日別アーカイブ: 2018年8月14日

出石城(兵庫県豊岡市)

出石城

出石藩の藩庁。
1604年、小出吉英による築城。

1580年、有子山城の山名堯熙が織田氏に降伏し、戦国大名としての但馬山名氏は滅亡。
有子山城には1585年に前野長康、1595年に小出吉政が入城した。
関ヶ原の戦いで小出吉政は西軍に属したものの、東軍に属した弟・小出秀家の功によって6万石の所領を安堵され、出石藩が成立。
1604年、小出吉政の和泉国岸和田藩への転封に伴い、嫡男・小出吉英が出石藩を継承した。
その際、有子山城の山上部分の曲輪および天守を廃し、山麓の曲輪と館のみを居城とするように幕府に申請。
城は『出石城』と命名され、出石藩代々の居城となる。

1696年に9代藩主・小出英及が3歳で死去すると小出氏は無嗣断絶となり、松平忠周が4万8千石で入領。
1706年に松平忠周が信濃国上田藩へ転封となると仙石政明が5万8千石(後に3万石に減封)で入領し、明治維新に至るまで9代に渡って同地を統治した。

有子山の北西山麓に築かれた平山城。
主要部は最上段の稲荷曲輪から雛壇状に曲輪が展開され、本丸・二の丸・下曲輪と続く梯郭式の構造を持つ。
麓には谷山川を隔てた正面の平地に三の丸、主要部の西側下に西の丸が展開され、三の丸は川と水堀で囲まれていた。
また、本丸の東側には東西に細長い山里曲輪が配されている。
築城当時より天守は存在せず、本丸の四隅に櫓が建てられていた。
小出氏の統治時代には本丸に藩主邸宅、二の丸に政庁があったが、松平忠周の代に三の丸に対面所を築いて政庁を移している。
小出吉英の代に城下町が整備され、現在の出石の町並みの基礎が形成されたと考えられる。

1871年、廃城。
建物はすべて取り壊されたものの主要部の石垣がほぼ完存し、三ノ丸北辺の水堀が現存する。
1968年、出石町史跡(後に豊岡市史跡)に指定。
同年に本丸東隅櫓および西隅櫓が、1994年には登城橋および登城門が復元された。
三の丸跡には豊岡市役所出石総合支所(旧出石町役場)が建ち、西の丸跡の一部は駐車場になっている。
現存する水堀の周囲は「登城橋河川公園」として整備され、1871年建造の辰鼓楼(元は城主の登城を知らせる太鼓を叩く楼閣、1881年に現在の時計台となる)をシンボルとした観光名所となっている。
1989年に城下町の景観形成に向けた計画が策定され、町並み調査を開始。
城下町に残る歴史的建造物の保存活用活動が展開された。

2017年、有子山城とともに続日本100名城に選定。 続きを読む

小出山本陣屋(兵庫県豊岡市)

小出山本陣屋

幕府旗本・山本小出氏(水上小出氏)の陣屋。
1666年、小出英勝による設置。
山本小出氏は1666年、小出英勝が1千石を分知されて旗本になったことに始まる。

出石藩主・小出吉英の死後、その遺領5万石は長男・吉重が4万5千石で相続し、残りは二男・英本に出石郡2千石(倉見小出氏)、三男・英信に養父郡2千石(大薮小出氏)、四男・英勝に気多郡1千石(山本小出氏)を分知されて旗本小出氏3家が成立。
山本小出氏は気多郡山本・水上・八代中・芝・祢布の5ヶ村に所領を持ち、山本村に陣屋を設置。
明治維新に至るまで、8代に渡って同地を領した。
陣屋は1814年の時点で既に無人であったことが、伊能忠敬の『測量日記』より確認できる。
1749年に水上村の三木氏邸に代官所が設置された際、廃止されたものと思われる。

陣屋があったとされる付近には「御屋敷」の旧地名が伝わる。
しかし、道路拡張によって土地はほとんど消滅し、遺構は特に残っていない。 続きを読む

但馬国府(兵庫県豊岡市)

但馬国府

平安時代における但馬国の国庁(地方政庁)。
804年、出石郡袴狭より国府機能を移転。(諸説あり)

但馬国の国府は当初、袴狭遺跡周辺(豊岡市出石町袴狭)もしくは気多郡内にあったと推定される。
袴狭遺跡からは「国府」と記された木簡や銅鏡、木製祭祀具などが出土しており、初期の国府跡であった可能性が高いと考えられている。
『日本後紀』804年正月の条に「気多郡高田郷に遷す」と記述があり、国府は高田郷(現在の豊岡市日高町祢布)に移転。
少なくとも11世紀頃まで、同地が但馬国の国府として機能した。

1995年に実施された発掘調査にて、豊岡市役所日高総合支所に隣接する健康福祉センターおよびブリヂストンタイヤ但馬営業所の敷地より大型建物の遺構が発見される。
平檜の柱が規則正しく配置された建物や四脚門を持つ築地塀、白磁器や青磁器、墨書土器、陶硯、木簡、漆紙文書などが多数出土した。
政庁や正倉などの中枢建物の遺構は発見されていないものの、同地が但馬国府であったことは確実と考えられる。

現在、国府跡の東側の一部が祢布ヶ森遺跡公園として整備されている。 続きを読む

八田館 / 田辺城(京都府舞鶴市)

田辺城

丹後国守護・一色氏の守護所、のちに田辺藩の藩庁。
1392年、一色満範による築城。(南北朝時代に一色範光が築城したともされる)

1392年、一色満範が丹後国守護に補任された際に守護所として築城。
一色氏は若狭武田氏との抗争を続けながら、1582年まで代々に渡って丹後国守護を務めた。
1578年に織田氏による丹後侵攻が始まり、翌年には丹後守護所と詰城である建部山城が落城。
当主・一色義道は但馬国の山名氏を頼って亡命の途中、中山城で沼田幸兵衛の離反に遭って自害した。
一色氏の没落後、丹後国を制圧した長岡藤孝(細川幽斎)が入城。
丹後守護所のあった加佐郡八田の地名を「田辺」と改めて田辺城を築き、丹後統治の拠点とする。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍1万5千による包囲に対して500の兵で抵抗。
50日間に及ぶ籠城戦の末、後陽成天皇の勅命によって開城した。(田辺城の戦い)

細川氏は関ヶ原の戦い後に豊前国中津33万9千石に転封となり、丹後国には京極高知が12万3千石で入領。
その際、関ヶ原の戦いで焼失した宮津城を再建して本拠を移し、田辺城は城門などを移築した後に破却された。
1622年に京極高知が没すると丹後国は3人の子に分知され、京極高三(京極高知の次男)が田辺を3万5千石で継承して田辺藩が成立。
石垣の修復や櫓の再建が進められ、田辺城は再建された。
1668年に京極氏が但馬国豊岡藩に転封となると、牧野親成が入領。
以降10代に渡って牧野氏の居城となり、明治維新を迎えた。

舞鶴湾に面した平地に建つ平城。
東西を伊佐津川と高野川に囲まれ、北は舞鶴湾に面し、南には湿原が広がっていたとされる。
再建時の絵図によると本丸と二の丸は渦巻き状に展開される渦郭式、その周囲は西側に外曲輪、それ以外の三方を三の丸で囲んだ輪郭式の構造を持つ。
京極高三による再建は二の丸を中心に行なわれており、二の丸の南に御殿、北に二重櫓が建てられたほか、二の丸に2基、三の丸に3基の櫓門が建てられていた。

現在、本丸跡および二の丸跡の一部が『舞鶴公園』として整備されている。
1940年に本丸北西隅の二層櫓が「彰古館」として再建。
1997年には本丸西辺に城門が再建され、内部は田辺城資料館として運営されている。(但し、本来の城門の位置とは異なる)
遺構として本丸内部に天守台石垣と本丸北辺の石垣が現存するほか、JR舞鶴線沿いの二の丸東辺にも石垣の一部が残る。
堀は都市開発によってすべて埋め立てられたものの、一部は幅を狭めた水路として確認することができる。 続きを読む

小出水上代官所(兵庫県豊岡市)

小出水上代官所

幕府旗本・山本小出氏(水上小出氏)の陣屋。
1749年、山本小出氏による設置。

山本小出氏は1666年、小出英勝が気多郡に1千石を分知されて旗本となったことに始まる。
当初は山本村に陣屋が置かれていたが、1749年に同地の代官である三木氏邸に代官所を設置。
以降、明治維新に至るまで山本小出氏の采地陣屋として機能した。

豊岡市立日高東中学校の南、水上公民館の一帯が代官所敷地であったとされる。
舌状台地の先端にあって40m四方程度の広さと推定され、東辺と南辺に石垣が残る。
また、小学校に面する北辺にも石垣の一部が残るほか、僅かながらに堀跡が確認できる。
東辺のスロープ上に「水上代官所跡」の碑が建つ。 続きを読む