タグ別アーカイブ: 近世

膳所藩中野代官所(滋賀県大津市)

膳所藩中野代官所

近江国栗太郡における膳所藩の統治拠点。
元文年間、膳所藩による設置。

膳所藩は田上の牧庄・中杣庄・下杣庄32ヶ村の統治のため、栗太郡中野村に代官所を設置。
元文年間から明治維新に至るまでの約130年に渡り、最大で36ヶ村を治める統治拠点として機能した。

県道108号線沿い、中野町交差点の南側付近に位置する。
以前は代官所の建物が残されていたが取り壊され、現在は住宅地となっている。 続きを読む

尼崎城(兵庫県尼崎市)

尼崎城

尼崎藩代々の居城。
1617年、戸田氏鉄による築城。

1615年、建部政長・池田重利が播磨国川辺郡および西成郡に1万石を領して尼崎藩が成立。
1617年に建部政長が林田藩に、池田重利が鵤藩にそれぞれ転封したことに伴い、戸田氏鉄が5万石で入領。
1635年に戸田氏が美濃国大垣藩に転封となると、その跡を青山氏4代、1711年より桜井松平氏7代が藩主を務め、明治維新を迎えた。

大物川と庄下川に挟まれた三角州に位置する平城。
周囲を3重の水堀で囲み、4重の天守と3棟の三重櫓・本丸御殿を持つ本丸を中心に、西側と北側を囲むように二ノ丸、東に松ノ丸、それらを囲むように西側に西三ノ丸、東側に東三ノ丸が配置。
本丸は一辺が約115mのほぼ正方形をしており、北東隅に天守と付櫓として寅卯二重渡櫓と二重渡櫓、他の3隅にはそれぞれ三重櫓が建てられた。
天守は西側と南側に付櫓を持つ複合式層塔型4重4階の構造で、その規模は東西21m、南北17m、天守台上からの高さは16.8mあったとされる。
本丸の中央には尼崎藩の藩庁である御殿が建ち、大書院を中心に台所、居間、式台、金之間などの建物が繋げられていた。
御殿は1846年に本丸の女中部屋付近からの出火で全焼したものの、翌年には再建されている。

1873年に廃城。
建物のほとんどは取り壊され、1874年に深正院(尼崎市大物町)の本堂として移築された本丸御殿も戦災で焼失。
そのため、地表面に遺構はほとんど残っていない。
尼崎市教育委員会では20回以上に渡って発掘調査を実施しており、本丸御殿などの建物遺構や庄下川の堤防の下から石垣の一部が見つかるなど、城跡からは多数の遺物・遺構が出土している。

現在、本丸跡地は尼崎市立明城小学校の敷地として利用。
また、城跡の一部は『尼崎城址公園』として整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。
2018年、西三ノ丸跡地である公園の中央付近に外観復元天守が完成した。 続きを読む

三上館中屋敷(滋賀県野洲市)

三上館中屋敷

在地の土豪・三上氏の居館。
永享年間、三上政実による築城とされる。

三上氏は古代より近江国三上郷を本拠とし、代々に渡って御上神社の神職を努めた一族。
その一部が武士化したと思われ、鎌倉時代には源義経討伐軍の中に近江の武士と比定される「三上家季」の名が見られる。
三上政実は因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持つ人物で、1487年の長享の乱(鈎の陣)では幕府方として六角氏攻めに従軍。
後に六角氏の影響下に入ったものと思われ、その子孫は江戸時代を通して幕府旗本として存続した。

妙光寺山の南麓、妙光寺集落の北側に位置する居館。
東西に方形の曲輪が連なる複郭の構造で、西の曲輪跡は水田と住宅、東の曲輪跡は藪地となっている。
西の曲輪跡の北辺と東辺に土塁と空堀が残るほか、東の曲輪跡の東辺にも土塁の一部が残存。
城域の西端を住宅敷地とした場合、その規模は東西120m、南北50mほどに及ぶ。

同地には三上氏の居館として、「下屋敷」「中屋敷」が伝わる。 続きを読む

三上館下屋敷(滋賀県野洲市)

三上館下屋敷

在地の土豪・三上氏の居館。
永享年間、三上政実による築城とされる。

三上氏は古代より近江国三上郷を本拠に御上神社の神職を努めたことが知られるが、その一族が武士化したものと思われる。
三上近江入道周通(実名不詳)の代に因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持ち、三上政実はその曽孫に当たる人物。
三上政実は1485年に足利義尚の伊勢神宮参拝に同行したことが確認され、1487年の長享の乱(鈎の陣)では幕府方として六角氏攻めに従軍。
戦国期に入ると三上氏は六角氏の影響下にあったと思われ、近江南部の旗頭を務めた。
江戸時代には幕府旗本となり、1640年の人吉藩の御家騒動(御下の乱)において三上季正が幕府の上使として派遣されたことが細川家史料に見られる。
三上館は旗本三上氏代々の居館として、江戸時代を通して存続したことが確認できる。

妙光寺山の南麓、妙光寺集落の北側に位置する単郭方形の居館。
現在も同地には三上氏の子孫が在住し、50m四方の敷地の周囲に高さ3mほどの土塁が現存。
北側を除く3辺に堀跡が明瞭に残り、南側の中央付近には平虎口が確認できる。

同地には三上氏の居館として、「下屋敷」「中屋敷」が伝わる。 続きを読む

今橋城 / 吉田城(愛知県豊橋市)

吉田城

三河東部の統治拠点として代々の領主が在城した城。
1505年、牧野古白(牧野成時)が今川氏親の命により築城したことが始まりとされる。

牧野古白は三河国宝飯郡の牧野城を本拠とした在地の土豪。
宝飯郡に大きな勢力を持った一色時家の被官であったが、1477年に一色時家が波多野時政に討たれると衰退。
1493年に主君の仇である波多野時政を灰塚野で討ち、一色城に入城した。(灰塚野合戦)
1505年、今川氏親の命で豊川・朝倉川の合流点南岸に城(今橋城)を築き、今橋城主となる。
しかし、その翌年に今川氏親と戸田宗光に攻められて落城し、牧野古白は討死。(今橋合戦)
その後は戸田氏と牧野氏との間で今橋城の争奪戦が続くも、1546年より今川氏の直接統治が始まり、以降は東三河における今川氏の統治拠点となった。

1560年に今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると今川氏の支配は弱まり、1565年に松平家康(徳川家康)が攻略。
酒井忠次を城代とし、徳川氏による三河東部・遠江西部を統括する拠点となる。
1590年、徳川氏の関東移封に伴って池田照政(池田輝政)が15万石で入城。
城郭の大幅な改修と城下町の整備、吉田大橋(豊橋)の架け替えなどが行なわれ、近世城郭へと発展を遂げる。
江戸時代には吉田藩の藩庁が置かれ、譜代大名22人が代々の藩主を務めた。
明治時代には兵部省の管轄となり、1875年に大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれる。
1873年、失火によって多くの建物が焼失した。

豊川と朝倉川の合流地点に立地した半円郭式の平城。
池田氏による大規模な改修が行なわれているが、縄張りは戦国期のものを踏襲しているとされる。
豊川に面した本丸を中心に、南東側に二の丸、西側に三の丸を配置。
北東側には細長い曲輪(金柑丸)があり、今川氏の統治時代にはこの場所に主曲輪があったとされる。
本丸を囲むように4隅に石垣と隅櫓が配置され、その周囲には空堀が巡らされていた。
本丸には慶長年間に築かれた御殿があったが、1707年の宝永地震で崩壊。
当時より天守は存在せず、隅櫓のひとつである鉄櫓が天守を代用していたと考えられる。
鉄櫓を支える石垣は池田氏時代のもの、それ以外の部分は慶長期の天下普請によるものとされ、動員された大名家の家紋が刻印された石垣が数多く確認されている。

1954年に本丸隅櫓のひとつである鉄櫓が模擬再建され、内部は資料館として利用されている。
三の丸跡地が一部を除いて「豊橋公園」として整備。
豊橋市役所、美術館、スポーツ施設、文化会館が三の丸跡地に立地している。 続きを読む

水口御殿(滋賀県甲賀市)

水口御殿

徳川和子入内に際して江戸幕府が築いた宿館。
1620年、江戸幕府による造営。

徳川和子は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の五女。
1612年、徳川家康は後水尾天皇の即位に合わせて和子の入内を朝廷に申し入れ、1614年に入内宣旨が出される。
その後、大坂の陣の勃発や徳川家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたことで延期され、1620年に後水尾天皇の女御として入内。
それに際して、江戸幕府は水口に宿泊施設として「御茶屋御殿」を造営した。
1626年に徳川秀忠が上洛した際にも、宿館として利用している。
1634年、水口城が築城されたことによって廃止された。

現在は公立甲賀病院の敷地となっており、遺構は存在しない。
資料によると単郭方形で周囲に堀を巡らせ、東側に外枡形を設けた構造であったとされる。
後に築城された水口城本丸と類似する構造だが、その規模は水口城よりも一回り小さかったことが窺える。 続きを読む

山中館(滋賀県甲賀市)

山中館

在地の土豪・山中氏(宇田村系山中氏)の居館。
南北朝時代の築城と思われるが、同時代の山中氏の系図には諸説あるため、築城主は不明。

『山中文書』によると、山中氏は橘諸兄の後裔と伝えられる。
1226年、橘俊信が鈴鹿山の盗賊鎮圧の功によって鎌倉幕府より山中村地頭および鈴鹿山盗賊追捕使に補任され、山中氏を称したことが始まり。
南北朝時代には伊勢神宮祭司より柏木御厨の代官職に任じられ、総領家が宇田村に移住。
それによって山中氏は山中村と宇田村の系統に分かれ、宇田村の山中氏は戦国期に伴氏・美濃部氏とともに「柏木三方中惣」を組織して甲賀二十一家のひとつに数えられ、同地に大きな勢力を持つようになった。

1585年、山中俊好は他多くの甲賀武士とともに羽柴秀吉の紀州攻めに従軍。
しかし、紀ノ川の堤防工事における失策や命令違反を咎められて所領を没収された。(甲賀破儀)
1600年、山中宗俊が徳川家康より赦免を受けて宇田村に戻り、1町四方の屋敷を構えたとされる。
1763年に屋敷地は縮小。
1847年、山中俊哲が水口藩に仕えて水口城下に移ったことで屋敷は廃されたものと思われる。

宇田公民館の北側に位置する50m四方の単郭居館。
現在は竹藪となっており、東側を除く三方に土塁が残る。
水田に面した北辺の土塁は土が剥き出しとなっており、北側を走る県道535号線からも明瞭に確認することができる。
土塁の高さは5~7mほどあり、その内部は広い平坦地になっているが折り重なった竹によって進入は困難。

現状の竹藪の範囲から推察できる居館の規模は、1763年に縮小されたものに相当。
1600年に構えられた屋敷は一辺が100mほどあったとされ、中世にはさらに広大な敷地を擁していたと思われる。 続きを読む

伯太陣屋(大阪府和泉市)

伯太陣屋

伯太藩の藩庁。
1727年、渡辺基綱による設置。

1727年、渡辺基綱が大鳥郡大庭寺村から和泉郡伯太村に陣屋を移して伯太藩が成立。
前身である大庭寺藩の藩領1万3千500石を引き継ぎ、明治維新に至るまで9代に渡って同地を領した。
藩領は1871年の廃藩置県によって伯太県となり、堺県を経て1881年に大阪府へ編入された。

現在は住宅地となり、陣屋跡を示す碑と屋敷跡の碑が建つ。
陣屋跡地に遺構はないが、陣屋門が堺市の小谷家邸宅(小谷城郷土館)に移築現存する。 続きを読む

眞鍋城(大津城)/ 大津寺内(大阪府泉大津市)

眞鍋城

在地の土豪・眞鍋氏の居城。
築城時期は不明だが、鎌倉時代初期には城館が存在したと伝わる。

眞鍋氏は元は日根郡淡輪村の在地土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が和泉郡大津村に城館を構えて在城した。
同地には鎌倉時代初期から城館が存在していたと考えられ、城主に斎藤民部大輔・斎藤主膳正らの名が見られる。
そのことから元は斎藤氏(和泉守護代を努めた斎藤氏の一族か)の城館があり、その後に眞鍋氏が入城したものと思われる。
戦国期には織田氏に従い、眞鍋貞友が1576年の第一次木津川口の戦いに水軍を率いて参戦し、戦死している。
眞鍋貞友の跡を継いだ眞鍋主馬大夫貞成は蜂屋頼隆に属して1582年の甲州征伐に従軍し、1584年の紀州征伐では水軍を率いて菅達長の水軍を破ったほか、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍している。
関ヶ原の戦い後、眞鍋貞成は福島正則に4千石で仕えた後に浪人を経て紀州藩士となっているが、その後の眞鍋氏の動向は不明。

城は天正年間に廃城になったと思われる。
眞鍋城の跡地には伯太藩主・渡辺氏の菩提寺である長泉寺(現在の南溟寺)が建立され、釣屋道場(現在の強縁寺)・東右衛門道場(現在の緑照寺)とともに大津寺内を形成した。

現在も同地には南溟寺が建ち、本堂前に城址碑が建つ。
1679年の絵図には境内の周囲を四角く囲んだ堀が描かれている。 続きを読む

助松館(田中遠江守陣屋)(大阪府泉大津市)

田中遠江守陣屋

田中遠江守重景の居城。
元亀年間、田中遠江守重景が上野国から同地に移住した際に築城。

田中氏は新田氏の流れを汲む一族で、上野国新田郡田中村を領して田中姓を称した。
元亀年間に田中遠江守重景が和泉郡助松村に移り住み、織田氏に従って石山本願寺攻めに参戦している。
江戸時代に入ると帰農し、大庄屋となった。
田中氏の屋敷は「田中本陣」「助松本陣」と呼ばれ、紀州藩の参勤時の本陣として利用された。

江戸時代初期に建てられた屋敷が何度かの修築を経て現存。
敷地内は個人宅のために非公開となっているが、道路沿いに長屋門と土塀の一部が残っている。 続きを読む

田井城環濠(大阪府松原市)

田井城環濠

旧丹北郡田井城村にあった環濠集落。
田井城村は中世に石清水八幡宮の荘園である田井荘があった地域。
戦国期に城砦と環濠が築かれて「田井城村」と改め、環濠集落が成立した。

善宗寺北側の溜め池(西ヶ池)を北西隅に、現在の松原市田井城5丁目に展開されていたと思われる。
環濠の東辺の一部が水路として残り、道路形状からの推察で環濠の規模は約200m四方であったと思われる。 続きを読む

三宅城(三宅環濠)(大阪府松原市)

三宅環濠

旧丹北郡三宅村にあったとされる城砦。
詳しい時期は不明だが、1493年には城砦があったと考えられる。

『蔭涼軒日録』によると、1493年に畠山政長が畠山基家(後の畠山義豊)の高屋城に攻め込んだ際、同地に500の軍勢を布陣したとされる。
また、石山本願寺の『天文日記』には細川晴元と対立した細川氏綱が1546年に弟の細川藤賢を三宅に布陣させたことが記される。

延宝年間に描かれた『三宅村絵図』によると三宅天神宮(現在の屯倉神社)の周囲を水濠で囲んだ姿が描かれ、同時に城砦があったことを窺わせている。
その西方には集落の南端に沿って土塁のようなものが描かれ、現在も東西に細長く「土井先」の旧地名が残る。
城域とされる屯倉神社の東辺と南辺には幅4mほどの水路が残り、西辺は暗渠となっている。

1760年の『三宅村明細帳』に三宅村に惣構えの堀跡があったことが記されており、同地には環濠集落が形成されていたと考えられる。 続きを読む

丹南陣屋(大阪府松原市)

丹南陣屋

丹南藩の藩庁。
1623年、高木正次による設置。

高木正次は徳川十六神将のひとりに数えられた高木清秀の三男。
関ヶ原の戦い後に7千石を与えられ、大坂の陣後に2千石の加増を受けて相模国・武蔵国・上総国・下総国・近江国に9千石を領する旗本となる。
1623年に大坂定番になると1千石を加増され、河内国丹南郡のうち22村1万石を領する大名に列した。
丹南郡丹南村に陣屋を構えて丹南藩が成立し、明治維新に至るまで13代に渡って同地を統治。
藩領は廃藩置県によって丹南県となった後、堺県を経て大阪府に編入された。

高木氏の菩提寺である来迎寺の東隣にあったとされ、現在は商業施設となっている。
来迎寺の寺門の前に陣屋跡を示す碑と案内板が建つ。
陣屋の遺構として御殿の一部が来迎寺の奥座敷として移築されていたが、現在は取り壊されて現存しない。 続きを読む

若林環濠(大阪府松原市)

若林環濠

旧丹北郡若林村にあった環濠集落。
成立時期は不明。

若林村は戦国期の高屋城を巡る争いで度々戦場となっており、1493年に畠山政長が、1547年と1560年には三好長慶が同時に陣を置いている。
そのことから、集落の防衛のために環濠が形成されたものと思われる。

現在の松原市若林1丁目付近に展開されていたと思われる。
東西辺に水路が残り、東辺の水路が折れた箇所を南東隅と仮定した場合に環濠の規模は東西が約200m、南北が約160mとなる。
但し、若林村は1704年の大和川付け替え工事に際して集落の中心を流路が貫いて南北に分断されており、環濠の北辺がさらに北側であった可能性が残る。 続きを読む

立部環濠(大阪府松原市)

立部環濠

旧丹北郡立部村にあった環濠集落。
成立時期は不明。

立部村は中世に鋳物生産の一拠点として栄え、江戸時代初期に幕府領となった。
1705年より武蔵国川越藩領となり、藩主・秋元氏の支配を受けることになる。
1843年に記された『河州丹北郡立部村明細帳』によると、当時の立部村の家屋数は73軒、人口は334人であったとされる。
1845年に秋元氏が館林藩に転封となった後も立部村の領地は引き継がれ、秋元氏の支配の元で明治維新を迎えた。

現在の松原市立部1丁目付近に展開されていた環濠集落。
環濠の東辺が水路として残り、西辺と北辺は道路になっている。
その規模は東西が160mほどと考えられ、南辺を松原立部住宅北側の道路と仮定した場合には南北の規模は約300mとなる。

尚、北辺の道路の延長上に立部西交差点まで続く水路が見られ、その水路を環濠跡とした場合には東西の規模は約400mとなり、同地域で最大規模の環濠集落となる。 続きを読む

我堂環濠(大阪府松原市)

我堂環濠

旧丹北郡西我堂村にあった環濠集落。
成立時期は不明。

西我堂村は江戸時代を通して狭山藩の支配を受けた集落。
集落の家屋数は30~50軒、人口は190~280人ほどを推移したとされる。

現在の松原市天美我堂3~7丁目付近に展開されていたと思われる。
同地の大庄屋であった西川家の住宅(松原市内で最古の現存民家)の北側裏手に水路が残り、それが環濠の北辺と思われる。
我堂八幡宮の東側の路地を東辺、松原市立松原第五中学校から道路を隔てた西側に残る水路を西辺、西辺の水路が折れた箇所を南西隅と仮定した場合、その規模は東西が約320m、南北が約360mに及ぶ同地域で最大規模の環濠集落となる。 続きを読む

野本藩大井陣屋(大阪府藤井寺市)

野本藩大井陣屋

武蔵国野本藩(後の和泉国伯太藩)の河内国内における采地陣屋。
1662年、渡辺吉綱による設置。

渡辺吉綱は尾張藩家老・渡辺重綱の五男。
武蔵国内に3千石を与えられて徳川家綱の側用人を努めた後、1661年に大坂城代となったことで河内・和泉両国に1万石を加増されて1万3千石の大名に列席。
野本藩が成立し、その翌年には河内国内の采地陣屋として志紀郡大井村に陣屋を設置した。
野本藩は渡辺基綱(渡辺吉綱の孫)の代に武蔵国の所領を近江国に移され、1698年に大庭寺藩、1727年に伯太藩が成立。
所領は伯太藩に引き継がれ、明治維新に至る。

詳しい位置は不明だが、誓願寺付近にあったものと思われる。 続きを読む

高見環濠(大阪府松原市)

高見環濠

旧丹北郡高見村にあった環濠集落。
成立時期は不明。

高見神社を北西隅に、現在の松原市高見の里3丁目付近に展開されていたと思われる。
現在の道路形状から環濠の範囲を推察することは困難だが、学園通りを西辺、近鉄高見の里駅に続く道路を東辺に仮定すると東西の規模は約160mとなる。
西除川を南辺とした場合には南北の規模は約160mとなり、ほぼ正方形の集落の形状が浮かび上がる。 続きを読む

松平平福陣屋(兵庫県佐用郡佐用町)

松平平福陣屋

旗本松平氏の采地陣屋。
1631年、松平康朗による設置。

1631年、平福藩が池田輝興の赤穂藩転封に伴って廃藩となった後、松平康朗(松井松平氏・松平康政長男)が5千石で入領。
それまでの藩庁であった利神城を廃し、宿場町の一角に代官の陣屋を構える。
以降、その子孫が代々に渡って同地を治めた。
1836年、松平康直の代に出石藩の御家騒動(仙石騒動)に連座して陸奥国石川郡内に所領を移されるも、1863年に2千500石で復領。
その後は平福の地を領したまま、明治維新を迎えた。

国道373号線沿い、道の駅平福の南隣の高台に位置する。
同地には1864年に代官・佐々木平八郎が建築が表門が現存する。 続きを読む

平福藩御殿屋敷(兵庫県佐用郡佐用町)

平福藩御殿屋敷

平福藩池田氏の山麓御殿。
慶長年間、池田由之による築城。

1601年、播磨国に入領した池田輝政は甥の池田由之に平福2万2千石を分与。
由之は5年の歳月を要して山上の利神城を近世城郭へと改修し、西側山麓に武家屋敷群、因幡街道沿いに城下町を整備した。
武家屋敷群には石垣を多用した豪華な屋敷が築かれ、その規模は東西34間、南北70間あったとされる。
1609年に池田由之が備前国下津井に移った後、1615年に池田輝興(池田輝政六男)が2万5千石で入領して平福藩が成立。
1631年に輝興が赤穂藩に転封となると平福藩は廃藩となり、利神城とともに御殿も廃城になったものと思われる。

智頭急行平福駅の北側、千種川と智頭急行智頭線に挟まれた農地に位置する。
御殿敷地の南側に幅50mに渡って石垣が残り、その東側はつづら折れの坂道から利神城の三の丸に至る。
平成21年台風第9号(佐用豪雨)の復旧工事に伴う発掘調査で、建物礎石や掘立建物痕、堀などの遺構が検出されたほか、陶磁器などの生活遺品が発見された。

2017年10月、「利神城跡」として利神城跡と御殿屋敷跡が国史跡に指定。 続きを読む