月別アーカイブ: 2018年12月

上村館(滋賀県甲賀市)

上村館

旧甲賀郡植村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

周囲の地形から50m四方の単郭居館であったと思われ、現在は水田となっている。
同地に大きな勢力を持った有力土豪・山中氏一族の城館群(植城)の南西端に接しており、そのことから植城を構成する城館のひとつとも考えられる。 続きを読む

植城(滋賀県甲賀市)

植城

在地の土豪・山中氏一族の城館群。
室町時代後期、山中丹後守為俊による築城とされる。

山中氏は南北朝時代に伊勢神宮祭司によって柏木御厨の代官職に任じられ、総領家が本領の山中村を離れて同地に移住。
伴氏・美濃部氏とともに「柏木三方中惣」を組織し、同地に大きな勢力を持つようになった。
総領家が宇田村に居館を構えたのに対し、植村には一族郎党の居館が連なるように構えられて城館群を形成。
天文年間には、山中大和守(山中俊好のことか?)の生母が同地に居住している。

山中氏一族の複数の居館で構成された城館群。
12の方形の曲輪が連なった複郭式(群郭式)の構造で、それぞれの曲輪は土塁と堀で囲まれていたとされる。
現在、城域の東半分は吉川神社と唯称寺の境内になっており、西半分は宅地化されている。
吉川神社境内北側の竹藪内に曲輪跡と「見張り台」と呼ばれる高まりが僅かに見られ、唯称寺境内との境界には土塁と空堀の一部が残る。
唯称寺の駐車場が山中大和守生母が居住した「おつぼね屋敷」と伝わり、南辺と西辺に高さ3mほどの土塁が残る。
各曲輪の境界は集落内の道路に痕跡を残しており、城域全体の規模は東西300m、南北250mほどに及ぶ。 続きを読む

富川氏館(滋賀県甲賀市)

富川氏館

在地の土豪・富川氏の居館。
築城時期は不明。
富川氏は美濃部氏の同名中(同姓者で形成した擬似的な同族組織)に属した一族。

滋賀県立水口高等学校の南側、住宅地の一角に位置する単郭居館。
老人ホームの南側に土塁の一部が残り、その位置が城域の南西端に相当すると思われる。
北側にある東西に長い空き地までを城域と仮定した場合、その規模は70m四方程度と推察される。 続きを読む

西出館(滋賀県甲賀市)

西出館

旧甲賀郡宇田村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

国中神社から水田を隔てた東側に位置し、周囲の地形から30m四方程度の単郭居館であったと思われる。
城域は竹藪となっており、内部には幅10mほどの土塁が残っているとされるも、現状は進入が困難で確認することはできない。 続きを読む

水口御殿(滋賀県甲賀市)

水口御殿

徳川和子入内に際して江戸幕府が築いた宿館。
1620年、江戸幕府による造営。

徳川和子は江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の五女。
1612年、徳川家康は後水尾天皇の即位に合わせて和子の入内を朝廷に申し入れ、1614年に入内宣旨が出される。
その後、大坂の陣の勃発や徳川家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたことで延期され、1620年に後水尾天皇の女御として入内。
それに際して、江戸幕府は水口に宿泊施設として「御茶屋御殿」を造営した。
1626年に徳川秀忠が上洛した際にも、宿館として利用している。
1634年、水口城が築城されたことによって廃止された。

現在は公立甲賀病院の敷地となっており、遺構は存在しない。
資料によると単郭方形で周囲に堀を巡らせ、東側に外枡形を設けた構造であったとされる。
後に築城された水口城本丸と類似する構造だが、その規模は水口城よりも一回り小さかったことが窺える。 続きを読む

里北脇城(滋賀県甲賀市)

里北脇城

旧甲賀郡北脇村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

水田の中に南北15m、東西20mほどの小さな竹藪があり、北辺に土塁と堀跡が残存する。
内部の状態を確認することは困難であるものの北辺の土塁が外側から僅かに見られ、堀跡は明確に確認することができる。

竹藪が集落の北東端に位置し、堀跡が東端でL字状に折れて南向きに続くことから、単独の城館ではなく環濠集落の一部であった可能性も考えられる。 続きを読む

山中館(滋賀県甲賀市)

山中館

在地の土豪・山中氏(宇田村系山中氏)の居館。
南北朝時代の築城と思われるが、同時代の山中氏の系図には諸説あるため、築城主は不明。

『山中文書』によると、山中氏は橘諸兄の後裔と伝えられる。
1226年、橘俊信が鈴鹿山の盗賊鎮圧の功によって鎌倉幕府より山中村地頭および鈴鹿山盗賊追捕使に補任され、山中氏を称したことが始まり。
南北朝時代には伊勢神宮祭司より柏木御厨の代官職に任じられ、総領家が宇田村に移住。
それによって山中氏は山中村と宇田村の系統に分かれ、宇田村の山中氏は戦国期に伴氏・美濃部氏とともに「柏木三方中惣」を組織して甲賀二十一家のひとつに数えられ、同地に大きな勢力を持つようになった。

1585年、山中俊好は他多くの甲賀武士とともに羽柴秀吉の紀州攻めに従軍。
しかし、紀ノ川の堤防工事における失策や命令違反を咎められて所領を没収された。(甲賀破儀)
1600年、山中宗俊が徳川家康より赦免を受けて宇田村に戻り、1町四方の屋敷を構えたとされる。
1763年に屋敷地は縮小。
1847年、山中俊哲が水口藩に仕えて水口城下に移ったことで屋敷は廃されたものと思われる。

宇田公民館の北側に位置する50m四方の単郭居館。
現在は竹藪となっており、東側を除く三方に土塁が残る。
水田に面した北辺の土塁は土が剥き出しとなっており、北側を走る県道535号線からも明瞭に確認することができる。
土塁の高さは5~7mほどあり、その内部は広い平坦地になっているが折り重なった竹によって進入は困難。

現状の竹藪の範囲から推察できる居館の規模は、1763年に縮小されたものに相当。
1600年に構えられた屋敷は一辺が100mほどあったとされ、中世にはさらに広大な敷地を擁していたと思われる。 続きを読む

柏木神社城(滋賀県甲賀市)

柏木神社城

旧甲賀郡北脇村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

柏木神社拝殿の北側、土塁を隔てた先の竹藪内に位置する。
南北60m、東西30mほどの規模があり、空堀で囲まれた曲輪跡が明瞭に残る。
南辺と東辺に深い空堀跡が残存しており、神社境内と城域を隔てる南辺の土塁は堀底からの高さが約5mに及ぶ。
西辺は道路造成で遺構は消滅したものと思われ、北辺には水路が残る。
また、拝殿の周囲も土塁で囲まれていることから、神社全体が城塞化していた可能性も考えられる。

柏木神社は、伊勢神宮の御厨(柏木御厨)である柏木荘16ヶ村の鎮守。
南北朝時代に山中氏が伊勢神宮祭司によって柏木御厨の地頭職に任じられて同地を領したことから、山中氏に関連した城砦であった可能性が考えられる。
社伝によると、柏木神社は1580年に織田氏の軍勢に攻められて焼失している。
しかし、山中氏は1574年頃には織田氏に服属しており、柏木神社の焼失に山中氏が関連していたのかは不明。 続きを読む

伯太陣屋(大阪府和泉市)

伯太陣屋

伯太藩の藩庁。
1727年、渡辺基綱による設置。

1727年、渡辺基綱が大鳥郡大庭寺村から和泉郡伯太村に陣屋を移して伯太藩が成立。
前身である大庭寺藩の藩領1万3千500石を引き継ぎ、明治維新に至るまで9代に渡って同地を領した。
藩領は1871年の廃藩置県によって伯太県となり、堺県を経て1881年に大阪府へ編入された。

現在は住宅地となり、陣屋跡を示す碑と屋敷跡の碑が建つ。
陣屋跡地に遺構はないが、陣屋門が堺市の小谷家邸宅(小谷城郷土館)に移築現存する。 続きを読む

観音寺城(大阪府和泉市)

観音寺城

1338年の石津の戦いにおける北畠方の城砦のひとつ。

大和国般若坂での戦いに敗れた北畠顕家は、再起を図って和泉国各地を転戦。
堺浦の町屋と石津を焼き払い、坂本郷と観音寺に城砦を構えて各地に進撃した。
石津川畔で北朝方の細川顕氏を破った北畠顕家は阿倍野まで進出し、北朝方・高師直との激戦の末に敗死。
残った兵は観音寺城に集結して再挙したが、北朝方の追撃に敗れて南方へと敗走した。

南海バス観音寺町バス停前、弥生4号公園内に城址碑が建つ。
北側に槙尾川を臨む丘陵上にあり、JR和泉府中駅から泉北高速鉄道和泉中央駅に向かう道路の最高所の地点に位置する。
遺構はないものの、その立地から槙尾川を防衛線に堺方面を意識した城砦であったことを窺わせている。 続きを読む

宇多大津城(大阪府泉大津市)

宇多大津城

在地の土豪・藤林氏の居城。
南北朝時代、藤林民部大輔による築城。

藤林氏は元は河内国石川郡水分村の在地土豪で、南北朝時代に藤林民部大輔が楠木正成に従って和泉国に移り、和泉郡大津村の高台に城館を構えて在城した。
戦国期の城主には和泉三十六郷士に数えられる藤林作右衛門・与左衛門父子の名が見られ、藤林作右衛門は1576年の第一次木津川口の戦いで、藤林与左衛門は1600年の関ヶ原の戦いで西軍に属して、それぞれ戦死している。
石州流宗源派(藤林流)の祖である茶人・藤林宗源は、この藤林氏の出身とされる。

大津川河口付近の北岸、府道204号線沿いの民家脇に「城の山」の碑が建つ。
民家には現在も藤林氏の子孫が在住している。 続きを読む

二田城(大阪府泉大津市)

二田城

在地の土豪・磯上氏の居城。
築城時期は不明。

「二田」の地名は、物部氏の氏族・二田氏が同地に住み着いたことに由来。
南北朝時代には南郡磯上村の土豪・磯上氏が城館を築き、戦国期の城主として「磯上無仁入道」の名が見られる。

1646年に二田城跡地の高台を掘り下げ、蓮華寺が建立されたと伝えられる。
同地から南東200mほどの位置に「大門」の旧地名が残り、以前は堀跡が残っていたとされる。
現在、堀跡は埋められ、一部は暗渠となっている。 続きを読む

曽根城(大阪府泉大津市)

曽根城

在地の土豪・玉井氏の城砦のひとつ。
詳しい時期は不明だが、玉井源秀による築城。
玉井氏は千原城を本拠として和泉郡上条郷に勢力を持った一族で、両細川の乱では細川氏綱方として各地に参戦した。

弥生時代の集落遺跡「池上曽根遺跡」の西隣、曾禰神社境内にあったとされる。
境内の裏手に土塁の一部と思われる低い土盛りが見られるが、城郭遺構であるかは不明。 続きを読む

箕形城(大阪府和泉市)

箕形城

在地の土豪・箕形氏の居城。
築城時期は不明。

鎌倉時代の御家人に「箕形熊石丸」の名が見られ、同地に土着したものと思われる。
南北朝時代には南朝方の城砦が築かれ、1339年に北朝方の日根野道悟に攻められて落城した。

松尾川の南岸、府道226号線が松尾川と交差する地点に建つ八坂神社境内にあったとされる。 続きを読む

葛葉城(大阪府和泉市)

葛葉城

旧和泉郡中村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

JR信太駅の南西、北信太森葛葉稲荷神社の境内一帯が城域とされる。
境内の東側に長さ30mほどに渡って土塁が残るほか、境内北側にも土塁と堀の一部が残る。 続きを読む

信太城(大阪府和泉市)

信太城

在地の土豪・信太氏(成田氏)の居城。
築城時期は不明。

信太氏は承久の乱の功によって和泉国信太郷の地頭となったことに始まる一族。
鎌倉時代の御家人として「信太右衛門尉」「信太左衛門尉」の名が見られ、正和年間に信太三郎左衛門入道覚円が和泉守護代を努めている。
室町時代には信太忠俊の名が見られ、宝徳年間に細川常有の元で和泉守護代を努めたことが確認できる。
和泉三十六郷士のひとりに数えられる成田伊豆守忠宗は信太氏の子孫とされ、戦国期には成田氏に改姓したものと思われる。
成田氏は織田信長に降伏してその支配下となり、織田氏による畿内一円の戦いに参戦した。

和泉市立信太小学校の敷地に「城(じょう)」の旧地名が残る。
同地は小栗街道に面した台地の先端にあり、城館があった可能性が高いと考えられる。 続きを読む

坂本城(大阪府和泉市)

坂本城

在地の土豪・坂本氏の居城。
築城時期は不明。

坂本氏は壬申の乱で大海人皇子方として功を挙げたことに遡り、飛鳥時代には同地を領していたとされる。
室町期から戦国期にかけての当主として、足利義政に仕えた坂本順喜より貞助・長徳・元永・守重の5代の名が見られ、坂本長徳が足利義輝・義昭の後に織田信長に仕えて以降は織田氏の支配下となる。
織田氏による畿内一円の戦いに参戦していたとみられ、坂本元永は1576年の第一次木津川口の戦いに従軍して戦死している。

詳しい位置は不明だが、禅寂寺付近にあったと考えられる。
禅寂寺は坂本氏代々の檀那寺で、坂本氏が飛鳥時代に建立した坂本寺の跡地に創建された。
南側に槙尾川を臨む丘陵先端にあり、西側には和泉地方の平野部を望むことができる。 続きを読む

千原城(大阪府泉大津市)

千原城

在地の土豪・玉井氏の居城。
詳しい時期は不明だが、明応年間には城館があったものと思われる。

玉井氏は和泉郡上条郷に勢力を持った一族で、北曽根・南曽根・吾孫子・森・千原の各村を領していた。
1492年に「千原彦太郎」の名が見られ、後に玉井氏を称するようになったことが始まりとされる。
1543年、玉井壱岐守行家(後の玉井源秀)は細川氏綱に従って和泉国堺南荘に出陣し、芦原口で細川晴元方の松浦肥前守と戦って敗れている。
1588年に玉井源秀が病没したことで、玉井氏は断絶した。

住宅地内に「兵主原」の旧地名が残り、住宅に挟まれた茂みの中に城址碑と玉井源秀が葬られたとされる「四十九山」の案内板が建つ。 続きを読む

苅田城(池浦城)(大阪府泉大津市)

苅田城

在地の土豪・寺田氏の居城のひとつ。
築城時期は不明。

1531年、両細川の乱において細川晴元の被官・三好山城守が「池浦の堡」に陣を置き、摂津国の遠里小野に出陣したことが確認できる。
戦国期に入ると、和泉国内に寺田氏の名が見られるようになる。
寺田氏は和泉郡寺田村を領した一族で、戦国期の当主として「寺田知正」の名が確認できる。
寺田知正の子で織田氏に仕えて松浦水軍を率いた寺田又右衛門(寺田生家)・寺田安太夫(松浦宗清)兄弟が眞鍋氏・沼間氏らとともに第一次木津川口の戦いに参戦しており、その立地から苅田城を拠点としていた可能性が考えられる。

泉大津市立穴師小学校の向かい側、JAいずみの穴師支店跡地が城域とされる。
以前は駐車場入口に城址碑が建っていたが、現在は撤去されている。 続きを読む

眞鍋城(大津城)/ 大津寺内(大阪府泉大津市)

眞鍋城

在地の土豪・眞鍋氏の居城。
築城時期は不明だが、鎌倉時代初期には城館が存在したと伝わる。

眞鍋氏は元は日根郡淡輪村の在地土豪で、南北朝時代に眞鍋主馬大夫が和泉郡大津村に城館を構えて在城した。
同地には鎌倉時代初期から城館が存在していたと考えられ、城主に斎藤民部大輔・斎藤主膳正らの名が見られる。
そのことから元は斎藤氏(和泉守護代を努めた斎藤氏の一族か)の城館があり、その後に眞鍋氏が入城したものと思われる。
戦国期には織田氏に従い、眞鍋貞友が1576年の第一次木津川口の戦いに水軍を率いて参戦し、戦死している。
眞鍋貞友の跡を継いだ眞鍋主馬大夫貞成は蜂屋頼隆に属して1582年の甲州征伐に従軍し、1584年の紀州征伐では水軍を率いて菅達長の水軍を破ったほか、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いにも従軍している。
関ヶ原の戦い後、眞鍋貞成は福島正則に4千石で仕えた後に浪人を経て紀州藩士となっているが、その後の眞鍋氏の動向は不明。

城は天正年間に廃城になったと思われる。
眞鍋城の跡地には伯太藩主・渡辺氏の菩提寺である長泉寺(現在の南溟寺)が建立され、釣屋道場(現在の強縁寺)・東右衛門道場(現在の緑照寺)とともに大津寺内を形成した。

現在も同地には南溟寺が建ち、本堂前に城址碑が建つ。
1679年の絵図には境内の周囲を四角く囲んだ堀が描かれている。 続きを読む

和泉国府(大阪府和泉市)

和泉国府

奈良時代から平安時代における和泉国の国庁(地方政庁)。
詳しい設置時期は不明。

『和名抄』によると、和泉国の国府は和泉郡にあったとされる。
発掘調査で国府跡を示す遺物は確認されていないものの、和泉市府中に所在する府中遺跡に「国府」「府中」「御館」「南の端」「北の端」などの旧地名が残され、その中心に泉井上神社が建つ。

泉井上神社から南東200mの位置にある御館山公園内に、国府跡を示す碑が建つ。 続きを読む

助松館(田中遠江守陣屋)(大阪府泉大津市)

田中遠江守陣屋

田中遠江守重景の居城。
元亀年間、田中遠江守重景が上野国から同地に移住した際に築城。

田中氏は新田氏の流れを汲む一族で、上野国新田郡田中村を領して田中姓を称した。
元亀年間に田中遠江守重景が和泉郡助松村に移り住み、織田氏に従って石山本願寺攻めに参戦している。
江戸時代に入ると帰農し、大庄屋となった。
田中氏の屋敷は「田中本陣」「助松本陣」と呼ばれ、紀州藩の参勤時の本陣として利用された。

江戸時代初期に建てられた屋敷が何度かの修築を経て現存。
敷地内は個人宅のために非公開となっているが、道路沿いに長屋門と土塀の一部が残っている。 続きを読む

国府城(大阪府和泉市)

国府城

1338年の石津の戦いにおける足利方の城砦のひとつ。

大和国般若坂での戦いに敗れた北畠顕家は、再起を図って和泉国各地を転戦。
堺浦と石津の町屋を焼き払い、坂本郷と観音寺に城砦を構えて各地に進撃した。
北朝方では「和泉国府の城」に和泉国守護・細川顕氏が入城し、南朝方・和田氏の軍勢と交戦。
顕氏は和田勢に敗れて敗走し、自身も2ヶ所の傷を負ったとされる。
国府の城はその後も存続していたが、永正年間に根来衆によって焼き払われた。

詳しい位置は不明だが、その呼称より和泉国府付近にあったと推測される。
泉井上神社境内に「古城」と刻まれた碑が建つ。
しかし、この碑は大泉寺付近の田所氏の居城跡より移されたものとされ、「国府の城」を示すものではないと考えられる。 続きを読む

摩湯山城(大阪府岸和田市)

摩湯山城

旧和泉国南郡摩湯村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

摩湯山古墳が城砦化された丘城。
摩湯山古墳は和泉地方を代表する最古級の前方後円墳であり、国史跡に指定されている。
内部の本格的な調査は実施されておらず、城郭遺構があるかは不明。 続きを読む

志賀高穴穂宮(滋賀県大津市)

志賀高穴穂宮

第13代・成務天皇の宮殿。
128年、景行天皇が近江国に行幸した際に造営されたものと思われる。

『日本書紀』によると成務天皇は景行天皇の第4皇子で、景行天皇が崩御した翌年に即位。
行政区画としての国郡・県邑の制定、それぞれに造長・稲置を任命するなど、地方行政機構の整備を図った。
『古事記』には「大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とあり、崇神天皇の祭祀、仁徳天皇の善政、允恭天皇の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。

大津市穴太1丁目に所在する高穴穂神社付近が伝承地とされ、境内の奥深くに宮跡を示す石碑が建つ。 続きを読む

高月城(滋賀県大津市)

高月城

旧滋賀郡南庄村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

堅田丘陵から南に突き出た細長い台地の先端に築かれた丘城。
周囲は斜面上に水田が複数段に渡って展開されており、その最上段の藪内に位置する。
内部には土塁と堀で囲まれた曲輪跡が残っているとされるも、農地内にあって立ち入ることはできない。

1570年の志賀の陣において朝倉方が滋賀郡内に多数の陣城を構築したことが『來迎寺要書』に見られ、同地が仰木の陣城であった可能性が考えられる。 続きを読む

衣川天満宮砦(滋賀県大津市)

衣川天満宮砦旧滋賀郡衣川村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

堅田丘陵の南東端に位置する丘城。
現在も同地には衣川天満宮が建ち、南側に天神川、東側に堅田の平野部と琵琶湖を見下ろす位置にある。
立地上は城砦があった可能性が高いと思われるものの、神社境内に城郭遺構は確認できない。

1570年の志賀の陣において朝倉方が滋賀郡内に多数の陣城を構築したことが『來迎寺要書』に見られ、同地が衣川の陣城であった可能性が考えられる。 続きを読む