徳川家康の居城、後に浜松藩の藩庁。
1570年、徳川家康が曳馬城を拡張して築城。
武田氏の侵攻に備え、徳川家康は1570年に三河国岡崎から遠江国曳馬に本拠を移す。
その際、「馬を曳く」が敗北に繋がり縁起が悪いことから、地名とともに「曳馬」を「浜松」に改めた。
以降、家康が駿府に移る1586年まで徳川氏の本拠となる。
徳川家康が駿府に移った後には堀尾吉晴・忠氏が入城。
江戸時代には浜松藩の藩庁として機能し、譜代大名を中心に22人が代々の藩主を務めた。
その多くが江戸幕府の重職に就いたことから、「出世城」の異名を持つ。
三方ヶ原台地の斜面沿いに三の丸・二の丸・本丸・天守がほぼ一直線に並ぶ梯郭式の平山城。
その規模は東西600m、南北650mに及ぶ。
主要部は東西ほぼ一直線に曲輪が並び、東から三の丸・二の丸・本丸・天守曲輪と連なる。
本丸の北側に富士見櫓、南東の隅に菱櫓が建ち、二の丸には約500坪の広さを誇る表御殿と約100坪の奥御殿が建っていたとされる。
主要部の北西側に作左曲輪、南側に清水曲輪と鳥居曲輪が配置される。
近世には天守が存在しておらず、本丸二重櫓(菱櫓)が天守の代用とされていた。
尚、築城当時の天守構造は不明。
明治維新後に廃城となる。
城跡は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の望楼型3重4階の模擬天守が築かれた。
二の丸の跡地には浜松市役所と浜松市立元城小学校が立地する。
1959年に浜松市の史跡として指定。
2014年の発掘調査では本丸南側の土塁、石垣、徳川家康在城時の遺構と見られる堀跡などが検出されている。
2016年、発掘調査と絵図に基づいて本丸大手の天守門が再建された。 続きを読む →