日別アーカイブ: 2018年6月3日

綾部陣屋(後期綾部陣屋)(京都府綾部市)

後期綾部陣屋

綾部藩の藩庁。
1651年、九鬼隆季による設置。

1633年、九鬼隆季に丹波国綾部2万石が与えられて綾部藩が成立。
1650年に成立当時の陣屋が火災で全焼すると、翌年に当初の位置から南の高所に位置する丸山(本宮山)西麓に陣屋を再建した。
以降、明治維新に至るまで10代の渡って九鬼氏の居城となる。

綾部市立綾部小学校付近に主要部があり、その南北に陣屋の敷地が広がっていた。
中世の綾部城跡地であるせんだん苑こども園の西側道路脇に「綾部城大手門跡」の案内板が建ち、綾部城の敷地を取り込んで拡張されたものと考えられる。 続きを読む

綾部城(京都府綾部市)

綾部城

波多野七頭・江田氏の居城。
1565年、江田兵庫頭行範による築城。

江田氏は新田氏の一族で、南北朝時代に江田行義が新田義貞の挙兵に従って丹波国へ派遣された後、その子孫が丹波国何鹿郡に土着。
室町時代に入ると細川氏、後に波多野氏に従った。
江田行範は波多野七頭に数えられる人物で、綾部城を築城して同地を支配。
織田氏の丹波国侵攻に対しては八上城に入って波多野氏とともに抵抗するも、1579年に八上城で討死。
綾部城も羽柴秀長に攻められて開城した。

せんだん苑こども園および綾部市立綾部幼稚園の敷地が城域とされる。
東側に由良川と丸山(本宮山)、西側に甲ヶ岳山を臨む谷筋にあり、周辺は市街地化されているものの丘城の様相を残している。
こども園の西側道路脇に「綾部城大手門跡」の案内板が建つ。
但し、これは江戸時代に成立した綾部陣屋のものと考えられる。 続きを読む

手白山城(前田愛宕山城)(京都府福知山市)

手白山城

在地の土豪・芦田氏の居城。
芦田甲斐守による築城とされるが、詳しい時期は不明。

芦田氏の名は天田郡六人部庄宮村の住人に見られ、芦田甲斐守はその一族と推察される。
その子孫は永正年間に発生した手白山合戦を境に没落したと伝わるも、詳しい動向は不明。

手白山(愛宕山、標高55m)に築かれた丘城。
丘頂部に南北120m、東西80mほどの平坦地があり、北辺と東辺に低土塁が残る。
北辺の土塁は東西方向に40mほどに渡って明瞭な形で残存しており、中央付近に平虎口が見られる。
東辺の土塁は一部しか残存していないものの何度かの折れが確認され、虎口を形成していたことが伺える。
また、北辺・東辺ともに土塁の外側は切岸となり、急斜面となって麓に至る。

城域に建つ愛宕神社は1612年に初代福知山藩主・有馬豊氏によって創建されて以降、福知山藩の代々の藩主から篤い崇敬を受けていた。 続きを読む

高津城(京都府綾部市)

高津城

在地の土豪・大槻氏の本城。
1349年、大槻左京進清三による築城。

大槻氏は丹波国何鹿郡西部に強い勢力を持った一族。
高城・丸山城・栗城など多くの城を築いて何鹿郡内に勢力を拡げ、高津城は高城主・大槻清宗の養子である大槻左京進清三が高津荘を領して同地に城を築いたことが始まり。
文明年間の城主に大槻豊前守盛雅の名が見られ、1489年に位田晴定が丹波守護代・上原元秀に対して起こした叛乱(位田の乱)に荻野氏・須知氏らとともに参加している。
1574年、明智光秀に攻められて落城。
大槻氏は衰退し、一説には江戸時代に帰農したともいわれる。

高津八幡宮の背後、八幡山(標高150m)頂部に築かれた山城。
南北に伸びる山頂部の主曲輪と西に派生した尾根上の西曲輪で構成され、それぞれに土塁と堀切、多くの段曲輪の跡が良好に残る。
主曲輪は最頂部を中心に南に100m、西に80mほどのL字状に曲輪が配され、その中心は40m四方の平坦地の中にさらに25m四方の高台があることから頂部が大きく平削されていることが伺える。
南側には深さ6mほどの切岸が見られ、その先には最頂部と同程度の曲輪が設けられている。
西側は2段の曲輪の西端が掘切で断ち切られ、その先は自然地形の尾根を挟んで西曲輪へと続く。
西曲輪は主曲輪から続く尾根上に約100mに渡って5段の曲輪が連なり、尾根先端には横堀と土塁で囲まれた50mほどの円形の曲輪が見られる。
主曲輪の東端から西曲輪の西端まで、その規模は東西300mに及ぶ大規模なものとなる。

別名を『高津八幡山城』。
高津城の西側には谷筋を挟んで数多くの出城が築かれており、大槻氏の勢力の大きさを伺い知ることができる。 続きを読む

石原城(京都府福知山市)

石原城

在地の土豪・大槻氏の居城のひとつ。
天文年間、大槻安芸守政治による築城。

大槻氏は丹波国何鹿郡西部に強い勢力を持った一族。
天文年間に高津城主・大槻政治が隠居城として築城し、「洞玄」と名乗って同地に移り住んだ。
その死後は荒廃したが、1587年に大槻政治の弟が政治の菩提を弔うため、跡地に洞玄寺を創建したと伝えられる。

JR石原駅から南西に約300mの位置にあり、城域には現在も洞玄寺が建つ。
寺域の南辺に幅30mに渡って高さ5mの土塁と空堀が現存。
南辺の東西端から北に向かって土塁が延びていることから、当時は北辺を除く三方に土塁があったものと考えられる。

2007年、福知山市指定文化財(史跡)となった。 続きを読む

猪崎城(京都府福知山市)

猪崎城

在地の土豪・塩見氏の本城。
時期は不明だが、塩見大膳頼勝による築城。

塩見氏は丹波国天田郡一帯に勢力を持った一族。
小笠原源太氏信が戦功によって足利尊氏から天田郡に領地を賜り、8代・頼勝が塩見氏を称したことが始まりとされる。
塩見頼勝は猪崎城を築いて本拠とし、嫡男(横山頼氏)を横山城、二男(奈賀山長員)を中山城、四男(和久長利)を和久城、五男(牧利明)を牧城に配して天田郡一帯に勢力を拡大。
戦国期には細川氏に従って各地を転戦し、細川高国が敗死した1531年の大物崩れに至る一連の戦にも参戦している。
後に、猪崎城は三男の塩見利勝に譲られた。

1579年、明智光秀に攻められて落城。
横山城・和久城・中山城が次々と落城したことで、塩見播磨守家利(塩見利勝の子)は自ら城に火を放って逃亡。
しかし、逃亡中に川北周辺で明智方の林半四郎に討ち取られたといわれる。

由良川に面した城山(標高65m)に築かれた丘城。
最頂部の主曲輪を中心に、東西方向に複数の段曲輪が設けられた構造を持つ。
主曲輪には60m四方程度の円形の平坦地が残り、その周囲は西側を除く三方に土塁を伴う空堀が設けられている。
主曲輪の西には2段の帯曲輪があり、上段は南北50m・東西10m、下段は南北70m・東西15mほどの何れも細長い平坦地が良好に残る。
主曲輪の東には北東方向に60mに渡って幅20~30mほどの3段の曲輪が連なる。
また、主曲輪の南にも小曲輪が見られ、城域の外周は東側を除く三方が深い切岸となっている。

現在、城域全体が城山公園として整備。
土師川と合流した由良川が北西に流路を変える天然の要害にあり、由良川を挟んだ南岸に京から丹後・但馬へと通じる街道を臨む陸水交通の要衝に位置する。 続きを読む

中村城(京都府福知山市)

中村城

猪崎城の支城のひとつ。
塩見播磨守義近による築城と伝わるが、詳しい時期は不明。

塩見義近は嘉吉の乱を起こした赤松満祐の遺児とされ、栗城主・大槻佐渡守の女を娶って「塩見播磨守義近」を名乗ったと伝わる。
但し、塩見義近が後に天田郡一帯に勢力を持った塩見氏と関連があるかは不明。
戦国期には横山城主・塩見頼氏(横山頼氏)の子が入城し、本城である猪崎城の支城網の一角を担った。
1579年に横山城が明智光秀に攻められて落城した際、同時期に落城したものと思われる。

中集落の背後、猪崎城から北に向かって続く丘陵の北端に築かれた丘城。
南北100mに渡って細長く曲輪が連なり、大きく南曲輪・主曲輪・北曲輪で構成される。
南曲輪は全体が土塁で囲われ、南辺には虎口が設けられている。
土塁の外側には空堀が明瞭に残り、東辺の堀底には障子堀を思わせる凹凸が確認できる。
主曲輪は内部が2段になり、南曲輪と同じく全体が土塁で囲われた構造。
南辺と東辺の土塁は高く、特に南辺は城域全体のほぼ中央にあって厚く形成されていることから、櫓台の可能性が考えられる。
東辺の外側には土塁に沿って空堀が見られ、南北一直線に伸びて南曲輪の東辺へと続く。
主曲輪と南曲輪は大堀切によって遮断され、土塁頂部との高低差は現状においても5m以上に達する。
主曲輪の北側にも大堀切があり、その北側に厚い土塁を隔てて北曲輪が続く。
北曲輪は小規模な段曲輪が3段に渡って連なり、北端は自然地形となって麓に至る。

小規模ながら土塁・虎口・空堀・堀切が効果的に配置された技巧的な構造を持つ城であり、同地を支配した塩見氏の築城技術の高さを伺わせる。 続きを読む

綾部陣屋(前期綾部陣屋)(京都府綾部市)

前期綾部陣屋

綾部藩の藩庁。
1635年、九鬼隆季による設置。

九鬼隆季は鳥羽藩主・九鬼守隆の三男。
守隆の死後、五男・久隆との間で家督相続争いが起こり、久隆に家督相続が認められるも摂津国三田藩3万6000石に減封。
隆季には遺領を分割する形で丹波国綾部2万石が与えられ、綾部藩が成立した。

綾部藩成立当初の陣屋は、現在の京都府立綾部高校東分校付近に設置されていた。
しかし、1650年に火災で全焼し、翌年に移転・再建されている。 続きを読む

横山城 / 福知山城(京都府福知山市)

福知山城

在地の土豪・塩見氏の居城、後に福知山藩の藩庁。
永正年間、塩見大膳頼勝による築城。

元は猪崎城を本城とする塩見氏の支城のひとつ。
天田郡一帯に勢力を拡げた塩見頼勝は由良川と土師川の合流点に城砦(横山城)を築き、嫡男の頼氏(横山頼氏)を配した。
その子・横山信房の代に明智光秀を主将とした織田氏による丹波侵攻が始まり、赤井直正・波多野秀治らと共に抵抗。
一時は明智方を撃退するも1578年に赤井直正が病死すると、翌年に波多野氏の居城・八上城、赤井氏の居城・黒井城が相次いで落城する。
同年に明智方に攻められ、横山信房は自害して横山城は落城。
明智光秀による丹波国平定が達成されると「福知山城」と改められ、城代に藤木権兵衛と明智秀満が置かれた。
1582年に山崎の戦いで明智光秀が敗死すると羽柴秀吉の支配下となり、羽柴秀勝・杉原家次・小野木重勝が城主を努めた。

関ヶ原の戦い後、有馬豊氏が6万石(後に8万石に加増)で入城して福知山藩が成立。
有馬氏の統治下において、現在に残る近世城郭と城下町が完成した。
1620年に有馬豊氏が久留米藩に加増転封されると岡部長盛、次いで稲葉紀通が藩主となり、1649年に松平忠房が4万6000石で入領。
1669年に松平忠房が肥前国島原藩に加増転封された後に朽木稙昌が3万2000石で入領し、以降は明治維新に至るまで200年13代に渡って朽木氏の統治下となった。

由良川と土師川の合流点、西岸の丘陵上に築かれた連郭式の平山城。
丘陵東端の最頂部(標高35m)に本丸を設け、西に向かって二の丸・伯耆丸・内記丸が連なる。
『平面古図』によると、天守は三重四階の大天守の北側に二重二階の小天守が連なる連結式の構造で、南側には菱櫓と連結した建物があった。
本丸と二の丸にはそれぞれ御殿が建てられており、二の丸御殿が政庁の役割を持っていたと思われる。
伯耆丸は有馬豊氏の弟・有馬伯耆守重頼の屋敷があったことから、その名が付けられた。
その他、北側に左門丸・対面丸・大膳丸が配され、城郭全体の規模は東西600m、南北300mに及ぶ。
城下町は南側に武家屋敷、北側に町屋が広がり、由良川沿いには寺町を形成。
城域の西側と南側に外堀が巡らされ、東から北にかけては由良川が流れて天然の堀の役目を果たしていた。

1871年、廃城。
建物の多くは解体・払い下げられ、1887年に二の丸が台地ごと削り取られたほか、堀の大半も埋め立てられた。
1973年より天守の復元計画が進められるも、オイルショックの影響で中断。
1984年に再開されると5億円以上の寄付金を集め、1985年に小天守と続櫓、1986年には大天守が完成した。
復元天守は近世初期の望楼型の外観を忠実に再現した鉄筋コンクリート造によるもので、内部は福知山市郷土資料館となっている。
本丸跡地が福知山城公園、伯耆丸跡地が伯耆丸公園として整備。
現存建造物として福知山市内の明覚寺・法鷲寺・正眼寺・観瀧寺に移築された城門が福知山市重要資料に指定されており、二の丸銅門にあった銅門番所が本丸内に移築されている。
また、天守の西には豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸が残り、現在も豊富に水を湛えている。

福知山城本丸の天守台は野面積みと算木積みを組み合わせて築かれており、宝篋印塔や五輪塔などの石造物(転用石)が大量に使用されていることが特徴。
発掘調査によって現時点で約500点の転用石が検出されており、その多くは塩見氏の城や所縁のあった寺院を破却して集められたと考えられ、『丹波史』には荒木山にあった法興寺や宝積寺から石を集めていたとの伝承が残る。

2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む

坪内城(京都府福知山市)

坪内城

在地の土豪・田淵伝兵衛の居城。
築城時期は不明。

前田集落の北側、水田に面した竹藪内に東西40mに渡って平坦地と土塁と思われる土盛りが見られる。
また、北側の水田は一部が高まった2段の構造になっており、上段の部分までが城域であったと推測される。 続きを読む