月別アーカイブ: 2017年5月

黒井城下館(兵庫県丹波市)

黒井城下館

黒井城の南麓に築かれた平時居館。
1554年、赤井直正のよる築城。

1554年、黒井城に入城した赤井直正が在地土豪・奥村氏の屋敷跡を改修し、平時の居館とした。
周囲には武家屋敷が建ち並び、職人町や商人町、寺町を含む大規模な城下町を形成していたとされる。
1579年に黒井城が落城し、明智光秀が丹波一国を領すると、斎藤利三が城主として入城。
その年の暮れ、同地で春日局(徳川家光乳母)が生まれている。
館がいつ頃まで使用されていたかは不明だが、黒井城は川勝秀氏を最後の城主として1601年に廃城となっている。

現在、同地には興禅寺が建つ。
興禅寺は永禄年間の戦火で焼失するも、後に赤井直正が復興。
1626年に同地に移転され、赤井直正を開基とした曹洞宗の寺院に改められた。
門前に残る高石垣と「七間堀」と呼ばれる水濠は、赤井氏時代の館のものと伝わる。 続きを読む

兵主東砦(兵庫県丹波市)

兵主東砦

黒井城の支城のひとつ。
築城時期は不明だが、赤井直正による黒井城の大規模改修の過程で築城されたものと思われる。

丹波市立黒井高等学校の西側にある丘陵上に位置する。
黒井城の居館部に近く、館に隣接した物見台であったと推察される。 続きを読む

兵主西砦(兵庫県丹波市)

兵主西砦

黒井城の支城のひとつ。
築城時期は不明だが、赤井直正による黒井城の大規模改修の過程で築城されたものと思われる。

兵庫県立氷上高等学校の西側、兵主神社背後の丘陵上に位置する。
山頂に10m四方の平坦地があり、その場所が砦の主要部として櫓台の機能を持っていたものと思われる。
櫓台の北側には低土塁が築かれ、その先に高低差20mの切岸を経て細長い曲輪が続く。
曲輪は尾根を約40mに渡って平削しており、途中には3条の堀切が見られ、それぞれを土橋で連結。
黒井城との位置関係から、南西を担う物見台の役目があったと推察される。 続きを読む

黒井城(保月城)(兵庫県丹波市)

黒井城

丹波国氷上郡の統治拠点となった山城。
1335年、赤松貞範による築城。

新田義貞討伐の功によって丹波国春日部荘を与えられた赤松貞範が、留堀城の詰めの城として築城。
以降、貞範・顕則・満則・貞村・教貞の5代120年に渡り、赤松氏が同地を治めた。
但し、赤松貞範は美作守護、その子孫は足利将軍家に近習として仕えたため、代官による間接統治であったと思われる。
赤松氏の衰退後は荻野氏と赤井氏が次第に勢力を強め、大永年間には赤井時家が黒井城に入ったことが確認できる。
天文年間に赤井氏は後屋城に移り、代わって荻野秋清が入城。
1554年の年初に荻野秋清が赤井直正によって暗殺されると、赤井直正は黒井城を奪取して山上全体に砦を展開する大規模な城郭へと改修。
それとともに、南麓に職人町や商人町、寺町を含む城下町を形成した。
その後は三好氏との勢力争いを続け、1565年に松永長頼を討って丹波一帯から三好氏の勢力を一掃。
1570年、織田信長によって氷上郡・天田郡・何鹿郡を安堵された。

同年、但馬国の山名祐豊が山垣城の足立氏を攻め、足立氏の救援に向かった赤井直正と衝突。
山名方を破った赤井方は但馬国に入って竹田城を、翌年には山名氏の本拠である此隅山城に占拠した。
1576年、山名祐豊からの救援要請を受けた織田信長は明智光秀を総大将に丹波侵攻を開始。
織田方は黒井城に迫るも波多野秀治の離反によって挟撃に遭い、敗退した。(第一次黒井城の戦い)
1578年に赤井直正が病死すると、織田方は黒井城の攻略を再開。
1579年6月に波多野秀治の八上城が落城すると、その約2ヶ月後の8月9日に落城した。(第二次黒井城の戦い)
その後、黒井城には明智光秀配下の斎藤利三が入城。
山崎の戦いで光秀が敗死すると、代わって堀尾吉晴が入城した。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、遠江国に逃れていた赤井時直(赤井直正の弟)が徳川家康に呼応して籠城。
関ヶ原の戦い後に川勝秀氏が入城したことを最後に、1601年に廃城となった。

猪ノ口山(標高365m)の山頂および三方の尾根筋一帯に築かれた山城。
山頂にある主要部は西曲輪・本丸・二の丸・三の丸・東曲輪が連なる連郭式の構造を持ち、三方に伸びる尾根筋に多くの曲輪が配されている。
主要部は東西170m、南北45mの規模を持ち、南側を中心に石垣が良好な状態で残存。
本丸の南面および本丸と二の丸を繋ぐ南西の虎口、二の丸の南面全体と南西面、三の丸の南西面に石垣の一部が残る。
また、三の丸の内部には喰違虎口を形成していたと思われる石垣が確認できるも、現状では基底部を残して崩壊している。
本丸からは瓦が出土しており、巨大な瓦葺きの建造物が本丸から二の丸にかけて存在していたとされ、昭和初期までは建物礎石が並んでいた。
北西には主要部から独立した西の丸があり、200mに渡って4段の細長い曲輪が築かれている。
主要部に最も近い曲輪を最頂部に、両端を土塁で囲んで武者隠しを備えた曲輪、さらに堀切を挟んで2段の曲輪を配し、最北端には高土塁が確認できる。
その他、山麓には北の丸・東出丸・水の手曲輪・太鼓の段・石踏の段・三段曲輪など多数の曲輪群が確認できる。
主要部の連格式の構造と山麓の曲輪群は赤井直正の時代に大規模に拡張されたもので、主要部の石垣は斎藤利三や堀尾吉晴の時代に築かれたものと思われる。
山上全体に曲輪が広がるも主要部からは300m以内の位置に集約され、等高線上の横移動が可能な構造となっており、城域全体としては輪郭式の構造を持つ。
また、その外側には多くの出城が築かれ、出城・山麓の曲輪・山頂の主要部の三段構えによる防御が大きな特徴となる。

2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む

上垣城(兵庫県丹波市)

上垣城

吉見氏の居城のひとつ。
築城時期は不明だが、鹿集城を本拠とする吉見氏による築城と考えられる。

吉見氏は鎌倉時代より氷上郡鹿集庄を領した一族で、戦国期には赤井氏に従って明智光秀と戦った。
当時の当主・吉見則重は僅か70の兵で明智方500と戦って討死したとされるが、そのときに籠城した城が上垣城と推測できる。

鹿集城が位置する丹波市立市島中学校の東側、背後にある丘陵が城域とされる。 続きを読む

鹿集城(兵庫県丹波市)

鹿集城

吉見氏代々の居城。
1193年、吉見資重による築城と伝わる。

吉見資重は一般的に源範頼の二男とされるが、古くから武蔵国吉見庄を領した吉見氏の一族と思われる人物。
1193年、源頼朝が関東武士3万騎を率いて富士の裾野で催した巻狩りに参加し、「鬼」を捕らえた褒美として丹波国鹿集庄を与えられ、8人の子息とともに地頭として下向したとされる。
以降、吉見氏は27代に渡って同地を支配した。
戦国期には赤井氏に従い、丹波平定を進める明智光秀に抵抗。
1577年、当主・吉見則重は僅か70の兵で明智方・明智光春500と戦い、討死した。
嫡男・吉見守重は黒井城に拠って抵抗を続けるも、1579年に黒井城が落城。
守重の子・吉見治重は柏原藩主の織田信包に仕え、子孫は後に帰農したとされる。

竹田川の東岸に位置し、45m四方の主曲輪と空堀を挟んで40m四方の二の曲輪が構成されていたとされる。
主曲輪跡の大半は丹波市立市島中学校の敷地となっており、遺構は消滅。
その東側の藪が二の曲輪跡とされ、内部に空堀と土塁の名残を留めると伝わる。
中学校の門脇に城址を示す石碑が建つ。 続きを読む

如意岳城(京都府京都市)

如意岳城

如意越えの山道沿いに築かれた陣城。
1469年5月に多賀高忠が如意ヶ岳に布陣したとする『応仁記』『大乗院寺社雑事記』の記述が文献上の初出となるが、それ以前から城が存在していたかは不明。

如意越えは大津の園城寺から如意ヶ岳を経て京の鹿ヶ谷に至る山道で、白鳥越え・山中越えと並ぶ京と近江を繋ぐ重要な幹線。
1469年、応仁の乱で東軍に与した多賀高忠が細川勝元と合流するため、1万の軍勢で近江方面から進軍して「如意ヶ岳に布陣した」ことに始まり、多くの戦で近江から京に攻め入る際の陣城として利用された。
三好之長(1507年)・細川高国(1527年)・足利義晴(1534年)らがそれぞれ近江から京へと帰還する際に同地を経由していることが確認できるほか、1558年に足利義輝が布陣して三好長逸らと交戦しており、1561年の地蔵山の戦いでは六角承禎が布陣して松永久秀と戦っている。
また、元亀年間の織田氏と朝倉氏・浅井氏の戦いにおいても陣城として利用されたとされる。

如意ヶ岳の支峰である大文字山(標高466m)山頂一帯に築かれた山城。
大文字山の山頂から東の尾根筋に向かい、約450mの範囲に渡って防御施設が展開されている。
山頂付近を主曲輪とし、その西側および北側に複数段の平坦地が確認できる。
特に北側は斜面沿いに10段以上の平坦地が見られるが、どこまでは城郭遺構であるかは不明。
山頂の東側には平虎口を備えた土塁が明瞭に残り、その両脇に横堀が残存。
東側(土塁の外側)の横堀は土塁に沿って南北方向に続き、南側は斜面に至って竪堀に変化する。
西側(土塁の内側)の横堀は北側の斜面に向かって長く続き、途中で西に分岐して主曲輪の北端の堀を形成。
主曲輪の北側は堀底からの高さ5m以上の土塁が築かれ、複数段の平坦地とともに北側の防衛を重視したことが窺える。
但し、長年に渡って多くの勢力が利用してきたことで、現在の遺構がいつ頃のものであるかは判然としない。

如意岳城はハイキングコースの途中にあり、主曲輪付近は休憩地点として多くのハイカーに親しまれている。 続きを読む

観音寺城(滋賀県近江八幡市)

観音寺城

佐々木六角氏代々の居城。
1335年、六角氏頼が観音正寺を城塞化したことが始まりとされる。
当時の六角氏の本城は観音寺城から南西に位置する金田館にあり、いつ頃から観音寺城が本城として機能したかは不明。
少なくとも氏頼以降、満高・満綱・持綱・久頼までは金田館を本城としており、高頼の代になって慈恩寺館、次いで観音寺城に本城を移したものと思われる。

応仁の乱で六角氏は西軍に属しており、東軍に与した京極持清に2度に渡って攻められ落城。
1469年、六角高頼は近江守護を解任され、代わりに京極持清が近江守護に就任。
それに激怒した高頼は前年の戦いで焼失した観音寺城を修築し、鎮圧に向かった多賀高忠と六角政堯を撃退。
観音寺城を奪還した。
1489年から1491年に及ぶ長享・延徳の乱、1502年の伊庭貞隆・行隆の反乱においても観音寺城を一時奪われているが、ともに奪還している。
1568年、織田信長の上洛軍に支城の箕作山城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城を放棄して甲賀郡に逃走。
その後、六角義賢は石部城を拠点に抵抗を続けるも観音寺城に戻ることは出来ず、そのまま廃城になったと思われる。
但し、元亀年間の改修と思われる石垣の痕が見られることから織田方の城として存続していた可能性も指摘される。

繖山(標高432.9m)の南腹斜面に築かれた山城。
築城当時は観音正寺を城塞化した簡易的な砦であったと思われるが、大永年間には城郭としての構えが完成していたとされる。
1532年に将軍・足利義晴を迎えるための大規模な改修が行なわれ、1550年頃には総石垣造りとなっていたことが発掘調査によって明らかとなった。
正確には把握されていないものの曲輪の数は1,000ヶ所以上あり、それらの曲輪は防御施設としてではなく、国人衆の居館が築かれていたものと考えられている。

1969年より2年間に渡って発掘調査が実施され、いくつかの曲輪の構造が明らかとなった。
特に大規模な曲輪が西尾根に連なる本丸・平井丸・池田丸、東端の淡路丸であり、それぞれに広い空間と居住用の施設、巨大な石垣と虎口を備えていたことが確認できる。
西尾根の標高395m地点にある本丸は幅4mの石段の先に広大な空間を有し、曲輪の内部からは建物礎石と貯水槽、排水設備などが検出された。
また、「二階御殿」と呼ばれる建物があったと思われている。
本丸の南側に隣接する平井丸は最大規模の曲輪となり、長さ32mに及ぶ虎口跡、潜り門、北東部には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見されている。
平井丸の南側にあって主要部の南端となる池田丸は南北2段の構造を持ち、周囲に土塀を巡らせた御殿と庭園、貯水槽などが検出された。
主要部の最東端にあって鬼門の方向に当たる淡路丸は50m四方の空間を土塁で囲み。その内外を石垣で固めた構造を持つ。
南西・西・北東に虎口を備え、南側には目賀田丸と呼ばれる土塁で囲まれた腰曲輪を備えている。
その他、絵図によると大手道沿いに宇野丸・久保丸・山崎丸、観音正寺境内に種村丸、北側の稜線沿いに三雲丸・高宮丸・和田丸・楢崎丸・永原丸・蒲生丸・沢田丸・三国丸・馬渕丸・馬場丸・三井丸・伊庭丸・大見付・進藤丸・後藤丸、東端に赤田丸・松岡丸・鯰江丸、西尾根周辺に佐野丸・小梅丸・伊藤丸・松吉丸・長束丸・三の丸・落合丸・木村丸などの曲輪があったことが確認できる。
また、追手道の麓にある天満宮は「御館」と呼ばれる六角氏の居館跡であるとされる。
三井丸と伊庭丸の中間付近に「佐佐木城址」の碑が建つ。

1982年、『観音寺城跡』として国史跡に指定。 続きを読む

蒲生郡衙(滋賀県近江八幡市)

蒲生郡衙

奈良時代における近江国蒲生郡の郡衙(郡役所)。
蒲生郡は滋賀県竜王町の全域、近江八幡市と日野町の大部分および東近江市の一部に相当する地域。

御館前遺跡(近江八幡市千曽供町)で1986年に実施された発掘調査にて、東西方向の溝とそれに平行する掘立柱建物3棟、10m×5.5mの大型の建造物の痕が検出された。
そのことから、同地が蒲生郡衙跡地である可能性が高いと指摘されている。
近接する勧学院遺跡では論語が記された木簡が出土したほか、1992年の発掘調査で幅5.2mの道路が御館前遺跡方面に伸びていることが確認され、道路の側溝から8世紀前半のものと思われる土器が出土した。 続きを読む

根来氏老蘇陣屋(滋賀県近江八幡市)

根来氏老蘇陣屋

江戸幕府旗本・根来氏の采地陣屋。
1698年、根来氏が愛知郡および野洲郡に領地替えを受けて設置。

旗本根来氏の祖である根来盛重は根来寺成真院の僧で、徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いや大坂の陣で数多くの武功を挙げ、江戸幕府成立後に還俗して3,450石の大身旗本となった人物。
1698年、根来氏は関東の領地1,500石から愛知郡886石および野洲郡700石に領地替えを受け、元より所領のあった蒲生郡老蘇に陣屋を設置。
坪田恒右衛門家が在地代官を務めた。

奥石神社南側の駐車場隅に陣屋跡を示す碑が建つ。
旧中山道沿いにある東老蘇公民館前の小路は古くから「陣屋小路」と呼ばれており、その突き当たりに陣屋があったと伝わる。 続きを読む

武佐寺城(滋賀県近江八幡市)

武佐寺城

武佐寺を城塞化した寺院城郭。
1355年、足利尊氏が後光厳天皇を連れて「江州武佐寺」に逃れたことが『太平記』で確認できる。

1354年、足利直冬は足利尊氏と対立する諸勢力を率いて上洛。
足利尊氏は京を放棄し、後光厳天皇を連れて近江武佐宿の武佐寺へと避難した。
その1ヶ月後、尊氏は洛中で直冬方を敗って石清水八幡宮に敗走させ、京の奪還に成功した。

武佐寺の位置には諸説あるが、武佐宿内の広斉寺は建立時に「武作寺」を称して武佐の村名の由来になったとされる。 続きを読む

大津宮(滋賀県大津市)

大津宮

天智天皇が近江国に営んだ宮。
667年、飛鳥から近江大津に遷都。

天智天皇は大津に遷都した翌年、同地で即位。
近江令の制定や庚午年籍など、律令制の基礎となる施策を実行した。
しかし、この遷都は『日本書紀』によると民衆からは大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったといわれる。
671年、天智天皇が崩御すると壬申の乱に勝利した大海人皇子が即位し、飛鳥に浄御原宮を造営。
大津宮は僅か5年で廃された。

1974年に実施された発掘調査で、大津市錦織の住宅地の一画に内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が検出。
柱穴からは670年頃のものと思われる須恵器や土師器片が出土した。
その後も発掘が進められた結果、南門から東西に伸びる回廊を境界として、北側に内裏正殿とそれを囲む板塀、南側には朝堂院と想定される空間が広がっていることが判明。
1979年、『近江大津宮錦織遺跡』として国史跡に指定。
遺構が検出された場所の一部は、公園として整備保存されている。

史料では大津宮のほかに「近江大津宮」「近江宮」「志賀の都」とも呼称されるが、本来の表記は「水海大津宮」であったと指摘される。
尚、『日本書紀』には「近江京」と記されるが、平城京や平安京のような条坊制の存在は文献史料から確認はできない。
明治時代の歴史学者が文献史料にみられない「大津京」を用いて以降、多くの歴史地理学者や考古学者が用いたことで「大津京」の呼称が一般的となり、2008年には地元自治体の請願によりJR西大津駅が「大津京駅」に改称された。 続きを読む

宇佐山城(滋賀県大津市)

宇佐山城

元亀年間における織田氏の湖西防衛の拠点となった山城。
1570年、織田氏重臣・森可成による築城。

1570年に朝倉義景・浅井長政南進の備えとして築かれ、森可成が入城。
しかし、同年に発生した志賀の陣にて、森可成以下多くの城将が坂本で討死する。
宇佐山城の留守役を任された各務元正は、僅か1千の兵でもって朝倉・浅井連合軍3万を退けた。
その後、連合軍が比叡山延暦寺に籠城すると陣所のひとつとして機能。
1571年、朝倉氏との和議の条件として破却されたものとされる。
但し、その後も明智光秀が宇佐山城を拠点に湖西の土豪の懐柔工作を進めており、比叡山焼き討ちに際しては織田信長が入城したことが確認できることから、坂本城が完成するまでは機能していたものと考えられる。

琵琶湖を一望できる宇佐山(標高336m)の山頂一帯に築かれた山城。
織田氏による湖西地域の統治拠点であるとともに、西近江路から京に繋がる山中越を抑える役目があったと考えられる。
山頂の平坦地に築かれた本丸を中心に、その南に配置された二の丸、北に配置された三の丸で構成。
二の丸の南側、本丸の西側と北東側、三の丸の北側と南西側に小曲輪が確認できるほか、三の丸の北東側には複数段の帯曲輪の跡が残る。
中心部は南北115m、東西30mの細長い形状を持ち、本丸と二の丸を繋ぐ虎口には櫓門があったと推定される。
本丸の北東部および二の丸の南東端、三の丸の北東端、本丸西側の曲輪に石垣が現存。
築城当時は琵琶湖に面した東側の斜面に石垣が多用されていたと考えられている。
また、現在はその痕跡がないものの、文献の記述より本丸の南側に山麓から一直線に続く大手道があったと推測される。

本丸跡には現在、テレビ放送施設が建てられている。
放送施設建設に伴って1968年と1971年に実施された発掘調査にて、本丸跡から瓦が出土。
そのことから、一時的な陣城ではなく恒常的な使用が想定されたものであったことが窺える。
安土城に先行する石垣造りの城郭の事例として、貴重な遺構となる。 続きを読む