佐々木六角氏代々の居城。
1335年、六角氏頼が観音正寺を城塞化したことが始まりとされる。
当時の六角氏の本城は観音寺城から南西に位置する金田館にあり、いつ頃から観音寺城が本城として機能したかは不明。
少なくとも氏頼以降、満高・満綱・持綱・久頼までは金田館を本城としており、高頼の代になって慈恩寺館、次いで観音寺城に本城を移したものと思われる。
応仁の乱で六角氏は西軍に属しており、東軍に与した京極持清に2度に渡って攻められ落城。
1469年、六角高頼は近江守護を解任され、代わりに京極持清が近江守護に就任。
それに激怒した高頼は前年の戦いで焼失した観音寺城を修築し、鎮圧に向かった多賀高忠と六角政堯を撃退。
観音寺城を奪還した。
1489年から1491年に及ぶ長享・延徳の乱、1502年の伊庭貞隆・行隆の反乱においても観音寺城を一時奪われているが、ともに奪還している。
1568年、織田信長の上洛軍に支城の箕作山城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃走。
その後、六角義賢は石部城を拠点に抵抗を続けるも観音寺城に戻ることは出来ず、そのまま廃城になったと思われる。
但し、元亀年間の改修と思われる石垣の痕が見られることから織田方の城として存続していた可能性も指摘される。
繖山(標高432.9m)の南腹斜面に築かれた山城。
築城当時は観音正寺を城塞化した簡易的な砦であったと思われるが、大永年間には城郭としての構えが完成していたとされる。
1532年に将軍・足利義晴を迎えるための大規模な改修が行なわれ、1550年頃には総石垣造りとなっていたことが発掘調査によって明らかとなった。
正確には把握されていないものの曲輪の数は1,000ヶ所以上あり、それらの曲輪は防御施設としてではなく、国人衆の居館が築かれていたものと考えられている。
1969年より2年間に渡って発掘調査が実施され、いくつかの曲輪の構造が明らかとなった。
特に大規模な曲輪が西尾根に連なる本丸・平井丸・池田丸、東端の淡路丸であり、それぞれに広い空間と居住用の施設、巨大な石垣と虎口を備えていたことが確認できる。
西尾根の標高395m地点にある本丸は幅4mの石段の先に広大な空間を有し、曲輪の内部からは建物礎石と貯水槽、排水設備などが検出された。
また、「二階御殿」と呼ばれる建物があったと思われている。
本丸の南側に隣接する平井丸は最大規模の曲輪となり、長さ32mに及ぶ虎口跡、潜り門、北東部には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見されている。
平井丸の南側にあって主要部の南端となる池田丸は南北2段の構造を持ち、周囲に土塀を巡らせた御殿と庭園、貯水槽などが検出された。
主要部の最東端にあって鬼門の方向に当たる淡路丸は50m四方の空間を土塁で囲み。その内外を石垣で固めた構造を持つ。
南西・西・北東に虎口を備え、南側には目賀田丸と呼ばれる土塁で囲まれた腰曲輪を備えている。
その他、絵図によると大手道沿いに宇野丸・久保丸・山崎丸、観音正寺境内に種村丸、北側の稜線沿いに三雲丸・高宮丸・和田丸・楢崎丸・永原丸・蒲生丸・沢田丸・三国丸・馬渕丸・馬場丸・三井丸・伊庭丸・大見付・進藤丸・後藤丸、東端に赤田丸・松岡丸・鯰江丸、西尾根周辺に佐野丸・小梅丸・伊藤丸・松吉丸・長束丸・三の丸・落合丸・木村丸などの曲輪があったことが確認できる。
また、追手道の麓にある天満宮は「御館」と呼ばれる六角氏の居館跡であるとされる。
三井丸と伊庭丸の中間付近に「佐佐木城址」の碑が建つ。
1982年、『観音寺城跡』として国史跡に指定。 続きを読む →