日別アーカイブ: 2017年6月24日

入江城 / 高槻城(大阪府高槻市)

高槻城

近藤氏・入江氏の居城、後に高槻藩の藩庁。
990年、近藤忠範が久米路山に築城したことが始まりとされる。

近藤氏は1331年の後醍醐天皇の笠置山籠城に従軍し、当主の近藤宗光が討死。
入江忠景の二男・春則が近藤宗光の娘を娶って高槻を継承し、足利尊氏の命で城(入江城)を築いたとされる。
1569年に発生した本圀寺の変で三好方となった入江元秀は、後に織田信長に滅ぼされた。
入江氏の滅亡後は和田惟政、惟政の討死後に高山右近が入城。
豊臣政権下では新庄直頼、関ヶ原の戦い後に新庄氏が改易されると代わって青山忠成が城主を務めた。
1615年に内藤信正が4万石で入城して以降、高槻藩の藩庁として機能。
1617年に内藤信正が大坂城代となると、土岐定義が2万石で入城。
定義の代に大規模な改修が行なわれ、三重の堀と本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成された近代城郭となる。
その次の岡部氏の代に、西国街道に近い北側に城下町が拡張された。
1649年に永井直清が入城して以降、永井氏13代の居城として明治維新を迎える。

1871年に廃城。
1874年には破却が始まり、石垣は東海道本線向日町駅-大阪駅間の鉄道敷設のために転用された。
1909年より、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯。
敷地内には1947年に高槻市立第一中学校、1951年に大阪府立島上高等学校(現在の大阪府立槻の木高等学校)が建てられた。

現在、本丸跡は大阪府立槻の木高等学校の敷地となり、三の丸の一部が城跡公園として整備されている。
公園内には模擬石垣と高山右近像が建ち、本丸跡に「高槻城跡」の碑が建つ。
城域の大部分は市街地化されて遺構は残っていないが、三の丸と出丸を囲む外堀跡に沿って道路が造られ、市街地の中に城の形状を伝える。
拡張が重ねられた城全体の規模は、最終的に南北630m、東西600mに及んだと推定される。 続きを読む

高槻藩唐崎台場(大阪府高槻市)

高槻藩唐崎台場

淀川防衛のために幕末に築造された台場(河川砲台)のひとつ。
1864年、高槻藩が藩内警護を目的に築造。

現在は高槻ゴルフ倶楽部の敷地となっており、遺構は存在しない。
ゴルフ場の北西端付近にあったとされ、当時の絵図には10m×20mの規模で示されている。 続きを読む

梶原台場(大阪府高槻市)

梶原台場

淀川防衛のために幕末に築造された台場(河川砲台)のひとつ。
1865年、江戸幕府による築造。

1863年に会津藩主・松平容保が江戸幕府に建白したことで築造が始まり、1865年に完成。
その翌年に築造された高浜台場とともに、津藩が警護を担当した。
外国船の淀川遡上阻止と長州藩への関門を目的とし、1867年に長州藩が上洛した際には「一触即発」の事態となっている。
そのときには長州藩と台場を警護する津藩が衝突する直前に入洛の勅許が下りたため、台場の警備は解かれ、長州藩は長岡の光明寺へと進軍を再開した。
1868年の鳥羽・伏見の戦いで津藩は新政府軍に帰順し、対岸の楠葉台場を砲撃して幕府軍を敗走させている。

稜堡式(星型要塞)の構造を持ち、稜堡の突端部から西国街道に向けて2門の砲台が設置されていた。
西国街道を内部に引き込み、複雑に屈曲させることで関門としての機能を強化していたと考えられる。

阪急上牧駅からJR東海道本戦にかけての住宅地一帯にあったとされる。
住宅地内の畑地に稜堡の突端部と思われる地形が残り、砲台が設置されていた。
史料上は「梶原村関門」「神内炮台」「神内御台場」などと呼ばれる。 続きを読む

高浜台場(大阪府三島郡島本町)

高浜台場

淀川防衛のために幕末に築造された台場(河川砲台)のひとつ。
1866年、梶原台場の関門機能強化のために江戸幕府が築造。

1863年、会津藩主・松平容保の建白によって台場の築造が始まり、1865年に梶原台場と樟葉台場が完成。
梶原台場の関門機能強化のため、1866年に高浜台場が築造された。
外国船の淀川遡上阻止と長州藩への関門を目的とし、梶原台場と高浜台場は津藩が警護を担当。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に帰順した津藩が対岸の楠葉台場を砲撃し、幕府軍は敗走している。
周囲180m、高さ2.5mの規模を持ち、4門のカノン砲を配備していたとされる。

1965年に同地に水無瀬ゴルフ場が開業したことにより、遺構は消滅。
2014年にゴルフ場が閉鎖され、現在はヨシの群生地となっている。
河川敷から少し離れた薬師堂前に「高浜砲台跡」の碑が建つ。 続きを読む

高槻藩大塚台場(大阪府高槻市)

高槻藩大塚台場

淀川防衛のために幕末に築造された台場(河川砲台)のひとつ。
1864年、高槻藩が藩内警護を目的に築造。

枚方大橋北詰の東側、河川敷にあったとされるが遺構は存在しない。
当時の絵図には10m×50mの規模で示されている。 続きを読む

富田寺内(大阪府高槻市)

富田寺内

本願寺の寺院・教行寺を中心とした寺内町。
1476年、蓮如が室町幕府管領・細川勝元から土地を寄進され、寺院を建立したことが始まり。

寺院は富田道場と呼ばれ、1498年に蓮芸(蓮如八男)が住持となる。
道場を中心に寺内町が形成され、北摂における一向宗のの布教拠点として隆盛を極めた。
1532年、室町幕府管領・細川晴元と対立し、富田道場と寺内町は尽く焼失。(享禄・天文の乱)
1536年に晴元が日蓮宗側と対立して天文法華の乱が起こると、道場の再建が許され、再び寺内町が形成された。
蓮如がこの地で『顕浄土真実教行証文類(教行信証)』を書き写したことから、寺院は後に『教行寺』と称されるようになる。

1594年に実施された検地で寺内町を含む富田村一帯には436の屋敷地があり、同地域の政治的中心地である高槻村を上回る規模であったとされる。
しかし、検地を境に寺内町としての特権を失い、宿場町としての機能は西国街道の整備に伴って芥川宿へと移行した。

現在も同地に建つ教行寺を中心に細い路地に民家が密集しており、寺内町の雰囲気を残す。
県道132号線を南東端として阪急線・JR線に向かって上り坂が続く地形が、寺内町全体が台地上にあったことを窺わせる。 続きを読む

山城国府(京都府乙訓郡大山崎町)

山城国府

平安時代における山城国の国庁(地方政庁)。
861年、嵯峨天皇の河陽離宮跡地に国府機能を移転。

山城国の国府機能は元は相楽郡上狛(現在の木津川市山城町上狛付近)にあり、8世紀前半に葛野郡太秦(現在の京都市右京区太秦付近)、797年に乙訓郡久貝(現在の長岡京市久貝付近)と移った後、861年に嵯峨天皇の河陽離宮跡地に移転した。
同地は平安京の外港である山崎津に近く、淀川水運と西国街道を繋ぐ交通の要衝にあって相応寺などの寺院が建ち並び、周辺は多くの造り酒屋で賑わっていたとされる。

JR山崎駅近くにある離宮八幡宮とその北側一帯にあったと推定される。 続きを読む

五百住館(松永屋敷)(大阪府高槻市)

五百住館

旧島上郡五百住にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

享保年間の絵図に「松永屋敷御畑田」の記述があり、一般的には『松永屋敷』と呼称される。
『陰徳太平記』によると松永久秀は摂津国五百住の土豪出身とされており、そのことから同地が松永久秀に関連する屋敷跡と推測されている。
但し、松永久秀の前半生には不明な点が多く、出身地にも諸説あり、確定はされていない。
久秀は本山寺に対して五百住の田地を寄進していることが確認できることから、同地に所領があった可能性が高いと考えられる。

高槻市東五百住の住宅地内に南北に細長い水田があり、その周辺が「松永屋敷御畑田」に推定される。 続きを読む