![福知山城](https://masakishibata.wordpress.com/wp-content/uploads/2018/06/fukuchiyama_head.jpg?w=625)
在地の土豪・塩見氏の居城、後に福知山藩の藩庁。
永正年間、塩見大膳頼勝による築城。
元は猪崎城を本城とする塩見氏の支城のひとつ。
天田郡一帯に勢力を拡げた塩見頼勝は由良川と土師川の合流点に城砦(横山城)を築き、嫡男の頼氏(横山頼氏)を配した。
その子・横山信房の代に明智光秀を主将とした織田氏による丹波侵攻が始まり、赤井直正・波多野秀治らと共に抵抗。
一時は明智方を撃退するも1578年に赤井直正が病死すると、翌年に波多野氏の居城・八上城、赤井氏の居城・黒井城が相次いで落城する。
同年に明智方に攻められ、横山信房は自害して横山城は落城。
明智光秀による丹波国平定が達成されると「福知山城」と改められ、城代に藤木権兵衛と明智秀満が置かれた。
1582年に山崎の戦いで明智光秀が敗死すると羽柴秀吉の支配下となり、羽柴秀勝・杉原家次・小野木重勝が城主を努めた。
関ヶ原の戦い後、有馬豊氏が6万石(後に8万石に加増)で入城して福知山藩が成立。
有馬氏の統治下において、現在に残る近世城郭と城下町が完成した。
1620年に有馬豊氏が久留米藩に加増転封されると岡部長盛、次いで稲葉紀通が藩主となり、1649年に松平忠房が4万6000石で入領。
1669年に松平忠房が肥前国島原藩に加増転封された後に朽木稙昌が3万2000石で入領し、以降は明治維新に至るまで200年13代に渡って朽木氏の統治下となった。
由良川と土師川の合流点、西岸の丘陵上に築かれた連郭式の平山城。
丘陵東端の最頂部(標高35m)に本丸を設け、西に向かって二の丸・伯耆丸・内記丸が連なる。
『平面古図』によると、天守は三重四階の大天守の北側に二重二階の小天守が連なる連結式の構造で、南側には菱櫓と連結した建物があった。
本丸と二の丸にはそれぞれ御殿が建てられており、二の丸御殿が政庁の役割を持っていたと思われる。
伯耆丸は有馬豊氏の弟・有馬伯耆守重頼の屋敷があったことから、その名が付けられた。
その他、北側に左門丸・対面丸・大膳丸が配され、城郭全体の規模は東西600m、南北300mに及ぶ。
城下町は南側に武家屋敷、北側に町屋が広がり、由良川沿いには寺町を形成。
城域の西側と南側に外堀が巡らされ、東から北にかけては由良川が流れて天然の堀の役目を果たしていた。
1871年、廃城。
建物の多くは解体・払い下げられ、1887年に二の丸が台地ごと削り取られたほか、堀の大半も埋め立てられた。
1973年より天守の復元計画が進められるも、オイルショックの影響で中断。
1984年に再開されると5億円以上の寄付金を集め、1985年に小天守と続櫓、1986年には大天守が完成した。
復元天守は近世初期の望楼型の外観を忠実に再現した鉄筋コンクリート造によるもので、内部は福知山市郷土資料館となっている。
本丸跡地が福知山城公園、伯耆丸跡地が伯耆丸公園として整備。
現存建造物として福知山市内の明覚寺・法鷲寺・正眼寺・観瀧寺に移築された城門が福知山市重要資料に指定されており、二の丸銅門にあった銅門番所が本丸内に移築されている。
また、天守の西には豊磐井(とよいわのい)と呼ばれる井戸が残り、現在も豊富に水を湛えている。
福知山城本丸の天守台は野面積みと算木積みを組み合わせて築かれており、宝篋印塔や五輪塔などの石造物(転用石)が大量に使用されていることが特徴。
発掘調査によって現時点で約500点の転用石が検出されており、その多くは塩見氏の城や所縁のあった寺院を破却して集められたと考えられ、『丹波史』には荒木山にあった法興寺や宝積寺から石を集めていたとの伝承が残る。
2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む →