、徳川家康は1570年に三河国岡崎から遠江国曳馬に本拠を移す。
その際、「馬を曳く」が敗北に繋がり縁起が悪いことから、地名とともに「曳馬」を「浜松」に改めた。
以降、家康が駿府に移る1586年まで徳川氏の本拠となる。
徳川家康が駿府に移った後には堀尾吉晴・忠氏が入城。
江戸時代には浜松藩の藩庁として機能し、譜代大名を中心に22人が代々の藩主を務めた。
その多くが江戸幕府の重職に就いたことから、「出世城」の異名を持つ。

三方ヶ原台地の斜面沿いに三の丸・二の丸・本丸・天守がほぼ一直線に並ぶ梯郭式の平山城。
その規模は東西600m、南北650mに及ぶ。
主要部は東西ほぼ一直線に曲輪が並び、東から三の丸・二の丸・本丸・天守曲輪と連なる。
本丸の北側に富士見櫓、南東の隅に菱櫓が建ち、二の丸には約500坪の広さを誇る表御殿と約100坪の奥御殿が建っていたとされる。
主要部の北西側に作左曲輪、南側に清水曲輪と鳥居曲輪が配置される。
近世には天守が存在しておらず、本丸二重櫓(菱櫓)が天守の代用とされていた。
尚、築城当時の天守構造は不明。

明治維新後に廃城となる。
城跡は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の望楼型3重4階の模擬天守が築かれた。
二の丸の跡地には浜松市役所と浜松市立元城小学校が立地する。
1959年に浜松市の史跡として指定。
2014年の発掘調査では本丸南側の土塁、石垣、徳川家康在城時の遺構と見られる堀跡などが検出されている。
2016年、発掘調査と絵図に基づいて本丸大手の天守門が再建された。 続きを読む

上野城(三重県伊賀市)

上野城

筒井氏、後に藤堂氏の居城。
1585年、筒井定次が仁木氏の居館跡地に築城。

室町時代には伊賀守護・仁木氏の居館があったが、戦国期に入ると仁木氏の勢力は衰退。
1581年に滝川雄利が伊賀守護として入領し、平楽寺跡地に砦を築いたことが城塞化の始まりとされる。
小牧・長久手の戦いで落城した後、1585年に筒井定次が入城。
関ヶ原の戦いで西軍・新庄直頼によって攻め落とされるが、戦後に筒井氏が奪還し、伊賀上野藩を興す。
1608年、筒井氏の改易に伴って藤堂高虎が入城。
大坂城の押さえのため、1611年より大幅な改修が実施される。
しかし、1612年に建造中の天守が強風に煽られて倒壊し、多くの死傷者を出した。
豊臣家滅亡によって軍事的役目を失った天守は再建されず、上野城は未完成のまま伊勢津藩の支城として城代が置かれるようになった。

上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部、標高184mの丘に建てられた平山城。
筒井氏時代には三層の天守が建てられ、本丸の西に二の丸、北に三の丸を配した構造であったとされる。
藤堂氏時代には筒井氏時代から3倍の規模に拡張され、二の丸と武家屋敷、商人町を整備し、城下町を形成。
本丸は約240m四方の広さを持ち、その南側に外堀で囲まれた広大な外郭が構築された。
その規模は東側が約400m、南側が約890m、西側が約460mあったとされる。
本丸の西側に幅27mの堀と南北368mに及ぶ高石垣が築かれ、その天端までの高さは29.7mとなり、大坂城に次ぐ高さを誇る。

1871年、廃城。
そのときに多くの建造物が取り壊され、1887年に東大手門、1907年に西大手門が解体された。
1896年、本丸周辺が公園として整備される。
1935年、衆議院議員・川崎克が私財を投じて模擬天守を建設した。
1967年、国史跡に指定。
現存建造物として、武具蔵が三重県立上野高校の図書館横に立地する。 続きを読む

津山城(岡山県津山市)

津山城

津山藩の居城。
嘉吉年間に山名忠政が鶴山に築城したことが始まりとされ、応仁の乱で山名氏が衰退すると廃城となる。

1603年、森忠政が津山藩に18万6000石で入封した際に築城を開始。
1616年に天守と77棟の櫓、城門が建ち並ぶ近世城郭として完成。
以降、津山藩の藩庁として機能する。

梯郭式の平山城で、破風を持たない独立式層塔型4重5階の天守を持つ。
津山盆地の中央部に位置し、城の周囲を流れる吉井川・宮川・藺田川を外郭として内側に城下町の主要部を形成した。

1873年に廃城。
翌年には天守をはじめとした多くの建造物が破却された。
1900年より鶴山公園として整備され、現在は桜の名所として賑わう。
1963年、国史跡に指定。
2002年に築城400年記念行事の一環として備中櫓の復元が着手され、2005年に完成した。
2006年には天守台南側の太鼓塀も復元。
日本三大平山城のひとつに数えられる。 続きを読む

大野城(福井県大野市)

大野城

金森長近の居城、後に大野藩の藩庁。
1576年、戌山城に代わる居城として金森長近が4年の歳月をかけて築城。

1585年に長近が高山に移って以降は目まぐるしく城主が代わり、1682年に土井利位が入城。
以降、明治維新まで土井氏の居城となる。
城は1774年に焼失し、1795年に天守を除いて再建される。

明治維新後に廃城。
1968年、鉄筋コンクリート製の復興天守として再建。
焼失前の天守は2重3階の望楼型の大天守と2重2階の小天守および付櫓で構成された複合連結式天守であったが、再建された天守は付櫓の位置に小天守があるなど、当時を再現したものではない。
天守の内部は資料館として利用されている。 続きを読む

松坂城(三重県松阪市)

松坂城

蒲生氏郷の居城。
1588年、松ヶ島城に代わる伊勢の統治拠点として築城された。

梯郭式の平山城で、本丸とその南側に配置された二の丸で構成される。
当時は3重5階の天守が構えられていた。
城下町には松ヶ島から住人を移住させ、旧領の日野からは近江商人が呼び寄せられて商業都市として発展。
1590年の氏郷の会津移封に伴い、服部氏・古田氏が相次いで入城。
江戸期には紀州藩の藩領として城代が置かれた。

2011年、国史跡に指定。
現在は穴太衆による石垣のみが残り、城址公園として整備される。
周辺には市役所や市民病院など松坂市の主要施設が立ち並び、現在も市の中心地としての役目を担っている。 続きを読む

大坂本願寺(石山本願寺)(大阪府大阪市)

石山本願寺

浄土真宗の本山。
正式には『大坂本願寺』と呼ぶ。
1533年に山科本願寺から祖像が移されたことで浄土真宗の本山となる。

細川晴元や織田信長ら畿内の覇者と度々衝突し、特に織田氏とは11年に渡って抗争を続けた。
1580年、正親町天皇の調停で織田氏との和議が成立。
寺領を明け渡す。

大坂の中心地・上町台地の北端に建ち、北側を流れる淀川と大和川を自然の堀に見立て、寺域の周囲を空堀と土塁で囲んだ城郭寺院。
1496年に御坊として始まって以降、長い年月をかけて次第に城塞化し、織田氏との抗争の折には周囲に51ヶ所もの砦を構築していたとされる。
その堅牢な立地は大坂城へと受け継がれた。 続きを読む

江戸城(東京都千代田区)

江戸城

江戸幕府260年の政庁。
扇谷上杉氏の家臣・太田道灌が築いたことが始まりとされる。
太田道灌が殺害された後は上杉朝良が隠居城として使用し、次いで後北条氏の支配下に入った。

徳川家康の関東移封に伴い、徳川氏の居城となる。
江戸幕府が開府してからは幕府の政庁として機能し、1603年から1660年にかけて天下普請による大規模な拡張が行なわれた。

総構の周囲は約4里(約16km)と、日本国内で最大の規模を誇る。
本丸には5重の天守が建ち、城内には20基の櫓が設けられていたが、明暦の大火(1657年)により天守を含めた多くが焼失。
町の復興を優先することを理由に天守は再建されなかった。

現在は皇居となっており、本丸・二の丸・三の丸跡は皇居東御苑として日本庭園が整備されている。
北の丸と大手前(皇居外苑)は公園として常時開放されており、自由に散策ができる。 続きを読む

亀山城(京都府亀岡市)

亀山城

明智光秀、のちに亀山藩代々の居城。
1578年、織田氏の丹波統治の拠点として明智光秀が築城。
光秀の敗死後は羽柴秀勝や羽柴秀俊(小早川秀秋)、前田玄以ら、豊臣家の重鎮が相次いで入城。

1609年に徳川家譜代の岡部長盛が入城し、藤堂高虎の縄張りによる天下普請によって近世城郭に修築された。
以降、丹波亀山藩の藩庁として明治維新まで機能。

本丸には層塔型の5重5階の大天守と2重の小天守が建っていたとされる。
層塔型天守として日本初の事例。(諸説あり)
明治維新による廃城後、荒廃した城跡を1919年に宗教団体・大本が購入。
現在も大本の本部が置かれている。 続きを読む

彦根城(滋賀県彦根市)

彦根城彦根藩・井伊氏14代の居城。
7ヶ国12大名による天下普請として1603年より築城が始められ、1622年に完成。
金亀山(標高50m)に建つことから、別名を『金亀城』と呼ぶ。

1600年、井伊直政が18万石(後に35万石に加増)で佐和山城に入城。
居城を琵琶湖岸に近い磯山城跡地に移すことが計画されたが、直政は1602年に死去する。
その跡を継いだ井伊直継が家老・木俣守勝と相談の上、築城地に金亀山(彦根山)を選定し、築城を開始した。
1606年に天下普請による工事が完了し、天守の完成をもって直継が入城。
1616年に御殿が建造され、1622年にすべての工事が完了。
以降、1871年の廃藩置県まで彦根藩の藩庁として機能した。

西国への抑えとして築城された梯郭式の平山城。
中山道と北国街道が合流し、琵琶湖から僅か5kmの距離にあり、水路と陸路の中継地としての役割を果たす要衝に位置する。
本丸・二の丸・三の丸からなる主要部と、その北側に西の丸・山崎曲輪、南側に鐘の丸・太鼓丸を配置。
天守は大津城から移築された3層3階地下1階の複合式望楼型で、現存十二天守のひとつ。
本丸の大手方面を守る天秤櫓は長浜城からの移築とされ、他にも小谷城・観音寺城・佐和山城などから多くの建物・資材が転用されたと伝わる。
天守のほか、西の丸と山崎曲輪に三重櫓が建てられた。
本丸の周囲には中世城郭を思わせる防御機構を有し、大手門・表門方面は両道が合流する天秤櫓の外側に、搦手口方面は西の丸三重櫓の外側に、それぞれ大堀切が築かれている。
鐘の丸の南東角・大手門と鐘の丸の間・西の丸三重櫓下・西の丸大堀切・本丸着見櫓跡東南角の5ヶ所に繋がる登り石垣が築かれ、その上に瓦塀が築かれていた。
但し、彦根城の登り石垣は他の城に見られる曲輪同士の連結が目的ではなく、山腹の移動を妨げるための竪堀の発展形を意図したものと思われる。

1951年、城の北側に配された大名庭園が「玄宮楽々園」として国の名勝に指定。
1952年、天守・附櫓および多聞櫓が国宝に指定。
1956年、城跡が「彦根城跡」として国特別史跡かつ琵琶湖国定公園の第1種特別地域に指定。
その他、天秤櫓・太鼓門および続櫓・西の丸三重櫓および続櫓・二の丸佐和口多聞櫓(非現存)・馬屋の5棟が国の重要文化財に指定されている。
滋賀県下では唯一、城郭建築が保存された事例となる。 続きを読む