月別アーカイブ: 2017年7月

土佐藩住吉陣屋(大阪府大阪市)

土佐藩住吉陣屋

大坂湾防衛のために設置された陣屋のひとつ。
1861年、幕府より住吉浜海岸警備を命じられた土佐藩が設置。

1860年、幕府より大坂湾防衛(摂海警衛)を命じられた土佐藩は住吉郡中在家村および今在家村に1万79坪の土地を与えられ、陣屋を造営。
吉田東洋を仕置役として、普請奉行に後藤象二郎、作事奉行に寺村左膳が命じられ、翌年の1861年に完成した。
紀州街道沿いに面する西側を正面とし、上町台地西崖に接する東側を除く三方に堀を巡らせていた。
敷地には陣屋のほかに武芸所の文武館、厩舎、火薬庫、射撃場、操練所があり、約300名が常駐していたとされる。
海岸沿いには旧浜川砲台から移動させた大砲数門が据えられ、その構えは「城郭に匹敵する」といわれた。

1866年、土佐藩は京都警護を命じられため、住吉の陣屋は廃止。
主だった建物は京都白川の土佐藩邸に移築された。

大阪市立東粉浜小学校および東粉川幼稚園付近にあったとされる。
同地に遺構は存在しないが、生根神社に石垣が転用されている。
2010年、地元有志の手にによって『土佐藩住吉陣屋跡』の碑が建てられた。 続きを読む

遠里小野環濠(大阪府大阪市)

遠里小野環濠

旧住吉郡遠里小野村にあった環濠集落。
環濠集落が形成された時期は不明。

遠里小野の地名は古代律令制度が成立する頃に遡り、万葉集に「とほさとをの(とおさとおの)」と詠まれている。
異説として、「瓜生野(うりうの)」が転じて「遠里小野(おりおの)」に変化したともされる。
1347年、同地で楠木正行が500騎を率いて室町幕府軍と戦っている。(瓜生野の合戦)

集落は南北280m、東西320mの規模を持ち、発掘調査で古代の漁具が多数出土したことから古くからの漁村であったと考えられる。
古代には難波京と和泉国府を結ぶ南海道、中世には熊野街道が通り、交通の要衝として発展していた。
環濠には6ヶ所に門が設置され、鈎状の通路によって守られていたとされる。

府道30号線(あべの筋)を北西端、南海電鉄高野線を東端、府道42号線を南端とする範囲にあったとされる。
環濠は消滅しているが、南辺を除く3方にはかつての水濠跡に沿って生活道路が巡らされている。
東辺の集落内には家屋の土台や道路脇に低い石垣が見られ、それらが水濠の跡であると考えられる。 続きを読む

堺台場北砲台(大阪府堺市)

堺台場北砲台

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1855年、堺奉行による築造。

1854年、ロシア使節・プチャーチンを乗せたディアナ号が大坂湾に侵入し、天保山沖に停泊。
それを機に江戸幕府は大坂湾防衛のため、堺港の南北に砲台を築造した。
東西70m、南北90m、高さ3mのコの字形の土塁で囲まれ、南北の砲台ともに彦根藩が守備。
1863年の記録によると、36貫目のモルチール砲を主砲に大砲8門を備えていたとされる。

明治に入ると台場は廃止され、公園地となる。
当初は陸軍省に属していたが後に堺市の所有となり、現在は大浜北公園の敷地の一部として整備されている。
かつては土塁の一部が残っていたが、阪神高速4号湾岸線の建設に伴って消滅。
公園の奥に案内板が建つ。 続きを読む

住吉行宮(大阪府大阪市)

住吉行宮

南北朝時代の南朝の行宮(仮御所)のひとつ。
1352年、後村上天皇が住吉大社神主・津守氏邸内の正印殿を行宮としたことが始まり。
以降、1378年に長慶天皇が吉野に移るまで南朝方による京奪還のための拠点となった。

1352年2月、南朝は足利尊氏が足利直義討伐のために関東に向かった隙に、京の回復を図る。
河内の東条から摂津の住吉に至り、男山八幡に進出。
楠木正儀が七条大宮で足利義詮の軍勢を破り、京の回復に成功した。
その際、後村上天皇は大覚寺統と結び付きの強い住吉大社神主・津守氏の邸宅内にある正印殿に移り、同地を行宮と定めた。
同年3月に足利方の反撃に遭い京を放棄すると、後村上天皇は住吉から男山八幡へと後退し、10月には河内天野の金剛寺を行宮と定める。
1360年9月、後村上天皇は再び住吉に移るも1568年に同地で崩御。
次の長慶天皇が同地で即位した後、1368年末に吉野へ移るまで行宮として機能していた。

正印殿は住吉大社の神印が納められた建物とされ、1060年に津守国基が邸宅内に創建したと伝わる。
明治14年頃に津守氏邸は人手に渡り、正印殿の建物は消滅。
1916年と1933年に正印殿跡地が当時の所有者から大阪府に寄付された。
1938年に『住吉行宮正印殿址』として大阪府指定史跡、1939年には国史跡に指定。 続きを読む

堺台場南砲台(大阪府堺市)

堺台場南砲台

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1855年、堺奉行による築造。

1854年、ロシア使節・プチャーチンを乗せたディアナ号が大坂湾に侵入し、天保山沖に停泊。
それを機に江戸幕府は大坂湾防衛のため、堺港の南北に砲台を築造した。
築造当初は海に向かって一文字型に大砲を設置していたが、1864年に彦根藩が稜堡式の西洋式砲台に改修。
北面から西面にかけて大砲18門を備え、その規模は東西195m、南北296mに及んだ。

明治に入ると台場は廃止され、1879年より「大浜公園」として解放されている。
北東側に土塁と石垣、南側に石垣と堀跡が良好な状態で残存。
南側の堀跡は菖蒲園として再利用されている。 続きを読む

堺政所 / 堺奉行所(大阪府堺市)

堺奉行所

江戸幕府の遠国奉行所のひとつ。
戦国時代末期に堺の町と港湾を管理した堺政所を前身とし、1618年に堺奉行と改称。

堺奉行は堺および和泉・河内国内の幕府天領を統治した遠国奉行。
1570年に織田信長が松井友閑を堺政所に任命したことにはじまり、豊臣政権下では石田正澄・三成らが務めていた。
1614年に堺は江戸幕府直轄領となる。
1618年、堺奉行と改称。
一時は喜多見勝忠が摂津・和泉・河内の奉行を兼ねるなど存在感を見せていたが、大坂への経済集中と堺浦の衰退に伴って地位が低下。
1696年、堺が大坂町奉行の管轄になったことで堺奉行は廃止される。
1702年に再興するも大坂町奉行の指揮下として規模は縮小され、1867年の慶応の改革によって再び廃止された。

明治維新後、堺奉行所跡地に大阪裁判所(大阪府の前身)が出張所を設置し、後に堺役所と改称。
1868年、大阪府から分離して堺県が発足し、堺県庁となった。
1881年に堺県が廃止されて大阪府に編入された後、同地には1892~1944年まで堺市役所が建っていた。

設置当初の位置は不明だが、元和年間以降の町割りによると堺区車之町東2・3丁と櫛屋町東2・3丁の渡る範囲にあった。
同地には現在、大阪府立泉陽高等学校と堺市立殿馬場中学校が建つ。
中学校の名称に残る「殿馬場」は、かつて奉行が乗馬の練習を行なった場所とされる。 続きを読む

堺城(大阪府堺市)

堺城

応永の乱における大内方の本城。
1399年、大内義弘による築城。

周防国を本拠とする6ヶ国守護・大内義弘は、北山第造営や少弐氏討伐における恩賞などを巡って室町幕府と対立。
1399年、足利義満からの上洛要請を拒否し、和泉国堺で挙兵する。
義弘は堺に井楼48と矢倉1,700を備えた周囲2kmに及ぶ「前代未聞」の要塞を築き、5千の兵で籠城。
土岐詮直・京極秀満・宮田時清ら反幕府派の諸氏がそれに呼応し、各地で挙兵した。
幕府方は3万の軍勢で城を包囲するも、畠山・山名・細川・赤松らの軍勢が尽く敗退。
しかし、幕府方が強風に乗じて火攻めを行なうと大内方は徐々に劣勢となり、大内義弘は畠山満家の軍勢に討ち取られた。(応永の乱)

堺の街は中世環濠都市の名残を現代に伝えるも城の痕跡は残されておらず、その範囲は判然としない。
南海電鉄堺東駅の東側、紅谷庵と大阪府立三国丘高等学校の付近は城山と呼ばれ、「城の西」「城の東」などの旧地名が残る。
また、近年まで同地には大内義弘の戦死地を示す碑が建っており、この付近に詰めの城があったと考えられる。 続きを読む

堺環濠(大阪府堺市)

堺環濠

中世に商業と貿易で繁栄した自治都市。

堺は中世に貿易湊として発展し、室町時代に成立した海洋法規集『廻船式目』では三津七湊のひとつに数えられる。
戦国時代に入ると商人による自治的な運営が行なわれるようになった。
宣教師・ガスパル ビレラの1562年の報告書に「町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ」と記されていることから、その頃までに環濠都市が形成されていたと考えられる。
織田信長が畿内を制すると1569年に織田氏の支配下となり、松井友閑が堺政所(奉行)となった。
1586年、豊臣秀吉の命によって外濠が埋め立てられ、環濠都市としての堺は消滅。
1615年の大坂夏の陣で町は全焼し、元和年間に江戸幕府によって復興。
そのときに環濠も再建された。
しかし、豊臣政権期の埋め立ての影響による滞砂現象で堺の湊は衰退し、経済の中心は大坂へと移っていった。

南北3km、東西1kmに及ぶ広大な環濠都市。
元和年間の復興時の町割りが現代に残り、それ以前の町の範囲は一回り狭いものであったことが発掘調査で明らかとなっている。
2007年に実施された建物建設に伴う発掘調査で4条の環濠跡が発見された。
最も古いと推定されるところで幅17m、深さ4.5mの水濠が確認され、その内側には土塁が築かれていたと考えられる。
南辺の水濠が土居川として残存。
大坂湾に面していた西辺は、天保年間に造られた海岸線に沿って内川と土居川が流れている。
東辺の水濠は1970年に阪神高速15号堺線建設のために埋め立てられ、現在は土居川公園として整備されている。 続きを読む

玉出環濠 / 勝間砦(大阪府大阪市)

玉出環濠跡

旧西成郡勝間村にあった環濠集落。

玉出は西成郡勝間村のうち、生根神社周辺を示す地名。
南北朝時代には武具製造の拠点となり、「勝間千軒」と呼ばれる大規模な集落があった。
戦国期になると集落の周囲に幅1.8mの水濠を巡らせ、玉出四ヶ寺(光福寺・誓源寺・善照寺・長源寺)を中心とした環濠都市を形成。
元亀・天正年間の織田氏と石山本願寺の抗争(石山合戦)において、石山本願寺方が同地に砦(勝間砦)を築いている。
江戸時代には大坂への蔬菜供給農村のひとつになるとともに、木綿産業が発展。
同地の木綿「勝間木綿」が大坂の木綿相場を左右するとも言われた。

大阪市立玉出中学校と玉出西公園を中心に、阪神高速15号線を西端、国道26号線を東端とする範囲にあったとされる。
昭和初期まで環濠が残存していたが、現在は消滅。
環濠が成立した当初、集落の西端は大坂湾に面しており、江戸時代には農業用水路「十三間堀川」が通っていた。
1970年の阪神高速15号線の建設に伴って十三間堀川が埋め立てられたことにより、環濠の名残は消滅した。 続きを読む

海船政所(大阪府堺市)

海船政所

堺における三好氏の本城。
1504年、三好長輝による築城。

1504年、阿波の国人・三好長輝は細川澄元の先鋒として入洛するため、阿波国に近い堺に館を築いて拠点とした。
1506年に細川澄元が室町幕府管領となると、その後見人として次第に権力を強化。
しかし、1520年の等持院の戦いで細川高国に敗れると捕らえられ、知恩寺で処刑された。
三好氏を継いだ三好元長(三好長輝の孫)は、1521年に堺の館を「政所」と改称。
以降、室町幕府で実権を握った長慶・義興・義継の3代に渡り、周辺の支城群をまとめる本城としての役割を果たした。

堺環濠の北側に位置し、その規模は東西650m、南北はその倍あったとされる。
遺構はまったく残されていないが、文献資料によると館の中央に高楼を建てて四方を監視し、有事には鐘と太鼓を打ち鳴らして一族郎党に知らせたといわれる。
南海本線七道駅の南東付近と錦之町内に城址を示す碑が建つ。 続きを読む

阿星山観音寺陣所(六角高頼本陣)(滋賀県栗東市)

阿星山観音寺陣所

長享・延徳の乱(鈎の陣)における六角高頼方の陣所のひとつ。

観音寺は733年に南都の高僧・良弁が創建した法相宗の寺院。
嵯峨天皇をはじめとした歴代天皇によって厚く庇護され、僧房24宇の一大道場として賑わっていたとされる。
長享の乱(鈎の陣)では六角高頼が同寺に布陣し、足利義尚方との戦いで伽藍は尽く灰燼に帰した。
1687年、比叡山東塔北谷惣持坊の末寺となり、天台宗の寺院として復興。

阿星山の北西麓、集落を見下ろす位置に現在も観音寺が建つ。
寺は江戸時代の間に荒廃して無住寺となっていたが、近年になって住職が入山し、復興が進んでいる。 続きを読む