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タグ別アーカイブ: 越前国
石丸城(福井県福井市)
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青蓮華館(福井県坂井市)
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灯明寺城(福井県福井市)
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丸岡城(福井県坂井市)
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舟橋新村館(福井県福井市)
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内田館(福井県坂井市)
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勝虎城(福井県福井市)
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西光寺城(福井県坂井市)
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河合城(福井県福井市)
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藤島城(福井県福井市)
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長崎城(長崎道場)(福井県坂井市)
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高木城(福井県福井市)
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黒丸城(大黒丸城)(福井県福井市)
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西堀館(福井県福井市)
旧吉田郡西堀村にあったとされる城館。
蟹将監の居館と伝わるが、活動時期および人物の詳細は不明。
福井市立西藤島小学校の北西、天満宮および児童館が建つ位置から南側の住宅地一帯が城域とされる。
城域の北側には川が流れ、東辺に直線的な水路が見られる。
「30間(約54m)四方」の規模の居館であったとされる。 続きを読む
福井城(福井県福井市)
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黒丸城(小黒丸城)(福井県福井市)
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佐野館(福井県福井市)
朝倉氏被官・佐野氏の居館。
佐野氏は越前国坂井郡佐野の在地土豪と思われるが、詳細は不明。
国道416号線と県道3号線および10号線の交差点を南西隅に、北側の住宅地一帯が城域とされる。
国道に対して住宅地側が僅かに微高地となっているが、それ以外に城郭遺構を思わせるものはない。
周辺には「垣内」の旧地名が残り、城館を中心に集落が発展していたことが窺える。 続きを読む
中角館(福井県福井市)
朝倉氏被官・乙部氏(南部氏)の居館。
築城時期・築城主は不明。
乙部氏は斯波氏が越前国内に置いた被官13氏の中に名が見られ、古くから坂井郡中角に居館を構えていたと考えられる。
1507年、朝倉宗滴が九頭竜川の戦いで一向一揆勢を破ると、志比庄東部の安定のために当時の当主・乙部勘解由左衛門義綱は藤巻に移された。
その後も乙部氏の本拠は中角館にあったとされるが、1574年初頭に一向一揆勢に攻められて落城。
乙部氏は藤巻に本拠を移した。
えちぜん鉄道中角駅の東側、白山神社境内および南側の住宅地一帯が城域とされる。
九頭竜川と日野川の合流点付近にあり、河合庄の交通の要衝に築かれていた。
地籍図によると堀に囲まれた南北に長い方形居館が確認できるが、現在は宅地化によって遺構は残っていない。
城域の西側には「城屯」の旧地名が残る。 続きを読む
土橋館(福井県福井市)
在地の土豪・宇田氏の居館。
築城時期・築城主は不明だが、城主に「宇田彦太郎」の名が伝わる。
土橋町内にある白山神社および北側一帯が城域とされる。
南北に細長い住宅地のほぼ中央にあり、集落の中心地であったことが窺えるも遺構は確認できない。 続きを読む
林城(福井県福井市)
建武年間において北朝方・斯波高経が築いた「足羽七城」のひとつ。
建武年間、林六郎太夫光明による築城。
足羽七城とは、1338年に北朝方・斯波高経と南朝方・新田義貞の間で発生した藤島の戦いにおける北朝方の城砦群。
新田義貞に府中を奪われた斯波高経は足羽郡に後退し、城砦を築いて義貞勢3万を迎撃。
平泉寺衆徒を自陣に取り込むと攻勢に転じ、灯明寺畷において新田義貞を討ち取った。
JA福井市藤島支店の敷地一帯が城域とされる。
遺構は残っていないが、地籍図によると東館・西館と呼ばれる土塁と堀で囲まれた長方形の曲輪が並んだ構造であったとされる。 続きを読む
北の庄城(福井県福井市)
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金ヶ崎城(福井県敦賀市)
越前国敦賀郡における甲斐氏・朝倉氏の統治拠点。
1181年、平通盛による築城。
1181年に平通盛が築いた「津留賀城」が始まりとされる。
しかし、築城間もなく木曽義仲に攻められ、平通盛は城を放棄した。
1336年には湊川の戦いに敗れた新田義貞が恒良親王・尊良親王を奉じて入城。
越前守護・斯波高経との半年に及ぶ攻防の後、翌年の1337年に高師泰の援軍によって落城。
新田義顕と尊良親王は自害し、恒良親王は逃走中に捕縛された。(金ヶ崎城の戦い)
1338年より越前守護代・甲斐氏の支配下となり、「敦賀城」と呼ばれるようになる。
戦国期には朝倉氏の敦賀統治の拠点として機能。
1570年、織田氏による越前侵攻が始まると、城主・朝倉景恒は降伏勧告を受けて開城した。
その後の城の動向は不明だが、1575年に武藤舜秀が花城山城に入城しており、その頃には廃城になったものと思われる。
敦賀湾に突き出した金ヶ崎山(海抜86m)山上に築かれた山城。
尾根筋に沿って細長く曲輪が連なる連郭式の構造を持つ。
海側に面した尾根に2段からなる主曲輪が配され、最頂部には月見御殿と呼ばれる曲輪跡に残る。
主曲輪から東に向かっては三の木戸・二の木戸・一の木戸と呼ばれる大規模な堀切が明瞭に残り、尾根を断ち切っている。
三の木戸と二の木戸の間の平削地からは焼けた米が出土しており、米蔵があったものと推定される。
また、米蔵の北側斜面には少なくとも5~6段の帯状の曲輪が確認できる。
城内には尊良親王のものと推定される墓があり、南麓に尊良親王を祀った金崎宮が建つ。
1934年、国史跡に指定。 続きを読む
鞠山陣屋(福井県敦賀市)
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小浜藩鴎ヶ崎台場(福井県敦賀市)
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小浜藩州江庵裏の台場(福井県敦賀市)
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小浜藩金ヶ崎台場(福井県敦賀市)
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小浜藩松原台場(福井県敦賀市)
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妙顕寺陣所(織田信長本陣)(福井県敦賀市)
1570年の越前侵攻における織田方の本陣。
1570年、織田信長は朝倉義景討伐のために3万の軍を率いて京を出陣。
朝倉氏領である越前国敦賀郡に侵攻した。
織田方は妙顕寺に本陣を置き、朝倉方の天筒山城と金ヶ崎城を攻撃。
天筒山城が同日、金ヶ崎城が翌日に攻め落とされると、朝倉方は敦賀郡を放棄するかのように木ノ芽峠まで後退する。
しかし、織田氏の同盟者である浅井長政が背後の近江国で挙兵。
その報を受けた織田方は敦賀郡から撤退し、朽木越えで京へと戻った。
妙顕寺は奈良時代創建の日蓮宗の寺院。
825年に気比神宮の別当寺として開創された気比神宮寺が始まりと伝えられ、1294年に日像上人に帰依した神宮寺別当が妙顕寺と改めた。 続きを読む
天筒山城(福井県敦賀市)
越前国敦賀郡における朝倉氏の統治拠点のひとつ。
築城時期・築城主は不明。
鎌倉時代には城が存在したものと思われ、1336年に新田義貞が金ヶ崎城に入城した際、それに対する足利方・斯波高経が天筒山に陣を置いたとされる。
戦国期には朝倉氏の勢力下にあり、金ヶ崎城の支城として機能。
1570年に織田氏による越前侵攻が始まると、寺田采女丞が守将として入城した。
しかし、織田方が敦賀郡に着陣した同日に落城。
その後の城の動向は不明だが、金ヶ崎城と同じく1575年頃には廃城になったものと思われる。
天筒山(標高171m)山上に築かれた山城。
現在、城域は「金ヶ崎公園」として整備されている。
展望台のある広場が主曲輪と考えられ、南北それぞれの下段の平地も曲輪跡と思われる。
また、南東方向に続く尾根筋にも曲輪が連なっているとされる。
そのことから敦賀湾を望む西側だけでなく、東側の防衛にも意識した構造であったことが伺える。
本城である金ヶ崎城とは稜線で繋がっており、その境界に堀切が確認できる。 続きを読む
敦賀城 / 敦賀奉行所(福井県敦賀市)
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小浜藩観世屋町下の台場(福井県敦賀市)
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疋田城(福井県敦賀市)
近江と越前の国境における朝倉氏の防衛拠点。
文明年間、疋壇対馬守久保による築城。
疋壇氏は越前国の大名・朝倉氏の被官。
文明年間に疋壇久保が築城し、以降7代100年余りに渡って疋壇氏が城主を務めた。
1570年、織田氏による越前侵攻によって金ヶ崎城・天筒山城とともに落城。
その後、浅井長政挙兵の報を受けて織田氏が撤退すると城は修復され、栂野三郎右衛門尉景仍が入城した。
1573年に再び織田氏による越前侵攻が始まり、城主・疋田六郎三郎は討死。
城はそのまま廃城となった。
疋田は古くから交通の要衝として重視され、七里半越・新道野越・深坂越・刀根越・柳ヶ瀬越・塩津越・海津越などの近江から越前に向かう複数の街道が合流する位置にある。
城域の一部は西愛発小学校の敷地となって遺構は消滅しており、現在はゲートボール場になっている。
その北側に位置する主曲輪には、遺構が良好な状態で残存。
南辺に10m四方の櫓台が残り、中央に城址碑が建つ。
主曲輪の内部は畑地になっているが曲輪の形状を良好に留めており、石垣を伴う土塁が周囲を囲んでいる。
主曲輪の外側には南側を除く三方に空掘が残り、北辺は大堀切となってさらに北側の曲輪との導線を遮断している。
北側の曲輪は日吉神社付近まで広がっていたと思われる。
疋田城は1573年の廃城とされるも、朝倉氏の城になかった石垣の多用や賤ヶ岳の戦いにおける玄蕃尾城との縄張の類似性が見られる。
そのことから、織田氏による改修があったとも考えられえている。 続きを読む
小浜藩茶町台場(福井県敦賀市)
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花城山城(福井県敦賀市)
天正年間前期における越前国敦賀郡の統治拠点。
築城時期・築城主は不明。
同地にいつ頃から城が存在したかは不明だが、1570年の織田信長による越前侵攻の際に織田方が陣を置いている。
1575年に武藤舜秀が入城し、敦賀郡の統治拠点とした。
武藤舜秀が1579年に有岡城攻めの陣中で急死すると、蜂屋頼隆が敦賀郡に入領。
1583年に敦賀城が完成したことで、花城山城は廃城となった。
井の口川の河口付近に位置する丘城。
敦賀の平野部の北西端にあり、敦賀湾一帯を見渡す位置にある。
城域は整備されておらず、頂部は後世に切り崩されたものと思われる。
遺構の確認は困難だが、所々に竪堀や横堀を確認することができる。 続きを読む
大野城(福井県大野市)
金森長近の居城、後に大野藩の藩庁。
1576年、戌山城に代わる居城として金森長近が4年の歳月をかけて築城。
1585年に長近が高山に移って以降は目まぐるしく城主が代わり、1682年に土井利位が入城。
以降、明治維新まで土井氏の居城となる。
城は1774年に焼失し、1795年に天守を除いて再建される。
明治維新後に廃城。
1968年、鉄筋コンクリート製の復興天守として再建。
焼失前の天守は2重3階の望楼型の大天守と2重2階の小天守および付櫓で構成された複合連結式天守であったが、再建された天守は付櫓の位置に小天守があるなど、当時を再現したものではない。
天守の内部は資料館として利用されている。 続きを読む