月別アーカイブ: 2016年5月

等持寺(足利尊氏邸)(京都府京都市)

等持寺

室町幕府初代将軍・足利尊氏の邸宅。
築城時期は不明だが、足利尊氏が建武式目を制定して室町幕府が事実上成立した1336年頃と推定される。

尊氏は早くから幕府の政務の大半を弟の足利直義に委任しており、自身は軍事指揮権と恩賞権を保持して武家の棟梁として君臨。
1341年、邸宅に等持寺を創建。
1358年に死去するまで、同地で過ごした。
等持寺は応仁の乱で焼失し、別院北等持寺(1343年に尊氏が建立)を本寺として『等持院』と改称した。

邸宅がどの程度の規模であったかは諸説あるが、二条通・御池通・柳馬場通・高倉通に囲まれた範囲であったと推定される。
西端に位置する京都府保険事業協同組合館の前に「足利尊氏邸・等持寺跡」の碑が建つ。 続きを読む

二条殿(京都府京都市)

二条殿

摂家・二条家代々の邸宅。
時期は不明だが、二条家の祖である二条良実が西園寺成子の邸宅跡に居住したことが始まりとされる。

鎌倉時代中期から室町時代にかけて、二条家が居住。
その景観の美しさが皇族に好まれ、光明天皇や崇光天皇の践祚の儀が行なわれている。
戦国時代には上洛した織田信長が二条晴良を退去させ、在京時の城(二条御新造)とした。
1582年、本能寺の変の際に織田信忠が籠城。
明智光秀の軍勢に攻められて信忠は自害し、二条殿は焼失した。

跡地には1869年に京都市立龍池小学校が創立し、1995年に廃校。
2006年に小学校の建物を改築し、京都国際マンガミュージアムが開館した。
西側の道路脇に「二条殿址」の碑が建つ。 続きを読む

下鴨城(京都府京都市)

下鴨城

三好氏と六角氏の畿内での争いにおける六角方の拠点のひとつ。
1565年、在地の土豪・渡辺十乗坊らが「鴨川の頭」に築城したとされる。

永禄年間に六角氏から永原壱岐守と馬淵下野守が入城し、三好方と交戦。
三好方・松永久秀の軍勢を破ったとされる。
(但し、永原壱岐守と馬淵下野守の実在には疑問が残る)

賀茂御祖神社(下鴨神社)の南側、河合神社およびその南側一帯が城域とされる。
高野川と賀茂川の合流点近くに位置し、川を堀と見立てた天然の要害であったと推察される。
同地には南北朝時代、足利尊氏や楠正成が陣を構えている。 続きを読む

だいうすの城(京都府京都市)

だいうすの城

京におけるキリシタン集住地のひとつ。

集住地が形成された時期は不明だが、1587年のバテレン追放令をもって京のキリシタン勢力は衰退。
寛文年間に成立した京の地誌『京雀』では、豊臣秀吉によって破却されたとされる。
1602年、同地にイエズス会の修道院が建てられる。
1605年には洋式の大聖堂が建てられ、周辺には再びキリシタンの町が形成された。

菅大臣神社の南側、菊屋町を中心とした高辻通・西洞院通・新町通・松原通に囲まれた区画一帯が城域とされる。
中心地である菊屋町は、かつて「ダイウス町」と呼ばれていた。
四方を堀で囲み、集住地全体を城塞化したものと考えられる。 続きを読む

神楽岡城(京都府京都市)

神楽岡城

吉田山の南端にあったとされる陣城。
築城時期は不明だが、1336年に足利尊氏が同地に陣を構えて後醍醐天皇方と戦ったことが史料上の初出となる。

1550年、京の奪還を目指す細川晴元が「吉田山」に布陣し、三好長慶と戦う。
1561年、畠山高政に呼応して入洛を試みる六角義賢が「神楽岡」に布陣して松永久秀の軍勢と戦い、翌年に松永勢が京から撤退すると義賢は入洛を果たした。
1568年、織田信長に従って上洛した江北衆および高島衆8千が「神楽岡」に布陣したことが確認できる。
1573年には織田信長が明智光秀の進言を容れて吉田山への築城を試みるも柴田勝家の実地検分を受けて断念しており、その頃までには廃城になっていたと考えられる。

京都大学の東側、独立丘陵の吉田山南端部に位置する。
宗忠神社および吉田神葬墓地の一帯が城域と考えられ、宗忠神社の北側には堀切と思われる地形が確認できる。
同地が幾度となく戦場となったことから城の存在が推測されるが、それを裏付ける史料は確認できない。 続きを読む

室町第(花の御所)(京都府京都市)

室町第

室町幕府・足利将軍家の御所。
1381年、足利義満が室町家の花亭と今出川家の菊亭の跡地に築城。

足利義詮が室町季顕から邸宅『花亭』を買い上げて別邸とし、崇光上皇に献上されて御所となった。
1378年、足利義満が使われなくなった崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅『菊亭』跡地に邸宅の造営。
同年に菊亭跡地の施設が完成すると、三条坊門第から移住した。
邸宅の庭には鴨川から水を引き、各地の大名から献上された四季折々の花木を配置されていたと伝わる。
その後、6代・足利義教、8代・足利義政が御所として利用。
1476年に戦火で焼失するも何度か再建が繰り返されたが、1559年に廃止となる。

幾度の焼失と再興を繰り返したため、遺構は存在しない。
邸宅内に建てられた岡松殿より始まる大聖寺が、ほぼ当時のままの場所に建つ。
通称を『花の御所』。 続きを読む

武衛陣(足利義輝邸)(京都府京都市)

武衛陣

管領家・斯波氏代々の本邸、後に足利義輝の御所。
時期は不明だが、斯波義将が勘解由小路に邸宅を構えたことが始まりとされる。

斯波氏歴代当主が同家を「武衛家」と呼んだことで、『武衛陣』と呼称される。
斯波氏の本邸として12代・義寛の頃まで利用。
応仁の乱の頃には城塞化し、周囲に堀を巡らせ、多くの櫓が備えられていたとされる。
斯波氏が尾張国清洲に本拠を移すと、次第に荒廃。
足利義輝が跡地に御所を構えるも、永禄の変で焼失した。

現在は跡地を示す碑を建つのみだが、「武衛陣町」の地名が名残を伝える。 続きを読む

四手井城(京都府京都市)

四手井城

四手井氏代々の居城。
築城時期は不明だが、永禄年間の城主に三好氏被官「四手井家保」の名が確認できる。

1558年の三好長慶と足利義輝の争いでは義輝方に攻められ、周辺を放火された。
その後は足利義昭・織田信長に仕えるも、山崎の戦いで明智方に与したために没落。
同時期に廃城になったと考えられる。

山科区厨子奥矢倉町の一角が城域とされる。
周辺は宅地化されて遺構はないが、現在も四手井氏の子孫が在住する。 続きを読む

山科本願寺南殿(京都府京都市)

山科本願寺南殿

本願寺第8世・蓮如の隠居所。
1489年、蓮如の隠居に際して造営。

蓮如は1499年に同地で亡くなっている。
1532年に山科本願寺が細川晴元に攻められて落城した際、南殿も焼失。
1536年、栗津元昌が跡地に泉水山光照寺を建立した。

跡地には現在も光照寺が建つ。
2001年の発掘調査で2重に巡らされた堀と土塁、櫓と思われる建物痕が確認された。
そのことから単なる隠居所ではなく、防御施設を備えた城郭であったものと考えられる。
2002年、山科本願寺内寺内の土塁跡とともに国史跡に指定。 続きを読む

長等山陣所(大津城攻め西軍砲撃陣)(滋賀県大津市)

長等山陣所(大津城攻め西軍砲撃陣)

1600年の大津城の戦いにおける西軍の本陣。

毛利元康を大将とした西軍1万5千が東軍・京極高次が籠城する大津城を包囲。
長等山に陣を敷き、天守に向けて砲撃を行なった。
8日間の攻防の末、大津城は開城。
しかし、同日に関ヶ原本戦では西軍が敗北した。

西軍本陣の位置は明らかではないが、長等山の山腹にあり、砲撃は「大津城の南側」から放たれたとされる。
また、三井寺観音堂付近とする説もある。 続きを読む

山科本願寺(京都府京都市)

山科本願寺

浄土真宗の寺院。
1483年、本願寺第8世・蓮如による建立。

比叡山延暦寺の迫害によって京を追われた蓮如が、京での本願寺再建を願って1478年に造営。
1481年の阿弥陀堂の落成をもって「御本寺」が完成。
1483年には「内寺内」「外寺内」が完成した。
蓮如の死後、その跡を継いだ第9世・実如と第10世・証如の手によって城郭化。

1532年、法華一揆や延暦寺宗徒と結んだ細川晴元が攻め込み、寺内町周辺を放火。
山科本願寺は落城し、社坊ひとつ残さず焼失した。

山科盆地の中央やや西側、四ノ宮川と山科川(旧音羽川)の合流地点に位置する。
1532年の『経厚法印日記』に「山科本願寺ノ城」の記述があることから、当時より城と認識されていたことが窺える。
近世城郭を思わせる輪郭式の縄張りで、土塁と堀を複雑に巡らせた構造を持つ。
発掘調査では幅12m、深さ4mの堀が確認された。
内寺内の東北部に残る土塁跡は「山科中央公園」として整備され、東西75m、高さ7mもの巨大な土塁が現存する。
2002年、土塁跡および蓮如の隠居所である南殿跡が国史跡に指定。 続きを読む

石原城(京都府京都市)

石原城

石原氏代々の居城。
1539年、三好長慶が京における拠点として築城したことが始まりとされる。

1551年、足利義輝との抗争の際に近江出兵の拠点として松永久秀らが入城。
その後、石原氏の居城となった。

石原地区の中心部にあり、かつては東側に堀跡があったとされるが現在は消滅。
城域を囲む楕円形の道路は、かつての堀跡と考えられる。 続きを読む

東土川城(京都府京都市)

東土川城

京都市久世の東土川集落にあったとされる平城。
築城時期など、詳細は一切不明。

伝承はなく、地形と旧地名より存在を推察される城。
西羽束師川を東端とし、集落内を流れる水路は堀跡と考えられる。
集落内の善法寺の南側に「城屋敷」という旧地名が残る。 続きを読む

九条河原城(京都府京都市)

九条河原城

京都市の東九条地区にあったとされる平城。
詳細は不明だが、城主に「和久壱岐守」の名が確認できる。

1568年の織田氏の上洛の際、西院小泉城主・小泉島介(小泉秀清)と九条の住人・和久壱岐守が城を焼き捨てて三好方に加わったことが山科言継の日記で確認できる。
その後、城が使われていたかは不明。

九条河原町交差点を南西端、南岩本児童公園を北端、高瀬川を東端とする範囲が城域と考えられる。 続きを読む

城興寺城(京都府京都市)

城興寺城

城興寺が城塞化した寺院城郭。
城興寺は1113年に藤原忠実が創建した真言宗の寺院。

現在は本堂と寺内社の薬院社を残すのみだが、創建当初は広大な寺域を持ったとされる。
発掘調査により、室町時代末期のものと推定される幅7m以上・深さ1.5mの堀跡が検出された。 続きを読む

築山城(京都府京都市)

築山城

片岡氏代々の居城。
築城時期など、詳細は一切不明。

桂川の右岸、築山集落内の菱妻神社付近、もしくは西蓮寺および久世築山保育園を中心とした一帯が城域と考えられる。
城域の付近には、現在も片岡氏の子孫が在住。 続きを読む

浜松城(静岡県浜松市)

浜松城

徳川家康の居城、後に浜松藩の藩庁。
1570年、徳川家康が曳馬城を拡張して築城。

武田氏の侵攻に備え、徳川家康は1570年に三河国岡崎から遠江国曳馬に本拠を移す。
その際、「馬を曳く」が敗北に繋がり縁起が悪いことから、地名とともに「曳馬」を「浜松」に改めた。
以降、家康が駿府に移る1586年まで徳川氏の本拠となる。
徳川家康が駿府に移った後には堀尾吉晴・忠氏が入城。
江戸時代には浜松藩の藩庁として機能し、譜代大名を中心に22人が代々の藩主を務めた。
その多くが江戸幕府の重職に就いたことから、「出世城」の異名を持つ。

三方ヶ原台地の斜面沿いに三の丸・二の丸・本丸・天守がほぼ一直線に並ぶ梯郭式の平山城。
その規模は東西600m、南北650mに及ぶ。
主要部は東西ほぼ一直線に曲輪が並び、東から三の丸・二の丸・本丸・天守曲輪と連なる。
本丸の北側に富士見櫓、南東の隅に菱櫓が建ち、二の丸には約500坪の広さを誇る表御殿と約100坪の奥御殿が建っていたとされる。
主要部の北西側に作左曲輪、南側に清水曲輪と鳥居曲輪が配置される。
近世には天守が存在しておらず、本丸二重櫓(菱櫓)が天守の代用とされていた。
尚、築城当時の天守構造は不明。

明治維新後に廃城となる。
城跡は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の望楼型3重4階の模擬天守が築かれた。
二の丸の跡地には浜松市役所と浜松市立元城小学校が立地する。
1959年に浜松市の史跡として指定。
2014年の発掘調査では本丸南側の土塁、石垣、徳川家康在城時の遺構と見られる堀跡などが検出されている。
2016年、発掘調査と絵図に基づいて本丸大手の天守門が再建された。 続きを読む