日別アーカイブ: 2016年4月9日

国領城(滋賀県東近江市)

国領城

国領氏代々の居城。
永禄年間、国領孫左衛門宗久による築城。

国領宗久は六角承禎に仕え、1569年に戦死したとされることから織田氏による上洛軍と戦ったものと考えられる。
その子・孫三郎理氏は小川氏の養子となっており、1563年に布施山城で戦死。
国領氏は宗久の次男・孫九郎信久が継ぎ、その子孫は幕府旗本として甲賀郡内に580石を領して幕末まで存続した。

能登川中学校の北側、住宅地を抜けた先の水田が城域と考えられる。
一般には「川内王の邸宅跡」とされるが、国領氏が川内王の末裔とする説のためと思われる。 続きを読む

志村城(新村城)(滋賀県東近江市)

志村城

志村氏(新村氏)代々の居城。
築城時期は不明だが、1559年の文書に「新村伊豆守」の名が確認できる。

1570年、当主・志村左衛門忠資が石山本願寺に呼応して挙兵し、織田氏と敵対。
しかし、翌年の1571年に佐久間信盛らに攻められ落城した。
志村城攻めにより、織田方は670もの首級を挙げたとされる。

城域には、志村氏の菩提寺である浄蓮寺が建つ。
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伊庭御殿(滋賀県東近江市)

伊庭御殿

江戸時代における将軍上洛の際の宿舎。
1634年、上洛の際に徳川家光の命によって造営。

作事奉行を小堀遠州、大工頭を中井大和守が務める。
1634年を最後に将軍の上洛が行なわれなくなったため、伊庭御殿は1度の使用をもって1685年までに廃止となった。

繖山北端の西麓、能登川集落の北東部に位置する。
城域は愛宕神社のお旅所となっており、当時の地形をほぼそのまま状態で残している。
山裾に沿うような横に細長い不定形な縄張が特徴的であり、中井家に残る古指図によると台所施設が広く取られていることが確認できる。
発掘調査によって古指図と一致する建物の列石と井戸が確認され、南西側に石垣の一部が残存する。 続きを読む

躰光寺館跡(滋賀県東近江市)

躰光寺館跡

旧神崎郡躰光寺村にあったとされる平城。
築城時期など、詳細は一切不明。
賤ヶ岳の戦いで柴田方・毛受勝照を討ち取ったとされる「体光寺小左衛門」という人物がいるが、関連は不明。

躰光寺町内の西郡神社周辺が城域とされる。 続きを読む

佐野館跡(滋賀県東近江市)

佐野館跡

須田氏の居館のひとつ。
室町時代初期、須田越後守貞俊による築城。

須田氏は信濃源氏の流れを汲む須田九郎為真を祖とする一族で、伊庭氏の庶流にあたる。
須田貞俊の代に神崎郡佐野に移り、その孫・須田七郎左衛門賢隆は1563年の観音寺騒動で六角義治を補佐した。

法堂寺遺跡公園の東側にある竹藪が城域と推測される。
竹藪の中には土塁や堀と思われる地形が僅かに確認できるが、整備はされていない。 続きを読む

川南城跡(滋賀県東近江市)

川南城跡

高橋氏(川南氏)代々の居城。
時期は不明だが、高橋対馬による築城とされる。

城域には現在、川南氏の子孫が在住する民家が建つ。
愛知川の左岸、川南町内にある60m四方の方形単郭の居館。
城域の南側を除く三方に水路となった堀跡が残り、南西の竹藪内に土塁が確認できる。
民家への出入口である南東側には虎口があったとされる。
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猪子館跡(滋賀県東近江市)

猪子館跡

猪子氏代々の居館。
築城時期など、詳細は一切不明。
猪子氏は猪子次郎を祖とする伊庭氏の庶流で、猪子の地を代々領した一族。

猪子山の北麓、大同川の北岸沿いにあったと考えられる。
宅地開発によって遺構は消滅したが、かつては畑地に微高地が存在した。 続きを読む

佐生城(佐野山城・日吉城)(滋賀県東近江市)

佐生城

観音寺城の支城のひとつ。
築城時期は不明だが、観音寺城の支城として築城されたものと考えられる。
六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊が守備した。

観音寺城のある繖山の尾根筋東端の峰(標高158m)の山頂に位置する。
主曲輪を中心に北に2段、東西に1段ずつの曲輪群で構成された複郭式の山城。
主曲輪の規模は35×25mほどであり、北・東・西に平虎口が設けられて各曲輪へと連結する。
南側には高さ3~4m、幅50mに及ぶ石垣が現存。
東と西の虎口には石積みの跡が確認できる。
主曲輪以外の削平状態は良好ではないが、それが経年によるものか当時からの状態かは不明。

主曲輪の内部に「後藤但馬守城」の碑が建ち、後藤氏の詰城とされる。
しかし、後藤氏の居館からは離れた位置にあるため、観音寺城の北側を守備する軍事的施設であった可能性が高い。
そのことから浅井氏や織田氏の南進に備えて築城されたものと考えられる。 続きを読む

種村城跡(滋賀県東近江市)

種村城跡

種村氏代々の居城。
時期は不明だが、和田高成もしくは種村高安による築城。
種村氏は六角氏の一族で、六角久頼三男・和田高成が同地を領し、その子・高安が種村氏を称したことが始まりとされる。

種町集落の北東、県道203号線と大同川が交差する橋の東詰に広がる水田および住宅地が城域とされる。
西側の大同川を自然の堀とし、周囲を土塁と空堀で囲んでいたと考えられる。
川沿いには「種村城址」の碑が建つ。
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伊庭古城跡(滋賀県東近江市)

伊庭古城跡

伊庭集落内にあったとされる平城。
築城時期など、詳細は一切不明。

能登川西小学校の南西側付近が城域とされる。
現在は水田となっており、「古城」の旧地名が残る。
付近には伊庭氏代々の居城である伊庭城があるが、関連は不明。 続きを読む

八仏手城跡(滋賀県東近江市)

八仏手城跡

六角氏一門・種村氏の居城のひとつ。
築城時期・築城主は一切不明。
種村氏は六角氏の一門で和田高成の子・種村高安を祖としており、種村城を居城とする。

種村氏の本城・種村城の西側に築かれたとされる。
場所は特定されていないが、種町の住宅地内にかつての川を思わせる地形が残り、城に関連するものと推測される。 続きを読む

伊庭城 / 三枝氏伊庭陣屋(滋賀県東近江市)

伊庭城

伊庭氏代々の居城。
建久年間、伊庭高実(佐々木高実)による築城。
伊庭氏は佐々木行実の四男・高実を祖とし、伊庭内湖や琵琶湖の湖上権を背景とした経済基盤によって権勢を誇った一族。

1502年に伊庭貞隆が六角氏に謀反を起こし、敗北。
伊庭氏の勢いは急速に衰え、1525年の黒橋の戦いで滅亡した。
その際に城も廃城になったものと考えられる。

1698年、幕府旗本・三枝守相が近江国内に7千石を与えられ、伊庭城跡に陣屋を構えた。
以降、明治維新まで三枝氏が伊庭の地を領することになる。

伊庭集落の中心部にある勤節館および周辺の公民館・児童公園が城域とされる。
城域の周囲には水路となった堀跡と石垣が現存する。
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垣見城(滋賀県東近江市)

垣見城

垣見氏、後に安部井氏の居城のひとつ。
城主に「安部井孫兵衛」の名が確認できるが、築城時期は不明。

安部井氏は蒲生郡市子庄を代々支配し、上南城主を世襲した一族。
同地・垣見庄の在地領主であった垣見氏は1438年に坂田郡に移住しており、その後に安部井氏が入ったものと考えられる。
延徳年間の文書により、垣見庄は真如寺領であったことが確認できる。

応仁の乱では京極持清と六角高頼が同地で戦った。(垣見之陣)
織田氏と六角氏の戦いでは六角方が籠城しており、1571年に永田栄俊が在城したことが確認できる。
1571年、志村城の落城を受けて開城。

垣見町内の金剛寺周辺が城域とされる。
金剛寺の南西側に「姫屋敷」、東側に「殿屋敷」と呼ばれる伝承地があり、周囲より一段高い微高地となっている。
集落内を流れる水路は堀跡と考えられ、特に「姫屋敷」は東西80m・南北60mの範囲を深く幅広い水路を巡らせて独立した区画を形成しており、城館の存在を窺わせる。 続きを読む