月別アーカイブ: 2018年7月

近江国庁(滋賀県大津市)

近江国庁

奈良時代から平安時代における近江国の国庁(地方政庁)。
詳しい時期は不明だが、藤原仲麻呂が近江守を叙任した745年以降の成立と思われる。
発掘調査による検出物より、10世紀末頃まで近江国統治の中心として機能していたと考えられる。

長らくその所在は不明であったが、1935年に米倉二郎(広島大学名誉教授)が学会誌にて栗太郡瀬田町大江(現在の大津市大江三丁目)付近にあると発表。
1963年と1965年の発掘調査で国庁の中枢部が確認され、それが裏付けられることとなる。
大津市大江三丁目と六丁目に渡って所在し、国府全体の広さは8~9町(約872~981m)四方に及ぶ。
国庁はその南端中央部に位置し、四方を築地塀で囲まれた東西2町(約218m)、南北3町(約327m)の広さであったと推測される。
東西28.9m、南北19.3mの基壇上に建つ東西23.1m、南北15.0m規模の正殿を中心に、その左右からは東西の脇殿、北側からは正殿と同規模の後殿の4棟の建物が検出された。
いずれも基壇上に建てられた瓦葺きの礎石建物で、その配置は藤原京や平城京の大極殿・朝堂院の配置に酷似する。

1973年、国史跡に指定。
現在、同地には築地の一部と基壇が復元されている。

近江国庁の発掘調査によって地方政庁としての国庁の中枢部の様子が明らかとなり、中央政庁である平城宮と構造上の類似性がみられること、行政機関として共通する機能を持っていたことも明らかとなった。
その成果は、ほとんど不明のままであった全国の国庁の調査が進められる先駆けとなる。 続きを読む

洲越館(滋賀県彦根市)

洲越館

旧犬上郡須越村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

安食川の西岸、須越町内の光淵寺の東側付近が城域とされる。
遺構は存在しないが、南側に広がる水田に対して集落全体が微高地となっている。 続きを読む

石寺館(滋賀県彦根市)

石寺館

旧愛知郡石寺村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

具体的な位置は不明だが、上石寺公民館付近にあったと考えられる。
背後の荒神山には元亀年間に愛知郡・犬上郡の一揆衆が築いた石寺城(山脇古城山城)があり、それに関連する城館と思われる。 続きを読む

高宮城(滋賀県彦根市)

高宮城

六角氏一門・高宮氏の居城。
1417年、六角信高(高宮信高)による築城。

高宮氏は六角氏頼の三男・六角信高を祖とする一族。
1416年の上杉禅秀の乱に幕府方として従軍した六角信高が、その功によって高宮・大堀・東沼波・西沼波・竹鼻の5ヶ村を与えられて「高宮信高」と名乗ったことが始まり。
戦国期には浅井氏に属し、同じく浅井氏に属する久徳氏と姻戚になるなど勢力を保持する。
1559年、当主・高宮三河守頼勝が久徳左近太夫実時からの六角氏への内応に応じなかったため、高宮城は六角氏に攻められて落城。
翌年、その報復として浅井氏とともに久徳城を攻めると、高宮城を奪還した。

1570年の姉川の戦いに高宮三河守豊宗(高宮頼勝の子)が参戦するも、敗戦後に犬上郡河内の山間に蟄居。
小谷城落城に際しては高宮宗光(高宮豊宗の弟)とその子・宗久が籠城戦に参加し、宗光は浅井久政に従って討死。
浪人となった高宮宗久は後に徳永昌寿に仕え、関ヶ原の戦いに西軍として参戦したとされる。
また、高宮豊宗の孫にあたる高宮郷宗は京極高次に仕え、大坂夏の陣で討死したと伝えられている。

彦根市立高宮小学校の敷地および高宮幼稚園から高宮寺までの範囲が城域とされる。
遺構は残されていないが、小学校の敷地は微高地となっている。
小学校のグラウンド脇に城址碑が建つ。 続きを読む

上西川館(滋賀県彦根市)

上西川館

在地の土豪・西川氏の居館。
西川氏は佐々木六角氏の被官とされるが、詳しい動向は不明。
1568年に六角氏が織田氏に敗れて観音寺城を放棄した際、西川氏も没落したものと思われる。

彦根市立稲枝北小学校より道路を隔てた西側に広がる水田一帯が城域とされる。
水田の北にある大蔵寺境内に城郭遺構と思われる土盛りが見られるも、城館との関連は不明。 続きを読む

薩摩館(滋賀県彦根市)

薩摩館

旧愛知郡薩摩村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

薩摩町内にある無量寺の境内一帯が城域とされる。
遺構は存在しないが、寺域全体が周囲に比べて微高地となっていることに城館の存在を窺わせる。

『嶋記録』によると今井氏の被官・島新右衛門秀淳の室は薩摩村の中村氏の出身とされ、島秀淳の三男・三郎右衛門が中村氏の養子になったとの記録が残る。
そのことから中村氏は薩摩村の有力者であったと思われ、その居館であった可能性が考えられる。 続きを読む

今村城(滋賀県彦根市)

今村城

在地の土豪・今村帯刀の居城。
詳しい時期は不明だが、戦国時代初期には城館があったものと思われる。

今村帯刀の名は敏満寺の関連文書に見られ、新谷越前守勝虎(1562年の浅井氏による敏満寺攻めで戦死した胡宮神社の神官・新谷伊豆守勝経の子)の室が今村帯刀の娘とされる。
今村帯刀は元は犬上郡小泉村の住人で、同地に移住して今村氏を称したものと思われる。
また、それ以前の城主として「今村西空」の名が確認できる。

開出今町内にある満願寺の南、民家敷地が城域とされる。
犬上川の西岸にあって川に対して微高地になっているものの、周辺は宅地開発されて城郭としての特徴はない。
同城が所在する「開出今」の地名は元は「西空今」であったところ、今村帯刀が移住した際に「開出今」に変えられたとの説がある。 続きを読む

野田山城(滋賀県彦根市)

野田山城

旧犬上郡野田山村にあったとされる丘城。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

野田山公園背後の山中にあるが、民家敷地の奥にあるため立ち入りはできない。
丘陵の先端部にあって街道監視の目的などがあったと考えられるも、山中に遺構は存在しないとされる。 続きを読む

日夏城(滋賀県彦根市)

日夏城

六角氏被官・日夏氏の居城。
南北朝時代、日夏安芸守による築城。

日夏氏は犬上郡日夏荘を本拠とする在地の土豪。
元は荘園の荘官であったが武士化して日夏荘一帯に勢力を拡げ、戦国期に入ると六角氏に属した。
1559年に浅井氏配下の磯野員昌に攻められると、一旦はそれを退けるも後に浅井氏に属する。
当主の日夏越前守は1573年の小谷城落城の際に戦死し、それを境に日夏氏は没落したと考えられる。
居城である日夏城は、1570年に織田信長によって奥山寺が焼き払われた際、同時に落城したものと思われる。

荒神山の北尾根に築かれた山城。
南北約200mに渡って城郭遺構が見られ、北尾根上の北側ピークと南側ピークにそれぞれ曲輪跡が残る。
主曲輪と考えられる北側ピークには10m四方程度の平削地があり、南辺に土塁が明瞭に残る。
南側ピークには60mに渡って細長い平坦地が見られるが、トレッキングコースとの区別は困難。
琵琶湖を臨む西側への眺望がよく、北側ピークより高所にあることから物見台の役目があったと思われる。

荒神山全体がトレッキングコースとして整備されており、日夏城もコース上に位置している。 続きを読む

平流館(滋賀県彦根市)

平流館

旧愛知郡稲里村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

稲里町民会館および隣接する公園が城域とされる。
一帯に「殿屋敷」の旧地名が残り、20年ほど前まで「殿藪」と呼ばれる竹藪があった。
同地は下街道(朝鮮人街道)に近いことから、在地領主による街道監視の目的があったものと推測される。
また、肥田城を本拠とする高野瀬氏に関連した城館とする説もある。 続きを読む

土田館(滋賀県犬上郡多賀町)

土田館

在地の土豪・土田氏の居館。
築城時期は不明だが、城主に「土田甚七」の名が確認できる。

土田集落の北西部、住宅地の一角が城域とされる。
土塁が残存するとされるが、住宅敷地の中にあって確認はできない。
城域とされる区画は西側に水路が流れる微高地にあって曲輪の様相を見せ、その南東にある特徴的な楕円形の区画にも城館の曲輪があったものと思われる。 続きを読む

下西川館(滋賀県彦根市)

下西川館

旧愛知郡西川村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

下西川町内の西福寺付近にあったと考えられる。
同地から南東200mの位置に在地土豪・西川氏の城館があり、西川氏に関連する城館と思われる。 続きを読む

神崎城(甲崎城)(滋賀県彦根市)

甲崎城

佐々木六角氏一族・神崎氏代々の居城。
詳しい時期は不明だが、神崎右近太夫氏高による築城。

『淡海温故録』によると、神崎氏は佐々木頼綱の子孫とされる。
神崎氏高の代に神崎村を領して館を構え、氏高・高昌・昌信・賢昌・昌氏の5代に渡って同地を領した。
六角氏に属して多くの戦に参加しており、応仁の乱では2代当主の神崎高昌が戦死。
1559年には浅井氏配下の磯野員昌に甲崎城を攻められるも、それを退けている。

甲崎集落には城館に関連する地名が集中し、集落の南に「上屋敷」「城屋敷」「中屋敷」、北西に「本拠地」「馬屋」「土居」、西に「下屋敷」「代ノ屋敷」などの旧地名が残る。
また、集落全体が水路で囲われており、それらのことから集落一帯に城館に付随する施設が築かれていたものと推測されている。
地元では、「本拠地」の旧地名が残る畑地を城館跡とする。 続きを読む

日夏泉城(滋賀県彦根市)

日夏泉城

六角氏被官・日夏氏の居城。
詳しい時期は不明だが、日夏氏が同地を領した南北朝時代には城館が存在したと思われる。

日夏氏は犬上郡日夏荘を本拠とする在地の土豪。
元は荘園の荘官であったが次第に武士化し、戦国期には六角氏に属する。
1559年に浅井氏配下の磯野員昌に攻められた後は浅井氏に属し、1573年の小谷城落城の際に浅井氏に殉じた。

荒神山公園の南端にある『妙楽寺古屋敷遺跡』が、日夏氏の平時居館であったと考えられる。
1985年に実施された発掘調査で中世の集落遺構が検出され、石組溝と道路、土塁によって区画割りされた屋敷地に掘立柱建物痕と川に面した石段などが確認された。 続きを読む

荒神山城(滋賀県彦根市)

荒神山城

六角氏被官・日夏氏に関連する城砦。
詳しい時期は不明だが、日夏氏は南北朝時代に同地を領して荒神山に居城を築いている。

荒神山(標高284m)の山頂に築かれた山城。
荒神山神社を南端とし、尾根伝いに北に向かって100mほどの範囲が城域と考えられている。
神社の周辺には数段の平坦地と石積みの痕が見られるが、城郭遺構であるかは不明。
また、地形的には神社北方の荒神山古墳も城の一部であった可能性が高いと思われる。 続きを読む

中川館(滋賀県彦根市)

中川館

旧愛知郡下岡部村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

下岡部町内の東福寺および北西の水田一帯が城域とされる。
東福寺を中心とした集落全体が文禄川と水路に囲まれ、この地域は「中川」と呼ばれていた。
文禄川を隔てた西側に対して、集落全体が微高地となっていることが確認できる。
同地から南に300mの位置に在地土豪・西川氏の城館があり、西川氏に関連する城館の可能性も考えられる。 続きを読む

甘露城(滋賀県彦根市)

甘露城

河瀬氏の支城のひとつ。
南北朝時代、河瀬大和守高秀による築城。

河瀬氏は河瀬城を拠点に犬上郡に大きな勢力を持つ一族。
元は荘園の荘官であったが武士化して勢力を拡げ、中世末期には大神主として多賀大社の実権を握っていた。
本城である河瀬城の築城ととともに蓮台寺城・甘露城・大宇城を築いて支城網を形成し、戦国期の甘露城の城主として「河瀬大和守秀宗」の名が確認できる。

願宗寺の東に「城」の旧地名が残る。
かつては土塁が残っていたとされるが現在は宅地化されており、堀跡と思われる水路に城の名残を留める。
付近の甘呂神社境内には城主の名が刻まれた碑が建つ。 続きを読む

猿萩氏館(滋賀県犬上郡多賀町)

猿萩氏館

在地の土豪・猿萩氏(猿木氏)の居館。
築城時期は不明。

猿萩氏は古くから同地を領した一族で、興福寺領猿萩荘を管理していた。
荘園領主として「猿萩左近大夫」の名が見られるほか、戦国期には「猿萩左衛門尉宗行」の名が確認できる。
その子孫は細川氏に仕え、熊本藩士として存続した。

多賀町猿木の中心部、西光寺および猿木神社付近にあったとされる。
猿木神社は猿萩氏の祖先によって創建されたと伝わり、猿萩氏の氏神として、1516年に猿萩宗行が死去して以降は猿木村の氏神として崇敬された。 続きを読む

石寺城(山脇古城山城)(滋賀県彦根市)

山脇古城山城

元亀年間の織田氏と石山本願寺の抗争(石山合戦)における本願寺方の城砦。
1570年、愛知郡・犬上郡の一揆衆による築城。

1570年に織田氏と石山本願寺の間に抗争が勃発すると、本願寺宗主・顕如は各地の門徒に号令。
近江国内では浅井氏および六角氏の残党に門徒が呼応し、愛知郡・犬上郡では石寺に城砦を築いて織田氏に対抗したとされる。

荒神山の西尾根にあたる石寺山(標高190m)山頂に築かれた山城。
同地は「古城」と呼ばれることから、一揆衆が築いた城砦と関連付けられている。
山頂は20m四方の平削地となり、西側に土塁が見られる。
また、北側と南側にも平削地が見られることから南北に曲輪が連なっていたものと考えられる。
荒神山へと向かう尾根上に土橋状の地形が見られるも、城郭遺構であるかは不明。 続きを読む

山崎砦(大阪府三島郡島本町)

山崎砦

山崎の戦いにおける明智光秀方の城砦のひとつ。
同地は西国街道から山崎の集落に入る位置にあり、それ以前から城砦が存在していたかは不明。

本能寺の変で織田信長・信忠父子を討った明智光秀は、西国への備えとして山城・摂津国境にある山崎で防備を固めた。
しかし、羽柴秀吉が摂津国富田に到着した報を受けると戦線を後退。
開戦の前夜、山崎は羽柴方の中川清秀・高山友照らに占拠された。

西国街道が貫く山崎集落の東西に築かれた黒門のうち、西黒門付近にあったとされる。
開戦時には明智方は東黒門まで後退しており、西黒門は羽柴秀吉方の高山友照が占拠して門を閉めたとされる。
街道沿いの自動販売機近くに、近年まで門の礎石が残っていたといわれる。 続きを読む

加納藩佐太陣屋(大阪府守口市)

加納藩佐太陣屋

加納藩の河内国における采地陣屋。
貞享年間、永井伊賀守直敬による設置。

1658年、徳川家綱の小姓であった永井尚庸(淀藩主・永井尚政の三男)は河内国内に2万石を領して大名となり、後に二男の永井直敬が継承。
永井直敬は渚にあった永井氏の陣屋を佐太に移転し、摂津・河内両国における所領を管理する采地陣屋とした。
その子孫が転封を重ねて美濃国加納藩主となった後も、佐太には1万2000石の所領が残されて明治維新まで存続し、陣屋は加納藩の大坂蔵屋敷の役割を兼ねていたとされる。

佐太老人福祉センターの敷地一帯が城域とされる。
駐車場の北側から東側にかけてL字状に積まれた石垣は陣屋のものとされるが、石材を転用して積み直されたもの。
また、施設の入口のスロープは枡形の名残とされる。 続きを読む

水無瀬殿(大阪府三島郡島本町)

水無瀬殿

後鳥羽上皇の離宮。
1199年、後鳥羽上皇による造営。

後鳥羽上皇が避暑のために造営した離宮。
庭には北白川から取り寄せた砂が敷かれ、川の水を引いて造られた池に築山から滝を落とす贅を尽くした華やかなものであったとされる。
しかし、「大風洪水」によって殿舎が流出し、1217年に山上に再建された。
後鳥羽上皇は承久の乱の後に隠岐に流されて同地で没し、離宮跡地には1240年に遺勅によって水無瀬信成・親成親子が御影堂を建立した。

御影堂は明治時代に神式に改められた後、1939年に官幣大社に列格して『水無瀬神宮』と改称されて現在に至る。
境内には名水百選に選ばれた「離宮の水」が湧き出ている。
また、2014年に実施された発掘調査で、再建後の水無瀬離宮の庭園跡と考えられる遺構が見つかっている。 続きを読む

山崎関(大阪府三島郡島本町)

山崎関

摂津国と山城国の境にあった古代の関所。
設置時期は不明。

山崎の地は淀川と天王山に挟まれ、西国街道による陸路と淀川の水運を繋ぐ古くからの交通の要衝。
摂津国と山城国(山背国)の境にあって、古代には関所が設けられた。
平安時代の初め、嵯峨天皇の河陽離宮造営の頃に廃止された。

同地は現在も大阪府と京都府の県境となっており、跡地には関大明神社が建つ。 続きを読む

森口城(守口城)(大阪府守口市)

森口城

旧茨田郡森口にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は不明。

城がいつ頃から存在していたかは不明だが、1351年に南朝の土屋宗直が書いた『土屋宗直軍忠状』に「守口陣」の記述が見られることが史料上の初出となる。
1399年に起こった応永の乱では、大内義弘配下の杉九郎が入城。
元亀・天正年間の石山合戦では、織田方の明智光秀が同地に城砦を築いていることが確認できる。

森口城の位置には諸説あるが、「守口市浜町」「守口市土居町」の何れかとされる。
守口市浜町とした場合、大阪メトロ守口駅近くの難宗寺付近が主曲輪、その北側の盛泉寺付近が副曲輪と考えられる。
同地には近世に守口宿があり、東海道五十七次の最後の宿場町となる。 続きを読む

森口表砦(大日砦)(大阪府守口市)

大日砦

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

森口表の白山神社に砦を築き、鈴木飛騨守重幸が守備した。
石山本願寺の51ある支城の最東端にあり、淀川南岸を防衛する支城網の最前線を担っていたと考えられる。

近畿自動車道守口JCTの北東付近、国道1号線沿いにあったとされる。
同地には数十年前まで藤森社が建っていたが現在は開発が進み、一帯は住宅地となって遺構は存在しない。 続きを読む