月別アーカイブ: 2016年3月

松本山城(滋賀県大津市)

松本山城

大津の背後、松本山の山中にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

名神高速道路・大津サービスエリアの背後にある山が城域とされる。
尾根伝いの北側(現在は名神高速道路と国道1号線で分断されている)の谷戸に松本城(松本民部古城)があり、それに関連する城砦の可能性が考えられるが、裏付ける史料はない。 続きを読む

灰塚山城跡(滋賀県栗東市)

灰塚山城跡

灰塚山の丘陵にあったとされる丘城。
詳細は不明だが、青地氏に関連する城砦と考えられる。

安養寺山の西、半独立丘の灰塚山一帯が城域とされる。
古墳(灰塚山1号墳)を利用して築城されており、山頂部に主郭と複数の曲輪、虎口と思われる地形が残る。 続きを読む

笠川城跡(滋賀県栗東市)

笠川城跡

笠川氏代々の居城。
築城時期など、詳細は一切不明。

笠川集落の北西端にあり、川沿いに土塁と思われる地形が残る。
この地の領主が御旅所の八幡神社へ向かう大宝神社の祭りを城で見物したという伝承が伝わる。 続きを読む

目川城跡(滋賀県栗東市)

目川城跡

芝原氏代々の居城。
1362年、芝原右京進重兼が目川・坊袋・川辺の三村を与えられて目川に城を移したことが始まりとされる。

目川の地は旧東海道の草津宿と石部宿の間にあり、江戸時代には立場(休憩所)として栄えた。
城の位置は特定されていないが、街道を抑える微高地にあったと推定される。 続きを読む

坊袋城跡(滋賀県栗東市)

坊袋城跡

芝原氏の居城のひとつ。
1382年、芝原内記亮による築城。
芝原氏は青地氏の一族で、目川・坊袋・川辺の三村を領した。

坊袋集落の養専寺の境内が城域とされる。
養専寺は現在も芝原氏の子孫が住職を務めている。 続きを読む

平松城(宮島城)(滋賀県湖南市)

平松城

甲賀五十三家・宮島氏代々の居城。
室町時代、宮島掃部介による築城と考えられる。
宮島氏は甲賀五十三家のひとつに数えられる一族で、室町時代中期に平松の地に移った。
応仁年間には大慈院領の下司を務めている。

西照寺の西側にある藪内が城域とされる。
同地には「里屋敷」の字名が残る。 続きを読む

針氏館(滋賀県湖南市)

針氏館

甲賀五十三家・針氏代々の居館。
時期は不明だが、針城の居館部として針和泉守によって築城されたものと考えられる。

旧東海道沿い、針集落の南側に位置する。
2008年に発掘調査が行なわれ、15世紀のものとされる堀立柱建物の痕跡が確認された。
城域は現在、竹林と深い藪になっている。 続きを読む

青木城(滋賀県湖南市)

青木城

青木岩崎氏代々の居城。
青木岩崎氏は石部三郷を支配した青木四家のひとつ。
1560年の書状に「青木岩崎左衛門尉」の名が見られ、その頃には同地を支配していたと考えられる。

城域には現在、真明寺が建つ。
真明寺は「青木右衛門佐の居館跡」と伝わり、1597年に青木検校によって建立された。
境内の墓地付近は周囲は数m高くなっており、東側に土塁と思われる土盛りが確認できることから曲輪跡と推測できる。 続きを読む

高木氏平松陣屋(滋賀県湖南市)

高木氏平松陣屋

平松集落の奉行を務めた高木氏の陣屋。
文化年間、道中奉行・高木伊勢守守久による築城。
高木守久は1659年に五街道の道路・橋梁の管理などの総管する道中奉行に任命され、1699年より平松の地を領した。

平松集落の旧東海道沿いにあり、現在は民家となっている。
陣屋は宏壮な二階建ての建物であったが、明治維新後に個人の所有となり撤去された。
跡地の東側に案内板が建つ。
陣屋の門は湖南市内のレストランに移築現存する。 続きを読む

青木館(滋賀県湖南市)

青木館

青木氏代々の居館。
長享年間、青木筑後守による築城。
同地の青木氏は石部三郷を支配した青木四家の一族。

1570年、六角承禎・義治親子が織田氏に対抗するために入城。
1574年に佐久間信盛に攻められ落城し、六角氏は石部城へと後退した。

八王子神社および阿弥陀院付近が城域とされる。
神社の正面の土盛りは土塁跡とされる。 続きを読む

針城(滋賀県湖南市)

針城

甲賀五十三家・針氏代々の居城。
時期は不明だが、針和泉守による築城。
針氏は甲賀五十三家のひとつに数えられ、針和泉守は長享・延徳の乱(鈎の陣)に六角高頼方として従軍した。

旧東海道沿い、針集落の南側に位置する。
竹林に入るとすぐ、高さ3mほどの土塁が明瞭に現存。
城の構造に不明瞭な点が多いが、複数の曲輪跡と周囲に土塁の跡が残る。 続きを読む

吉川代官屋敷(滋賀県湖南市)

吉川代官屋敷

徳川家康の近江国内における蔵入地の代官所のひとつ。
1590年、吉川半兵衛宗春が代官に任じられた際に設立。

徳川家康は在京料の名目で近江野洲郡とその周辺に3万石の蔵入地を与えられており、1590年の関東移封に際して9万石に加増。
吉川半兵衛を代官として、石部郷2千石のうち1千石を領した。(残りの1千石は岡山城主・長束正家が所領)
関ヶ原の戦い後に長束領が膳所城主領に引き継がれ、1620年に石部郷全域が膳所藩領となる。
そのときに代官所は廃止になったと考えられる。

1650年、跡地に石部宿小島本陣が建てられた。
小島本陣は老朽化によって1968年に取り壊されており、同地には本陣跡を示す碑が建つ。 続きを読む

菩提寺城(滋賀県湖南市)

菩提寺城

青木氏代々の居館。
長享年間、青木筑後守による築城。
同地の青木氏は石部三郷を支配した青木四家の一族。

観音寺城を追われた六角承禎・義治親子が織田氏に抵抗する拠点のひとつとした。
1574年、佐久間信盛に攻められ落城。

城域は現在、菩提寺保育園および菩提寺自治会館となっている。
青木館から100mほどの位置にあり、出城の役目を果たしていたと考えられる。
古地図には「大政所目代屋敷」として描かれている。 続きを読む

久郷館(滋賀県近江八幡市)

久郷館

久郷氏代々の居館。
築城時期は不明だが、伊庭氏の被官・久郷氏が代々の居とした。

上田集落の東端にあり、「久郷前」「久郷東」の字名が残る。
現在も久郷氏の子孫が在住しており、住宅の背後には堀跡と思われる水路が残る。 続きを読む

馬淵城(滋賀県近江八幡市)

馬淵城

馬淵氏代々の居城。
1218年に佐々木広綱が馬淵庄を賜り、その弟・佐々木広定が馬淵氏の祖となり、同地に居館を構えたとされる。

馬淵氏は六角氏の元で守護代を務めるほどの有力被官であったが、1502年に伊庭貞隆に攻められて降伏。
1503年には蒲生貞秀に攻められ、城主の馬淵道哲は観音寺城に敗走している。
1569年、織田氏の上洛軍に攻められて落城し、一族は離散した。

馬淵集落の白鳥川沿いにあったとされる。
城域とされる付近には馬淵氏の菩提寺である真光寺が建ち、馬淵氏の墓所がある。
周辺には「一ツ堀」「蔵の町」などの城に関連すると思われる旧地名が残る。 続きを読む

長光寺城(滋賀県近江八幡市)

長光寺城

元亀年間の織田氏と六角氏の争いで、織田方の柴田勝家が拠った城。
応仁の乱において六角政堯が居城としたことが始まりとされる。
六角政堯は応仁の乱で東軍に属し、西軍に与した六角高頼の観音寺城を攻め落とした。
以降、六角氏の影響下となる。

織田氏の上洛によって六角氏が衰退すると、柴田勝家が入城。
1570年、六角氏の残党が城を包囲して水の手を断つも、勝家は城内に残った水を瓶に入れ、その瓶を割り捨てて出陣して勝利した逸話が残る。
1576年、安土城築城に伴って廃城。

瓶割山(標高234m)の山頂付近に築かれ、中山道と八風街道が交差する武佐に近い要衝の地に位置する。
山頂の主郭部を中心に、北・南・東の3方向の尾根に伸びた山城。
主郭には高さ6mの石垣が残り、城域全体に石垣・土橋・井戸などの跡が残る。 続きを読む

谷氏館(友定城)(滋賀県近江八幡市)

谷氏館

谷氏代々の居館。
1487年、谷氏による築城。

中山道と八風街道が交差する武佐宿付近の街道沿いに位置する。
江戸時代には奥村三郎左衛門が脇本陣として利用した。

城域は武佐宿の北側一帯とされ、現在は住宅地と畑地、林地となり、集落を流れる水路は堀跡とされる。
中心部には1885年に武佐村役場が建てられ、現在は武佐町会館となっている。 続きを読む

上田氏館(滋賀県近江八幡市)

上田氏館

上田氏代々の居館。
上田氏は佐々木氏の庶流で上田季政を祖とし、平安時代末期から1595年まで同地を支配した一族。
永正から天文年間の城主として「上田民部丞実之」の名が確認できる。

現在、城域には篠田神社が建つ。
篠田神社は元は上田神社と呼び、平安時代末期に上田氏が当地を治めた頃に造営したとされる。
神社の背後の林には土塁と思われる土盛りと内側に堀跡と思われる溝が配されているが、城の遺構であるかは不明。 続きを読む

西宿城(滋賀県近江八幡市)

西宿城

中山道武佐宿付近にあった平城。
築城時期など、詳細は一切不明。

第二代住友総理事・伊庭貞剛邸跡の北側、竹林の中に位置する。
40m四方の方形単郭の城館。
周囲の土塁が明瞭に残り、東西の土塁の外側には空堀も確認できる。 続きを読む

九里氏館(本郷城)(滋賀県近江八幡市)

九里氏館

九里氏代々の居城。
1452年、九里冶任による築城。
九里氏は鎌倉時代から九里村を支配した一族で、室町時代には六角氏の代官・伊庭氏の又代官を務めたとされる。
1523年に九里高雄が伊庭貞隆とともに六角氏と戦い、戦死している。

城域とされる一帯は宅地造成が進み、遺構は存在しない。
居館があったとされる場所には「御屋敷」の旧地名が残る。 続きを読む

金剛寺城(金田館)(滋賀県近江八幡市)

金剛寺城

鎌倉時代末期から室町時代初期にかけての佐々木六角氏の本城。
時期は不明だが、六角頼綱による築城。
六角氏は小脇館を本拠としていたが、頼綱の代に別邸として築城して以降、観音寺城に移るまでの本拠として機能した。

1487年の室町幕府による六角氏征伐では当地の代官・久里氏が在城し、幕府方に攻められている。
1492年の第二次征伐では足利義稙が陣所を構えた。
尚、同地にあった城館は1469年に隣接する金剛寺とともに戦火で焼失しており、1486年に現在の安土町慈恩寺に「金剛寺」を再建していることから同時期に居城を移したとも考えられている。

金田小学校の周辺一帯が城域とされる。
「古城」という字名と「寺ノ内」「大手」などの旧地名が残るが、遺構は存在しない。
別名『金田館』とも呼ばれる。 続きを読む