タグ別アーカイブ: 平城

尼崎城(兵庫県尼崎市)

尼崎城

尼崎藩代々の居城。
1617年、戸田氏鉄による築城。

1615年、建部政長・池田重利が播磨国川辺郡および西成郡に1万石を領して尼崎藩が成立。
1617年に建部政長が林田藩に、池田重利が鵤藩にそれぞれ転封したことに伴い、戸田氏鉄が5万石で入領。
1635年に戸田氏が美濃国大垣藩に転封となると、その跡を青山氏4代、1711年より桜井松平氏7代が藩主を務め、明治維新を迎えた。

大物川と庄下川に挟まれた三角州に位置する平城。
周囲を3重の水堀で囲み、4重の天守と3棟の三重櫓・本丸御殿を持つ本丸を中心に、西側と北側を囲むように二ノ丸、東に松ノ丸、それらを囲むように西側に西三ノ丸、東側に東三ノ丸が配置。
本丸は一辺が約115mのほぼ正方形をしており、北東隅に天守と付櫓として寅卯二重渡櫓と二重渡櫓、他の3隅にはそれぞれ三重櫓が建てられた。
天守は西側と南側に付櫓を持つ複合式層塔型4重4階の構造で、その規模は東西21m、南北17m、天守台上からの高さは16.8mあったとされる。
本丸の中央には尼崎藩の藩庁である御殿が建ち、大書院を中心に台所、居間、式台、金之間などの建物が繋げられていた。
御殿は1846年に本丸の女中部屋付近からの出火で全焼したものの、翌年には再建されている。

1873年に廃城。
建物のほとんどは取り壊され、1874年に深正院(尼崎市大物町)の本堂として移築された本丸御殿も戦災で焼失。
そのため、地表面に遺構はほとんど残っていない。
尼崎市教育委員会では20回以上に渡って発掘調査を実施しており、本丸御殿などの建物遺構や庄下川の堤防の下から石垣の一部が見つかるなど、城跡からは多数の遺物・遺構が出土している。

現在、本丸跡地は尼崎市立明城小学校の敷地として利用。
また、城跡の一部は『尼崎城址公園』として整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。
2018年、西三ノ丸跡地である公園の中央付近に外観復元天守が完成した。 続きを読む

大覚寺城(兵庫県尼崎市)

大覚寺城

室町幕府2代将軍・足利義詮の陣城。
1359年、足利義詮が在陣。

大覚寺は605年に百済の僧・日羅によって創建され、1275年に琳海が再興した律院寺院。
1359年に足利義詮が半年間に渡って在陣したことから、『大覚寺城』と呼ばれるようになった。
大覚寺の門前には市場が設けられて市庭町として発展し、中世都市としての尼崎が形成されたといわれる。

現在の大覚寺は1617年の尼崎城築城に伴って移転したもの。
当時の絵図には境内の北東側に大物橋が描かれており、現在の尼崎市東本町4丁目付近にあったと推測される。 続きを読む

大物城(尼崎古城)(兵庫県尼崎市)

大物城

海運上の要地である大物浦を抑える城砦。
文献上の初見は1473年の『萩藩閥閲録』に見られるが、一般的には1519年に細川高国が「柵城」を築いたことを始まりとする。

大物浦は古くから海運上の要地として栄えた地域。
1519年に管領・細川高国が同地に「柵城」を築き、1526年には細川尹賢に城の拡張を命じている。
1527年、細川高国と細川晴元が争った桂川原の戦いの折に落城。
播磨守護代・浦上村宗の支援を得た高国は、1530年に城将の薬師寺三郎左衛門国盛を降伏させて城を奪還した。
しかし、その翌年に中嶋で細川晴元勢に大敗して尼崎に敗走。(大物崩れ)
細川高国は大物城へ撤退中、紺屋に潜伏していたところを三好元長に捕縛され、廣徳寺で自害した。

その後も大物の地は幾度も戦場となっており、天文年間から元亀年間のうちに28回の在陣が確認できる。
1577年には荒木村重の嫡男・荒木村次が城主となり、翌年に村重が織田氏に対して謀叛を起こすと、大物城は荒木方の要地のひとつとなった。

阪神電鉄大物駅の南側から大物主神社にかけての一帯が城域とされる。
周辺は宅地開発が進み、遺構は存在しない。 続きを読む

田所城(府中城)(大阪府和泉市)

田所城

在地の土豪・田所氏の居城。
築城時期は不明。

田所氏の出自は明らかでないが、「田所」の苗字は国衙において田畑に関する台帳の作成・管理を担う職にあり、付近にある和泉国府と何らかの関係があったことが想像される。
戦国期の城主である田所大和守は大鳥明神の神職を務めた人物で、和泉三十六郷士のひとりに数えられる。
府中・和気・井口・黒取・板原・肥子の各村と八木郷に5ヶ村を領し、その広大な所領から「上ノ大和殿」と称された。

JR和泉府中駅の近く、大泉寺付近にあったと思われる。
泉井上神社境内に残る「古城」の碑は同地から移されたもので、「城主田所元※(最後の文字は不明)」と刻まれている。 続きを読む

森城(大阪府泉大津市)

森城

旧和泉郡森村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

詳しい位置は不明だが、現在の森町内にあったと推測される。
西蓮寺を含む南北に長い区画が周辺より僅かに高くなっており、西蓮寺を境に道路が北側に落ち込んでいることが確認できる。
そのことから、この付近に城館があった可能性が高いと考えられる。

和泉郡森村は千原城を本拠とする玉井氏の所領であり、玉井氏の千原城・曽根城と近いことからも玉井氏に関連する城砦であったと思われる。 続きを読む

三上館中屋敷(滋賀県野洲市)

三上館中屋敷

在地の土豪・三上氏の居館。
永享年間、三上政実による築城とされる。

三上氏は古代より近江国三上郷を本拠とし、代々に渡って御上神社の神職を努めた一族。
その一部が武士化したと思われ、鎌倉時代には源義経討伐軍の中に近江の武士と比定される「三上家季」の名が見られる。
三上政実は因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持つ人物で、1487年の長享の乱(鈎の陣)では幕府方として六角氏攻めに従軍。
後に六角氏の影響下に入ったものと思われ、その子孫は江戸時代を通して幕府旗本として存続した。

妙光寺山の南麓、妙光寺集落の北側に位置する居館。
東西に方形の曲輪が連なる複郭の構造で、西の曲輪跡は水田と住宅、東の曲輪跡は藪地となっている。
西の曲輪跡の北辺と東辺に土塁と空堀が残るほか、東の曲輪跡の東辺にも土塁の一部が残存。
城域の西端を住宅敷地とした場合、その規模は東西120m、南北50mほどに及ぶ。

同地には三上氏の居館として、「下屋敷」「中屋敷」が伝わる。 続きを読む

三上館下屋敷(滋賀県野洲市)

三上館下屋敷

在地の土豪・三上氏の居館。
永享年間、三上政実による築城とされる。

三上氏は古代より近江国三上郷を本拠に御上神社の神職を努めたことが知られるが、その一族が武士化したものと思われる。
三上近江入道周通(実名不詳)の代に因幡国巨濃郡岩井庄に所領を持ち、三上政実はその曽孫に当たる人物。
三上政実は1485年に足利義尚の伊勢神宮参拝に同行したことが確認され、1487年の長享の乱(鈎の陣)では幕府方として六角氏攻めに従軍。
戦国期に入ると三上氏は六角氏の影響下にあったと思われ、近江南部の旗頭を務めた。
江戸時代には幕府旗本となり、1640年の人吉藩の御家騒動(御下の乱)において三上季正が幕府の上使として派遣されたことが細川家史料に見られる。
三上館は旗本三上氏代々の居館として、江戸時代を通して存続したことが確認できる。

妙光寺山の南麓、妙光寺集落の北側に位置する単郭方形の居館。
現在も同地には三上氏の子孫が在住し、50m四方の敷地の周囲に高さ3mほどの土塁が現存。
北側を除く3辺に堀跡が明瞭に残り、南側の中央付近には平虎口が確認できる。

同地には三上氏の居館として、「下屋敷」「中屋敷」が伝わる。 続きを読む