月別アーカイブ: 2018年5月

高津城(大阪府大阪市)

高津城

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

『信長公記』『陰徳太平記』に城砦の存在を示す記述が見られるが、具体的な位置は不明。
文献上の裏付けはないが高津宮跡地とされる大阪府立高津高校付近が地形的に有力であるほか、その南の小橋町には大坂冬の陣で豊臣方の真田信繁が陣を置いた築山がかつて存在しており、同地付近に城砦があった可能性が考えられる。 続きを読む

難波砦(大阪府大阪市)

難波砦

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

『信長公記』『陰徳太平記』に城砦の存在を示す記述が見られるが、具体的な位置は不明。
難波砦の所在地と思われる旧上難波村は現在の南船場およびその周辺に相当し、同地には真宗大谷派の難波別院や反正天皇創建の難波神社が建つ。 続きを読む

真田丸(真田出城)(大阪府大阪市)

真田丸

大坂冬の陣において大坂城惣構の平野口に築かれた豊臣方の出城。
1614年、真田信繁による築城。

大坂冬の陣の緒戦に木津川口砦・鴫野砦・博労淵砦などの拠点を失った豊臣方は、残りの砦を放棄して大坂城内に撤収。
籠城戦が本格化するなか、大坂城南方の守備強化のために真田信繁が出城を構築。
前方の篠山と合わせて真田勢5千の兵が守備し、そのことから『真田丸』と呼ばれるようになった。

慶長19年12月4日(1614年1月3日)、幕府方は真田丸を含む大坂城南側一帯に攻撃を開始する。
前田利常・井伊直孝・松平忠直ら2万6千に対し、豊臣方は真田丸に真田信繁5千、八丁目口・谷町口に後藤基次・木村重成・長宗我部盛親ら1万2千を配して迎撃。
激しい戦闘の末に幕府方は1万の損害を出して敗走し、豊臣方が勝利した。
しかし、豊臣方の劣勢は変わらず同月20日に和議が成立。
和議の条件のひとつとして、真田丸は破壊された。

平野口の南(大坂城惣構の南東端)に構築された丘城。
その実態には諸説あり、通説では心眼寺坂を西端、三光神社を東端にした東西180mほどの半円形の構造とされていた。
しかし、最近の研究によって規模については「南北220m、東西140m」「南北270m、東西280m」とする説が唱えられ、形状も従来の半円形に加えて不定形とする説や矩形に近い五角形とする説、独立した出城ではなく大坂城と土橋で連結されていたとするなど、現在も議論が続いている。
尚、所在地は「真田山」の旧地名が残る大阪明星学園付近で確定とされている。
2016年、大阪明星学園のグラウンド脇に「真田丸顕彰碑」が建てられた。 続きを読む

阿都桑市館(大阪府八尾市)

阿都桑市館

古墳時代の有力豪族・物部守屋の館。
築城時期は不明。

物部守屋は古墳時代の有力豪族。
敏達天皇の即位に伴って大連に任じられ、権勢を誇った。
敏達天皇の崩御後、蘇我馬子と対立。
587年、蘇我馬子は物部守屋の追討を決定し、厩戸皇子(聖徳太子)・泊瀬部皇子・竹田皇子ら皇族や諸豪族を率いて河内国渋川郡の阿都桑市にある物部守屋の館へと進軍する。
蘇我方と物部方は餌香川で交戦となり、双方合わせて数百の戦死者を出す激戦の末に物部方は衣摺に後退。
物部守屋は稲城を築いて抗戦し、自身も楠の木股に登って矢を撃ち掛けるなど蘇我方を3度に渡って撃退するも、迹見赤檮に射殺される。
守屋の戦死によって物部方は総崩れとなり、敗走した。(丁未の乱)

「阿都」の位置には諸説あるが、現在の八尾市跡部本町付近と考えられる。
物部守屋の館は八尾市亀井町の跡部神社にあったとされる。
跡部神社の創建時期は不明だが、物部氏の一族である阿刀氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)が祀られている。 続きを読む

由義宮(大阪府八尾市)

由義宮

河内国若江郡にあったとされる離宮。
769年、称徳天皇による造営。

元は同地出身の僧・道鏡が称徳天皇の信任を得て造営した弓削行宮に始まる。
769年、称徳天皇が行幸する際の「西の京」として離宮が建てられ、由義宮と改められた。
その宮域は若江郡を中心に高安郡・大県郡に及ぶ広大なものであったとされる。
しかし、その後間もなく称徳天皇が崩御したため、離宮は僅か10ヶ月で廃止された。

由義神社(八尾市八尾木北)の境内前に「由義宮旧址」の石碑が建つ。
『続日本紀』などに具体的な位置は記されていないが、2017年までに実施された発掘調査で由義神社の南に所在する「東弓削遺跡」が弓削寺(由義寺)および由義宮であったことが有力とされている。 続きを読む

綾井城(大阪府高石市)

綾井城

在地の土豪・沼間氏の居城。
応仁年間、沼間仁任入道清成による築城。

沼間氏は南北朝時代、楠木正成の一族・和田高家に従って和泉国に下向したとされる。
戦国期には沼間任世入道清成が大鳥郡綾井村、沼間伊賀守正盛が南郡木積馬場村、沼間大隅守が日根郡鳥取箱作村にそれぞれ居住して勢力を広げ、和泉国内で最も強い勢力を誇る一族となった。
沼間清成の子・沼間義清は織田信長に臣従し、1576年の木津川口の戦いで戦死。
その子・沼間清興が7千石を領して後に中村一氏の与力となり、子孫は江戸幕府の旗本として存続した。

南海電鉄高石駅の東側、専称寺境内に位置する。
寺の正面に堀跡と思われる濠があるが、城郭遺構であるかは不明。
山門に脇に城址碑が建つ。 続きを読む

国見城(大阪府堺市)

国見城

三好氏に関連する城砦のひとつ。
築城時期は不明。

大仙陵古墳(百舌鳥耳原中陵、仁徳天皇陵)が城砦化された丘城。
調査が行なわれていないため、城の構造は不明。
江戸時代には幕府領となり、後円部に幕府の勤番所が設けられていた。 続きを読む

吉岡城(防己尾城)(鳥取県鳥取市)

防己尾城

因幡国高草郡の有力土豪・吉岡氏の居城。
1579年、吉岡将監定勝による築城。

吉岡氏は南北朝時代より湖山池西岸の六反田を本拠とする国人領主。
室町時代には吉岡荘の荘官を務め、代々に渡って因幡山名氏に仕えた。
天正年間に毛利氏が因幡国に侵出すると当主・吉岡定勝はそれ従い、吉川元春より本領を安堵されている。
1573年に箕上山城に移った後、1579年に湖山池の西岸に新たな城を築いて本拠とした。

1581年、織田氏による鳥取城攻めが本格化すると、これに抵抗。
羽柴秀吉による3度の侵攻を撃退し、特に2度目の侵攻に対しては吉岡右近(吉岡定勝の弟)によって秀吉の千生瓢箪の馬印が打ち捨てられるほどの大勝であったと伝わる。
しかし、兵糧攻めに遭って落城。
吉岡定勝は毛利氏を頼って安芸国に逃れた後、因幡国に戻って帰農したといわれる。

湖山池の西岸、池に突き出た半島の丘陵上(標高39m)に築かれた丘城。
城域全体が『湖山池公園』として整備されている。
独立した3つの丘陵にそれぞれ本丸・二の丸・三の丸の曲輪が配され、現在はスポーツ施設となっている平地部分には小規模な町屋が形成されていたと考えられている。
本丸は80m四方程度の広い平坦地が整備されて展望台となっており、東側と南側に小曲輪と堀切が確認できる。
二の丸は本丸南側の堀切を隔てた先にあり、本丸と同程度の平坦地に北辺から西辺にかけて土塁が明瞭に残るほか、北側に虎口、南側に土塁を伴う副曲輪が見られる。
三の丸は東西200mに及ぶ細長い形状で、複数の曲輪と思われる平削地が階段状に配されている。
但し、それが城郭遺構であるのか、散策路が作られた際に造成されたものであるかは判然としない。

一般的に呼ばれている「防己尾(つづらお)城」の名称は江戸時代に入って定着したものとされ、天正年間には「吉岡城」「亀山城」と呼ばれた。 続きを読む

丸山城(河原城)(鳥取県鳥取市)

河原城

1580年の第一次鳥取城攻めにおける織田方の陣城のひとつ。
大振袖山城の出城跡地に羽柴秀吉が築城。

元は武田高信の属城である大振袖山城の出城があったとされる。
1580年、羽柴秀吉が鳥取城の山名豊国を攻める際に陣を置いた。
その後の城の動向は不明だが、鳥取城の落城後に廃城になったものと思われる。

千代川を見下ろす小丘に建てられた山城。
千代川と八東川の合流点付近にあり、美作方面への街道と播磨方面への街道が分岐する陸運・水運上の要衝に位置する。
1991年に発掘調査が実施され、曲輪と堀切の跡、掘立柱痕などが発見された。
1994年、ふるさと創生事業として山頂に犬山城天守を模した模擬天守が建てられ、内部は旧河原町の観光案内所と資料館となっている。
山中には複数段の曲輪跡や空堀、竪堀が現存するも、山頂部は模擬天守の建設によって多くの遺構が破壊されたものと推測される。

一般的には河原城と呼ばれるが、正式な名称は『丸山城』。 続きを読む

玉津島砦(和歌山県和歌山市)

玉津島砦

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

玉津嶋神社の裏山、奠供山(標高35m)の山頂部に位置する丘城。
遺構は存在しないが、和歌浦を一望できる絶好の景観を持つ。 続きを読む

雑賀崎城(和歌山県和歌山市)

雑賀崎城

雑賀衆の城砦のひとつ。
天正年間、鈴木重秀による築城。

石山本願寺を追われた教如を匿うため、雑賀衆の棟梁である鈴木重秀(雑賀孫市)が築城した。
教如は崖下にあった上人窟に隠れていたといわれる。
1585年、羽柴秀吉による紀州征伐の後に廃城となった。

現在、城域には観光施設として雑賀崎灯台が建つ。
教如が隠れていたとされる上人窟は和歌山県の天然記念物に指定されており、灯台から遊歩道が整備されている。
しかし、現在は台風によって遊歩道が途中で崩落しており、上人窟へは到達できない。 続きを読む

弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)

弥勒寺山城

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、雑賀衆による築城。

1577年、織田信長が雑賀攻めのために紀伊国に侵攻すると、雑賀衆は多くの城砦を築いてそれに抵抗。
雑賀川沿いの弥勒寺山城を本陣として雑賀衆3千が布陣し、北に東禅寺山砦・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜砦を築いて防衛網を展開した。
緒戦は雑賀方が優勢であったが次第に膠着状態となり、雑賀衆は鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら7人の連署で誓紙を差し出して織田方に降伏。
本陣となった弥勒寺山城は1585年の羽柴秀吉による紀州征伐で使用された記録がないことから、そのときに廃城になったと思われる。

秋葉山(標高73m)の山上一帯に築かれた山城。
元は紀伊国における一向宗の中心地である弥勒寺があり、その跡地を城塞化したものと考えられる。
秋葉山全体が「秋葉山公園」として整備され、城域とされる山頂一帯は展望台と遊具が置かれて住民の憩いの場となっている。
山頂東側には櫓台と思われる東西20m、南北50mほどの高まりがあり、中央に顕如上人卓錫所の碑が建つ。
北麓の散策路沿いに曲輪らしい平坦地がいくつか見られるものの、公園整備のために造成された平地との区別が難しく、どこまでが城郭遺構であるかは判然としない。 続きを読む

雑賀城(和歌山県和歌山市)

雑賀城

雑賀衆・鈴木氏の居城。
詳しい時期は不明だが、鈴木佐大夫重意による築城。

鈴木氏は紀伊国十ヶ郷の平井を本拠とし、雑賀荘を領した一族。
雑賀荘を中心とした荘園の土豪が結集した『雑賀衆』の有力者であり、十ヶ郷の指導的立場にあったとされる。
鈴木重意は1560年の久米田の戦いにおいて畠山高政方として名が見られ、1569年には同じく畠山高政の高屋城奪還に雑賀衆のひとりとして従軍している。

1577年、織田信長が紀伊国に侵攻すると一度は撃退するも降伏。
本能寺の変後は羽柴秀吉に属した。
しかし、1585年に羽柴秀吉に攻められて雑賀城は落城。
鈴木重意は早期に降伏するも、紀伊国粉河で藤堂高虎に謀殺された。

和歌浦に突き出た妙見山(標高32m)の山上一帯に築かれた丘城。
南端の養珠寺から北側の尾根筋にある「千畳敷」と呼ばれる台状地に展開されていたとされるが、明確な遺構は存在しない。 続きを読む

紀州藩湊御殿(和歌山県和歌山市)

紀州藩湊御殿

紀州藩藩主の別邸。
1698年、紀州藩2代藩主・徳川光貞による造営。

1698年、徳川光貞が自らの隠居所として和歌山城の南西側沿岸部に造営。
江戸城本丸御殿や紀州藩江戸屋敷を模した広壮で豪華なものであったといわれ、敷地内には生活のために多くの建物が建てられていた。
13代藩主・徳川慶福の治世では、政務と住居が和歌山城に移るまで政庁として機能。

明治時代に入るといくつかの建物は個人宅や寺院に移築され、それ以外の建物は取り壊された。
1868年に和歌浦東に移築された奥御殿が現存。
御殿は幾度か火災で焼失するも都度再建され、現存する奥御殿は11代藩主・徳川斉順が1834年に再建したもの。

1967年、奥御殿が和歌山市文化財に指定。
個人から和歌山市に無償譲渡され、2006年に現在地である養翠園(国指定名勝)に移築された。 続きを読む

秋月城(和歌山県和歌山市)

秋月城

太田城の支城。
延徳年間、紀伊国造64代・紀俊連が神領保護を目的に築城したことが始まりとされる。

元は延徳年間に紀俊連が日前宮の神領を保護するために築いた4城(太田城・秋月城・井辺城・三葛城)のひとつで、板垣周防守が守備していた。
1576年に太田左近が太田城に入城すると、その支城として機能。
1585年の羽柴秀吉による紀州征伐では城兵は太田城に集結しており、秋月城は放棄されたものと考えられる。

城域には県道145号が横切っており、遺構のほとんどが消滅。
道路北側の水田に曲輪の一部と思われる東西20mほどの微高地が確認でき、その周囲には僅かに堀跡が見られる。 続きを読む

太田城(和歌山県和歌山市)

太田城

宮郷衆(太田党)党首・太田左近の居城。
延徳年間、紀伊国造64代・紀俊連が神領保護を目的に築城したことが始まりとされる。

元は延徳年間に紀俊連が日前宮の神領を保護するために築いた4城(太田城・秋月城・井辺城・三葛城)のひとつ。
1576年に太田左近が入城し、城を修築。
1577年、織田信長による紀州征伐(雑賀攻め)に協力したことで雑賀衆に攻められるも抗戦し、1ヶ月に及ぶ籠城戦の末に和睦した。(第一次太田城の戦い)

1585年、羽柴秀吉による紀州征伐では6万(一説には10万)の大軍が太田城を包囲。
羽柴方は初戦に敗北したことで水攻めに切り替え、紀の川を堰き止めるために総延長6kmに及ぶ堤防を構築。
太田方は物資の補給が途絶えたまま約1ヶ月間の籠城を経て降伏し、太田左近以下53名が自害した。(第二次太田城の戦い)
この戦闘は備中高松城・忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつに数えられる。
但し、包囲の日数に対して堤防の規模や動員人数が過大であるなど不明な点が多く、伝えられているより小規模な戦闘であったか、紀の川の氾濫を防ぐための堤防が流用された可能性が指摘される。

城域は現在の来迎寺と玄通寺を中心に、約270m四方の範囲と伝わる。
発掘調査によると周囲には土塁と堀を巡らせ、土塁の上にさらに土壁が設けられていたとされる。
各所には高櫓が建てられ、城門は大門(和歌山市内の大立寺に移築現存)・南大門・西北門の3ヶ所が設けられた。
昭和初期には1585年の戦いの堤防跡が20ヵ所ほど残されていたが、現在はほとんどが消滅している。 続きを読む

中津城(和歌山県和歌山市)

中津城

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

1577年の織田信長による紀州征伐(雑賀攻め)に対抗するため、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。
雑賀権太夫が城主を務めた。
1585年の羽柴秀吉による紀州征伐の際にも北の前線として機能し、10万の大軍を迎え撃って落城している。

JR紀和駅から南側の西覚寺付近に至る東西70m、南北120mほどの範囲が城域とされる。
周辺は宅地化され、遺構は存在しない。 続きを読む

鷺森御坊(和歌山県和歌山市)

鷺森御坊

紀伊国おける一向宗(浄土真宗)の別院。
1476年、紀伊国冷水浦に建てられた冷水道場が始まり。

1693年成立の『鷺森旧事記』によると、冷水浦の住人・喜六大夫が熊野参詣の途上で冷水浦を訪れた蓮如に帰依し、1476年に冷水道場を建立したとされる。
その後、道場は1507年に名草郡の黒江、1550年に和歌浦弥勒寺山に移り、1563年に雑賀庄鷺森に移転。
同地には石山本願寺から退去した顕如が1580年から1583年にかけて滞在しており、浄土真宗の本拠地として位置付けられていた。

戦国時代末期に羽柴秀吉による紀州征伐によって衰退するも、紀州国内の門徒の支援によって1768年に再興。
第二次世界大戦中の和歌山大空襲によって建造物は焼失。
1948年に再建され、その後に改築された建物が現在に残る。
2015年に実施された発掘調査では、御坊の南辺にあたる和歌山市立城北小学校のグラウンドで幅16m、深さ3mの堀跡が検出された。

正式名称は『本願寺鷺森別院』。
当時は「鷺森御坊」「雜賀御坊」「鷺森本願寺」とも呼ばれていた。 続きを読む

吹上城 / 和歌山城(和歌山県和歌山市)

和歌山城

豊臣秀長(羽柴秀長)の居城、後に紀州藩の藩庁。
1585年、羽柴秀長が「吹上の峰」に築城したことが始まり。

紀州征伐の副将として功を挙げた羽柴秀長は、その平定後に紀伊・和泉2ヶ国を加増される。
若山の南麓にあたる「吹上の峰」を城地と定め、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親・横浜良慶を任じて1年で完成。
その際、同地は若山から「和歌山」と改められた。
1586年より桑山重晴が城代を務め、1596年の隠居後は孫の桑山一晴が城代を継承。
関ヶ原の戦い後に桑山一晴が大和国新庄藩に転封されると、浅野幸長が37万6000石で入領した。
1619年に浅野氏が安芸国広島藩に加増転封された後は徳川頼宣(徳川家康十男)が55万5000石で入城し、御三家・紀州徳川家が成立。
以降、14代に渡る紀州徳川家の居城として明治維新を迎えた。

和歌山市の中心部、虎伏山(とらふすやま、標高49m)に築かれた平山城。
北側を流れる紀の川を天然の堀とし、本丸の北側に二の丸・西の丸・砂の丸・三の丸、南側に南の丸が配された梯郭式の構造を持つ。
1621年より城の大改修と城下町の拡張を始められたが、大規模な改修であったために幕府より謀反の嫌疑をかけられた。
外堀も拡張して惣構とする計画があったが中止され、その名残として「堀止」の地名が残る。
1655年、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火し、西の丸・二の丸に延焼。
1813年には西の丸大奥より出火し、西の丸御殿が全焼した。
また、1846年には落雷で大天守・小天守を含む本丸の主要建造物が全焼したが特例で再建が許可され、1850年に大天守・小天守などが再建された。

1871年、廃城。
1901年に本丸跡・二の丸跡が「和歌山公園」として一般開放された。
1931年、国史跡に指定。
1935年には大天守・小天守・北西隅櫓・西南隅櫓・楠門・北東多門・北西多門・西多門・南多門・東倉庫・西倉庫の11棟が国宝保存法に基づく国宝に指定されるも、1945年の和歌山大空襲によって指定建造物11棟すべてが焼失。
1958年、水島栄三郎(1850年の天守再建時の大工棟梁・水島平次郎の子孫)が所蔵する天守図と『御天守御普請覚張』を参考に天守群が鉄筋コンクリート製で再建された。
現在、公園となっている本丸跡・二の丸跡以外は市街地化され、南の丸跡には和歌山公園動物園、三の丸跡には和歌山県庁舎と和歌山市役所、和歌山市消防局・和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁などの公的機関や和歌山中央郵便局、和歌山県立近代美術館・和歌山県立博物館、和歌山大学付属小中学校などが建つ。
現存する岡口門とそれに付属する土塀が1957年に国の重要文化財に指定。
そのほか、西の丸庭園が国の名勝、追廻門が和歌山市文化財に指定されている。

2006年、日本100名城に選定された。 続きを読む

東善寺山砦(和歌山県和歌山市)

東善寺山砦

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

和歌川の西岸、打越山(標高45m)の山頂部「打越山公園」に位置する丘城。
現在は草が生い茂って遺構の観察が困難であるものの、40m四方の平坦地が確認できる。
南側の散策路沿いにいくつかの平坦地が見られるも、城郭遺構であるかは不明。 続きを読む

紀州藩雑賀崎遠見番所 / 紀州藩元番所台場(和歌山県和歌山市)

紀州藩元番所台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
安政年間、紀州藩による築造。

1854年、紀州藩は加太から大崎までの近海を7地区に分け、7人の家臣に命じて台場を築造。
雑賀崎では紀州藩の遠見番所のひとつであった通称「番所の鼻」と呼ばれる岬の先端部に台場が築かれた。

現在、番所の鼻一帯が「番所庭園」として整備され、観光地化されている。
庭園として整備されながらも南辺には土塁が明瞭な形で残っており、岬の先端および北辺にも土塁の一部が残る。

番所庭園は紀伊水道に浮かぶ大島(男島)・中ノ島(女島)・双子島を望む景勝地にあり、夕日の名所としても知られる。
2010年、和歌山県史跡に指定。
また、「和歌山市万葉めぐりコース」「せとうち夢海道50景」に選定されている。 続きを読む

紀州藩雑賀崎台場(和歌山県和歌山市)

紀州藩雑賀崎台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
安政年間、紀州藩による築造。

1854年、紀州藩は加太から大崎までの近海を7地区に分け、7人の家臣に命じて台場を築造。
雑賀崎では通称「トンガの鼻」と呼ばれる岬の先端部に台場が築かれた。

2007年に実施された発掘調査によると、台場の規模は東西12m、南北21mで周囲に石垣と土塁を巡らせていた。
土塁に囲まれた中央部分からは逆V字状に積まれた石積みが検出され、砲座の可能性が指摘されるが、類例がないことから詳細は不明。
また、多角形に積まれた石垣、三方を石垣で囲んだ方形の土台などが検出されている。
台場主要部の石積みは埋め戻されているが、それを囲む土塁が明瞭に残るほか、主要部の東側には石積みの土台と石垣の一部が残っている。

2010年、和歌山県史跡に指定。 続きを読む

岡山城(和歌山県和歌山市)

岡山城

紀伊守護・畠山氏の城砦のひとつ。
詳しい時期は不明だが、畠山高政による築城とされる。

和歌山大学教育学部附属小中学校の敷地から北側、和歌山県立博物館および近代美術館が建つ付近が城域とされる。
遺構は存在しないが、一帯は周辺の道路よりも高所にあって丘城の様相を窺わせる。

同地は1585年に羽柴秀長が居城(吹上城)を築いた「吹上の峰」の一部であり、城はそれ以前に廃城になったものと思われる。
また、吹上の峰一帯は和歌山城築城の際に三の丸として取り込まれている。 続きを読む