近藤氏・入江氏の居城、後に高槻藩の藩庁。
990年、近藤忠範が久米路山に築城したことが始まりとされる。
近藤氏は1331年の後醍醐天皇の笠置山籠城に従軍し、当主の近藤宗光が討死。
入江忠景の二男・春則が近藤宗光の娘を娶って高槻を継承し、足利尊氏の命で城(入江城)を築いたとされる。
1569年に発生した本圀寺の変で三好方となった入江元秀は、後に織田信長に滅ぼされた。
入江氏の滅亡後は和田惟政、惟政の討死後に高山右近が入城。
豊臣政権下では新庄直頼、関ヶ原の戦い後に新庄氏が改易されると代わって青山忠成が城主を務めた。
1615年に内藤信正が4万石で入城して以降、高槻藩の藩庁として機能。
1617年に内藤信正が大坂城代となると、土岐定義が2万石で入城。
定義の代に大規模な改修が行なわれ、三重の堀と本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成された近代城郭となる。
その次の岡部氏の代に、西国街道に近い北側に城下町が拡張された。
1649年に永井直清が入城して以降、永井氏13代の居城として明治維新を迎える。
1871年に廃城。
1874年には破却が始まり、石垣は東海道本線向日町駅-大阪駅間の鉄道敷設のために転用された。
1909年より、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯。
敷地内には1947年に高槻市立第一中学校、1951年に大阪府立島上高等学校(現在の大阪府立槻の木高等学校)が建てられた。
現在、本丸跡は大阪府立槻の木高等学校の敷地となり、三の丸の一部が城跡公園として整備されている。
公園内には模擬石垣と高山右近像が建ち、本丸跡に「高槻城跡」の碑が建つ。
城域の大部分は市街地化されて遺構は残っていないが、三の丸と出丸を囲む外堀跡に沿って道路が造られ、市街地の中に城の形状を伝える。
拡張が重ねられた城全体の規模は、最終的に南北630m、東西600mに及んだと推定される。 続きを読む