月別アーカイブ: 2017年10月

高柳城(岡山県岡山市)

高柳城

松田氏居城・富山城の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、応仁・文明年間の築城と考えられる。

1467年、松田元隆は富山城を攻めて富山長頼を自害させると、富山城を改修して居城とした。
それに合わせて周囲に支城網を形成し、高柳城には中島左馬頭が入城。
松田氏は1483年に居城を金川城に移しており、高柳城がいつ頃まで存続したのかは不明。

岡山科学技術専門学校高柳校舎の東側、住宅地および駐車場付近が城域とされる。
遺構は存在しないが、城域を囲うようにして水路が巡っている。 続きを読む

石山城 / 岡山城(岡山県岡山市)

岡山城

金光氏・宇喜多氏の居城、後に岡山藩の藩庁。
正平年間、上神高直による築城。

南北朝時代に名和氏の一族・上神高直が「石山台」に城を築いたことが始まりとされる。
戦国期には金光氏の居城となり、1570年に宇喜多直家が金光宗高を謀殺して以降は宇喜多氏の支配下となる。
宇喜多直家は1573年に亀山城から居城を移し、福岡など備前国内の商業地から商人を呼び寄せて城下町を形成。
直家の死後、嫡男・宇喜多秀家が57万石に及ぶ遺領を継承すると8年に渡る大改修を行ない、近世城郭へと発展した。
1600年、関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が改易となると小早川秀秋が52万石で入領。
しかし、その2年後に秀秋の急死によって小早川氏は断絶。
1603年、池田忠継が28万石で入領して岡山藩を立藩した。
1621年、鳥取に国替えとなった池田光仲に代わり、池田氏宗家・池田光政が入領。
以降、10代に渡って池田氏宗家が同地を治め、明治維新を迎えた。

旭川流域の小高い丘上に建つ梯郭式の平山城。
旭川とその支流によって形成されたデルタ地帯に連なる丘(石山・岡山)に位置する。
築城当初は石山に城が築かれていたが(石山城)、宇喜多秀家の代に岡山に本丸を設けて石山城を取り込む形で城を拡張。
主要部である本丸・二之丸内郭(石山城本丸)・西之丸(石山城二之丸)を内堀で囲み、その西側に二之丸・三之丸を配置した。
本丸には高石垣が築かれ、その内部は本段・中の段・下の段に分かれた構造を持つ。
本段の北端に4重6階の複合式望楼型天守が建てられた。
本丸の北側から東側にかけては旭川を付け替えて堀としており、南側には西国街道を通して城下町を拡大整備。
小早川秀秋の代には三之丸の外側に三之外曲輪の整備して城下町のさらなる拡大が行なわれ、元禄時代の絵図によるとその規模は南北3.5km、東西1.3kmに及んだとされる。
元和年間の池田忠雄の代に本丸中の段が拡張され、表書院を建設。
その頃に岡山城の縄張りは完成し、建物は本丸に天守と3棟の御殿、3層以上の高層櫓9棟、2層の櫓11棟、8ヶ所の櫓門があったとされる。

1873年の廃城令によって建物の取り壊しや堀の埋め立てが進められ、1882年には天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門を残すのみとなる。
1931年に天守が、1933年に月見櫓・西之丸西手櫓・石山門が国宝(旧国宝)に指定。
しかし、1945年6月29日の岡山空襲で天守・石山門は焼失した。
1950年、文化財保護法の施行によって月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定される。
1966年に天守が鉄筋コンクリート造の外観復元で再建され、それと同時に不明門・廊下門・六十一雁木上門・塀の一部が再建された。
1987年、『岡山城跡』として国史跡に指定。
2006年、日本100名城に選定された。
黒漆塗の下見板が張られた外観から、別名を『烏城』と呼ばれる。 続きを読む

網掛城(兵庫県丹波篠山市)

網掛城

八上城の戦いにおける織田方の付城のひとつ。
1578年、明智光秀による築城。

元は在地土豪・難波氏の居城があったとされるが、難波氏時代の詳細は不明。
1577年から始まった織田氏による八上城攻めに際し、波多野氏の有力被官・井関氏が籠城する吹城を攻めるために築城された。
八上城の落城に伴って役目を終え、廃城になったものと思われる。

丹波篠山市立四季の森生涯学習センターの東にある丘陵上に位置する丘城。
吹城と対面する東側の尾根筋に沿って主曲輪と思われる細長い平削地が見られ、西端には僅かに堀切の痕が確認できる。
主曲輪の周囲に帯曲輪があるとされるも、現在は崩落してほとんど状態を確認することはできない。
難波氏の時代には八上城の西の守りを担っていたと考えられる。
そのことから城域は西側に展開されていたものと推測されるが、西側に続く尾根筋には城郭遺構は見られない。 続きを読む

三田城 / 三田陣屋(兵庫県三田市)

三田城

有馬氏代々の居城、後に三田藩の藩庁。
詳しい時期は不明だが、戦国期に有馬村秀による築城とされる。

三田城の成立時期には諸説あるが、東野上城を居城とする有馬氏が同地に勢力を拡げる過程で居城を移したものと考えられる。
有馬氏は赤松則祐の五男・義祐が摂津国有馬郡の地頭となって移り住み、有馬氏を称したことが始まり。
有馬国秀の代に荒木村重の支配下となるも不義の疑いによって自害させられ、有馬氏の嫡流は断絶。
村重の家臣・荒木平太夫重堅が三田城主となった。
1578年に荒木村重が織田氏から離反すると間もなく落城し、織田氏の支配下となる。
1582年、山崎片家が入城。
この頃、山崎氏の家臣・車瀬政右衛門が縄張りを担当したことから「車瀬城」と呼ばれるようになったとされる。(諸説あり)
山崎氏が因幡国若桜3万石に転封となると、有馬氏庶流の有馬重則が入城して有馬氏の旧領を回復。
1620年に有馬豊氏が久留米藩21万石に加増転封となった後、松平重直、次いで九鬼久隆が入領。
以降、九鬼氏13代の居城として明治維新を迎えた。

武庫川の西岸、三田丘陵から張り出した舌状台地上に築かれた丘城。
三田市立三田小学校および兵庫県立有馬高等学校の敷地が城域とされる。
有馬高等学校付近には「古城」の地名が残り、戦国時代のものと思われる遺物が出土。
また、山崎氏の家紋が入った軒瓦が大量に出土したことにより、「古城」付近が中世の城域であったと考えられる。
九鬼氏時代の構造は絵図『三田御館指図』によって明らかにされている。
しかし、小学校の改築工事に伴う発掘調査で絵図と一致しない建物痕が検出されており、複数回に渡る改築が行なわれたものと推測されてる。 続きを読む

篠山城(兵庫県丹波篠山市)

篠山城

篠山藩の藩庁。
1609年、徳川家康の命による天下普請として築城。

1609年、徳川家康は八上城主となった松平康重に対し、大坂城の豊臣家をはじめとする西国の諸大名への抑えとして山陰道の要衝である篠山盆地に新城の築城を命じた。
総奉行に池田輝政が任命され、藤堂高虎の縄張による15ヶ国20大名の助役による天下普請によって6ヶ月の工期で完成。
松平康重は八上城から完成した篠山城に移り、篠山藩を立藩する。
松平庶家が代々の藩主を務めた後、1748年に青山忠朝が亀山藩より5万石で転封。
以降、青山氏6代の居城として明治維新を迎えた。

篠山盆地中央部の丘陵上に築かれた平山城。
中心部に本丸と二の丸を配し、その周囲を内堀と三の丸、さらに外周を外堀で囲んだ輪郭式の構造を持つ。
本丸には天守台が築かれているが、天守は建設されていない。
その理由は、城の構造があまりにも堅固であることを幕府が懸念したためと伝えられている。
二の丸に大書院が建てられ、篠山藩の藩庁として機能。
三の丸の北側・南側・東側には馬出が設けられ、そのうち南側と東側の馬出の土塁と水堀が明瞭に残る。
内堀と外堀、本丸・二の丸の石垣がほぼ完全な状態で残存。
外周は1辺が約400mのほぼ正方形の形状となっている。

1871年に廃城。
1873年より建物の取り壊しが始まるも、二の丸の大書院は旧藩士・安藤直紀の働きかけによって保存され、篠山尋常小学校(篠山小学校)の校舎として利用された。
しかし、1944年に失火によって大書院が焼失。
1954年より国に対して保存活動を行なわれ、1956年に国史跡に指定。
1993年、城下町が兵庫県の景観形成地区に指定。
2000年に二の丸大書院が復元され、内部の一般公開が始まる。
2006年、日本100名城に選定された。 続きを読む

西吹城(兵庫県丹波篠山市)

西吹城

在地の土豪・難波氏の居城。
天文年間、難波佐渡守正存による築城。

難波氏は丹波守護代・内藤氏の影響下にあり、多紀郡の奉行を務めた一族。
1533年に内藤国貞が波多野稙通に敗れて衰退した後、難波正存は西吹に新たな居館を構えて波多野氏に属したとされる。
1557年に波多野晴通が三好氏に降伏すると三好氏の影響下となり、松永長頼に属した。
しかし、1566年に波多野秀治が八上城を奪還すると所領を没収され、没落。
その後に城は使用されることなく、廃城になったとものと思われる。
難波正存の孫にあたる難波伝兵衛は備中高松城主・清水宗治に仕え、1582年に宗治とともに自害したとされる。

西吹公民館の西にある丘陵上に位置する丘城。
丘陵北側の頂部に一辺10m程度の平削地が残り、南辺に低土塁と虎口の痕が見られる。
また、北側の斜面に複数段の帯曲輪が確認できる。
北側斜面を中心として丘陵全体に城郭遺構と思われる地形が見られるも、全体の構造は不明瞭。 続きを読む

三条岡山屋敷(兵庫県芦屋市)

三条岡山屋敷

旧菟原郡三条村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

2008年に実施された三条岡山古墳群の発掘調査にて、古墳に隣接する斜面で中世の屋敷跡が検出された。
その位置関係から、瓦林氏に関係する在地土豪の居館跡と推測される。 続きを読む

鷹尾山城(兵庫県芦屋市)

鷹尾山城

永正年間より勃発した両細川の乱における細川高国方の城砦のひとつ。
1511年、瓦林正頼による築城。

1511年、畿内侵出を進める阿波国の細川澄元に備え、細川高国が瓦林正頼に「鷹尾山の天険」を利用して築城を命じた。
同年、赤松義村が率いる細川澄元軍2万に攻められて落城し、瓦林正頼は伊丹城に撤退。(芦屋河原の合戦)
その1ヶ月後、船岡山合戦で高国方が勝利したことで赤松義村は兵を引き、瓦林正頼が鷹尾山城を回復。
新たに越水城を築城して本城とし、鷹尾山城には家臣の鈴木与次郎が入城した。
その後の記録は残っておらず、瓦林正頼が謀反の疑いで細川高国に自害を命じられた1520年には廃城になったと思われる。

芦屋市と神戸市の市境近く、城山(標高262.1m)の山頂に築かれた山城。
尾根筋に150m程に渡って複数の曲輪が展開された連郭式の構造で、主に山頂部の主曲輪と南東の副曲輪に分かれる。
主曲輪は南北にそれぞれ30m程度の曲輪と、それを連結する細長い曲輪で構成される。
南の主曲輪にはNHK神戸放送局とサンテレビジョンの放送設備が設置されて大きく改変されているが、西側に展望が開けた平削地の南北に虎口の痕跡が残る。
北の主曲輪には放送用のアンテナが建つ。
南北を繋ぐ曲輪には二筋の土塁が細長く築かれ、その中央と東側に空堀、西側に帯曲輪が形成される。
南東の副曲輪は南側に展望が開けており、海沿いを監視する出城であったと考えられる。
城域の後方には城の名称の由来となった鷹尾山(標高271.8m)があるが、城郭遺構は確認できていない。

城域は鷹尾山のハイキングコースとなっており、副曲輪の堀と主曲輪の土塁の一部がハイキングコースに利用される。
また、所々に見られる石垣は戦時中に同地に築かれた高射砲観測塔の石塁跡と思われる。 続きを読む

尼崎藩丸島新田台場(兵庫県尼崎市)

尼崎藩丸島新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1863年、尼崎藩が武庫川沿いの丸島新田に築造。

丸島新田は平左衛門新田とも呼ばれ、平左衛門という人物が西新田村と鳴尾村の草刈り場であった土地を開発。
詳しい位置は不明だが、当時の海岸線と尼崎藩のその他の台場との位置関係から日本ヒューム株式会社の工場敷地付近と推定される。 続きを読む

芦屋城(鷹尾城)(兵庫県芦屋市)

芦屋城

永正年間より勃発した両細川の乱における細川高国方の城砦のひとつ。
1511年、瓦林正頼による築城。

1511年、細川高国は阿波国の細川澄元の畿内侵出に備えるため、瓦林正頼に命じて「鷹尾山の天険」に鷹尾山城を築城。
その山麓に「外城」を築いた。
同年、赤松義村が率いる細川澄元軍2万に攻められて落城。(芦屋河原の合戦)
瓦林正頼は鷹尾山城を放棄し、伊丹城に撤退した。

鷹尾山城の築かれた城山の南東、麓に広がる住宅地内に位置する。
近年の発掘調査で礎石建物痕が検出されたが、同時代の遺構であるかは不明。 続きを読む

小松城(兵庫県西宮市)

小松城

平重盛の居城。
1168年、平清盛による築城とされる。

平清盛が福原に別荘(雪見御所)を造営することに伴い、自身の荘園がある小松荘に嫡男・平重盛の邸宅を築城。
重盛は1171年から1174年まで同地に居住し、同地の地名より「小松内府」と称された。

武庫川の西岸、岡太神社の境内が城域とされる。
かつては神社の南西側に「伏松」と呼ばれる小高い丘があり、その丘上に位置していたとされるが、現在は平地となっており遺構は存在しない。
境内の南東に伝『小松内府平重盛卿』の供養塔が建つ。 続きを読む

長州藩打出陣屋(兵庫県芦屋市)

長州藩打出陣屋

大坂湾防衛のために設置された陣屋のひとつ。
1861年、幕府より西宮の海岸警備を命じられた長州藩が設置。

1861年、幕府より大坂湾防衛(摂海警衛)を命じられた長州藩は打出浜を見下ろす高台に陣屋を設置。
屋敷の規模は「二町余」あったとされる。
1868年より岡山藩、1869年より尼崎藩が警備を担当し、1869年3月に廃止された。

詳しい位置は不明だが、芦屋翠ケ丘郵便局の付近に推定される。
1868年2月4日に発生した岡山藩とフランス人水兵による銃撃戦(神戸事件)は、岡山藩が明治新政府の命で西宮警備に向かう途上で起こった事件となる。 続きを読む