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末次城 / 松江城(島根県松江市)

松江城

在地領主・末次氏代々の居城、後に松江藩の藩庁。
鎌倉時代前期、末次氏による築城。

末次氏は佐々木氏分流富田氏の庶流で、末次胤清を祖とする一族。
鎌倉時代前期に同地に領して亀田山に城(末次城)を築き、室町時代には山名氏に従って明徳の乱・嘉吉の乱などで功を挙げた。
文明年間には尼子氏に従っていたと思われ、毛利氏との間で末次城の争奪戦が繰り広げられた。
1571年、毛利元就に攻められ落城。
元就の八男・元康が末次氏を継承して「末次元康」を名乗り、末次城に入城した。
1591年に豊臣秀吉の命で末次元康が備後国神辺城に移ったことにより、末次城は廃城になったと思われる。

1600年、堀尾忠氏が関ヶ原の戦いでの功によって出雲・隠岐二国24万石で月山富田城に入城し、松江藩が成立。
1607年より末次城跡地の亀田山に築城が始まり、1611年に月山富田城より藩庁が移された。
堀尾氏が無嗣断絶で改易になると、京極忠高が若狭国小浜藩より出雲・隠岐二国26万石で入領。
京極氏の統治時代に三の丸が造営され、東西360m、南北560m、周囲に幅20~30mの内堀を巡らせた全域が完成した。
1637年には京極氏も無嗣断絶となり、1638年に松平直政が18万6000石で入領。
以降、越前松平氏10代の居城として明治維新に至る。

宍道湖を臨む亀田山(標高29m)に築かれた平山城。
小瀬甫庵の縄張による輪郭連郭複合式の構造で、本丸を中心に北側に出丸(北の丸)、東側から南側にかけて二の丸が囲み、二の丸の南下段に三の丸が配される。
天守は複合式望楼型の地上4重5階・地下1階の構造で本丸地上面より30m(天守台上面からは22.4m)の高さがあり、南側に地下1階を持つ平屋の附櫓が付属。
2重目と4重目は東西棟の入母屋造、二重目の南北面に入母屋破風の出窓が付く。
壁は1重目と2重目は黒塗の下見板張りとなり、3重目と4重目および附櫓は上部を漆喰塗、下部を黒塗下見板張りとしている。
1738年から1743年にかけて大改修が行なわれ、その際に天守が改装されて現在の姿になったと推測される。
本丸跡および二の丸跡には石垣がほぼ完全な状態で残り、特に本丸東面の石垣は高さ13mを誇る。
南面から東面にかけては観光地化されて曲輪と石垣の観察が容易になっているが、西面にも南北に細長い曲輪跡と石垣が残存。
北の丸跡には城山稲荷神社が建ち、三の丸は島根県庁の敷地となっているが堀と曲輪の形状は明瞭に残っている。

1871年、廃藩置県によって廃城。
1873年の廃城令によって天守を除く建造物がすべて撤去され、天守は出雲郡の豪農・勝部本右衛門と元松江藩士・高木権八によって買い戻された。
1927年、天守を含む城域一帯が松平家より松江市に寄贈され、公園として整備。
1934年、国史跡に指定。
1935年に天守が国宝(旧国宝)に指定された後、1950年の文化財保護法の施行に伴って重要文化財に指定された。
1960年に本丸一ノ門と南多聞の一部が復元されたことを始め、1994年に二の丸と三の丸を結ぶ廊下門(千鳥橋)と二の丸下段の北惣門橋、2000年に二の丸南櫓と塀、2001年二の丸中櫓と太鼓櫓と塀が復元された。
松江市では大手門復元に向け、懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探している。
2006年、日本100名城に選定。
2015年、天守としては5件目の事例となる国宝に指定された。 続きを読む

米子城(湊山城)(鳥取県米子市)

米子城

米子藩の藩庁、後に鳥取藩の支城。
1600年、中村一忠による築城。

『出雲私伝』によると1470年に尼子清定に敗れた山名氏が米子城に入ったとされ、応仁の乱の頃には米子城が存在していたことが窺える。(但し、中世の米子城は飯山に築かれていたとする見解が有力)
1600年、中村一忠が関ヶ原の戦いの功により伯耆一国17万5000石で入領し、米子藩が成立。
中海に面した湊山一帯に五重の天守を備えた城郭が築かれ、米子十八町と呼ばれる職人町・商人町の形成、加茂川を外堀とした運河の造成など、現在の米子の町の基礎となる城下町の整備が進められた。
1609年に中村氏が無嗣断絶で改易されると、加藤貞泰が伯耆国内2郡6万石で入領。
1617年、加藤貞泰の大洲転封に伴い、米子藩は廃藩となった。
その後、伯耆一国は鳥取藩・池田光政領となり、米子城には家老の池田由成が城代として駐在。
1632年に池田光政の岡山転封に伴って池田光仲が鳥取藩主となると、家老の荒尾氏が11代に渡って城代を務め、明治維新に至る。

湊山(標高90m)および峰続きの丸山(標高52m)一帯に築かれた平山城。
湊山山頂の本丸を中心に北東方向に二の丸と三の丸、北側の丸山山頂に内膳丸が配置された梯郭式の構造を持ち、中世米子城があった飯山も出丸として利用された。
本丸は日本海と島根半島、中国山地が一望できる位置にあり、天守(大天守)と四重櫓(小天守)、二重櫓、多聞櫓、鉄御門などが置かれた。
1878年に撮影された古写真によると大天守は独立式望楼型4重5階の構造で、2重目に大入母屋破風と千鳥破風、軒唐破風、3重目に入母屋破風と千鳥破風、4重目には軒唐破風が施され、高さは21mあったとされる。
小天守は1591年に同地を領した吉川広家によるものと伝わり、独立式望楼型3重4階の構造を持っていた。
本丸跡は曲輪の形状がほぼ完全な状態で残されており、大天守台と小天守台の石垣のほか、鉄門や北側の遠見櫓跡、東側の番所跡などの石垣が良好な状態で確認できる。
二の丸跡は形状を残したまま大部分がテニスコートとなっており、東側に25m四方の桝形虎口と周囲の石垣が残存。
敷地内には井戸跡が残るほか、荒尾氏家臣・小原家屋敷の長屋門が1953年に移築保存され、1984年まで米子市立山陰歴史館として利用されていた。
三の丸跡は鳥取大学医学部付属病院と米子市営湊山球場の敷地となっており、周囲に土塁状の地形が見られるが城の遺構であるかは不明。
内膳丸は北の峰続きの丸山山頂にあり、南北100mに渡って2段になった細長い曲輪跡と石垣が残る。
城域全体には30棟の櫓と20棟の門が建てられ、周囲の堀には中海から海水が引き入れられていた。

1871年、廃藩置県によって廃城。
米子駐在の士族らに無償で払い下げられるも1879年に民間の手に渡り、すべての建物が撤去された。
1933年、城跡一帯が米子市に寄贈され、公園として整備。
1982年から1984年にかけて石垣の修理が実施され、1988年より始まった発掘調査で船入りの跡などが発見された。
2006年、国史跡に指定。
2017年、続日本100名城に選定された。 続きを読む

龍泉寺城(滋賀県甲賀市)

龍泉寺城

甲賀五十三家・上野氏の居城のひとつ。
室町時代、上野氏による築城。

天正年間に上野四郎景光が居館跡に「景光庵」と名付けた草庵を建てたと伝わることから、それ以前に城館があったものと考えられる。
上野氏は伴氏の一族で伴氏・大原氏・多喜氏とともに伴四党と称され、南山六家のひとつとして同地に大きな勢力を誇った。

油日町内にある龍泉寺の境内一帯が城域とされる。
龍泉寺は臨済宗永源寺派の寺院で、上野景光が阿波国から持ち帰った十一面観世音菩薩像(弘法大師の作と云われる)を安置したことに始まると伝わる。
かつては境内の三方に土塁が残っていたが、現在は西辺から北西にかけて高さ1~2mほどの土塁がL字状に残るに留まる。
北側背後には川が流れ、境内の東側と南側に広がる水田は堀跡と推定される。
龍泉寺境内は東西30m、南北25mほどの規模になるものの、水田と西隣の民家までは城域と捉えた場合は東西60~90m、南北45mほどあったものと考えられる。 続きを読む

木内城(滋賀県甲賀市)

木内城

旧甲賀郡油日村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

油日交差点から県道131号線を東に向かった道路脇の竹薮内に位置する。
30m四方の単郭方形の城館で、南側を除く三方に高さ2mほどの土塁が明瞭に残る。
土塁は幅1mほどの厚みがあり、外側には僅かに堀の痕跡が見られる。
しかし、現状では堀の中は土砂と倒れた竹で埋め尽くされており、実際の深さを知ることは困難。
道路沿いには城址を示す碑が建つ。

甲賀五十三家・上野氏の居城である上野城と龍泉寺城の中間にあり、上野氏に関連する城館であると思われるが資料上の裏付けはない。 続きを読む

西堀館(福井県福井市)

西堀館

旧吉田郡西堀村にあったとされる城館。
蟹将監の居館と伝わるが、活動時期および人物の詳細は不明。

福井市立西藤島小学校の北西、天満宮および児童館が建つ位置から南側の住宅地一帯が城域とされる。
城域の北側には川が流れ、東辺に直線的な水路が見られる。
「30間(約54m)四方」の規模の居館であったとされる。 続きを読む

佐野館(福井県福井市)

佐野館

朝倉氏被官・佐野氏の居館。
佐野氏は越前国坂井郡佐野の在地土豪と思われるが、詳細は不明。

国道416号線と県道3号線および10号線の交差点を南西隅に、北側の住宅地一帯が城域とされる。
国道に対して住宅地側が僅かに微高地となっているが、それ以外に城郭遺構を思わせるものはない。
周辺には「垣内」の旧地名が残り、城館を中心に集落が発展していたことが窺える。 続きを読む

中角館(福井県福井市)

中角館

朝倉氏被官・乙部氏(南部氏)の居館。
築城時期・築城主は不明。

乙部氏は斯波氏が越前国内に置いた被官13氏の中に名が見られ、古くから坂井郡中角に居館を構えていたと考えられる。
1507年、朝倉宗滴が九頭竜川の戦いで一向一揆勢を破ると、志比庄東部の安定のために当時の当主・乙部勘解由左衛門義綱は藤巻に移された。
その後も乙部氏の本拠は中角館にあったとされるが、1574年初頭に一向一揆勢に攻められて落城。
乙部氏は藤巻に本拠を移した。

えちぜん鉄道中角駅の東側、白山神社境内および南側の住宅地一帯が城域とされる。
九頭竜川と日野川の合流点付近にあり、河合庄の交通の要衝に築かれていた。
地籍図によると堀に囲まれた南北に長い方形居館が確認できるが、現在は宅地化によって遺構は残っていない。
城域の西側には「城屯」の旧地名が残る。 続きを読む

土橋館(福井県福井市)

土橋館

在地の土豪・宇田氏の居館。
築城時期・築城主は不明だが、城主に「宇田彦太郎」の名が伝わる。

土橋町内にある白山神社および北側一帯が城域とされる。
南北に細長い住宅地のほぼ中央にあり、集落の中心地であったことが窺えるも遺構は確認できない。 続きを読む

林城(福井県福井市)

林城

建武年間において北朝方・斯波高経が築いた「足羽七城」のひとつ。
建武年間、林六郎太夫光明による築城。

足羽七城とは、1338年に北朝方・斯波高経と南朝方・新田義貞の間で発生した藤島の戦いにおける北朝方の城砦群。
新田義貞に府中を奪われた斯波高経は足羽郡に後退し、城砦を築いて義貞勢3万を迎撃。
平泉寺衆徒を自陣に取り込むと攻勢に転じ、灯明寺畷において新田義貞を討ち取った。

JA福井市藤島支店の敷地一帯が城域とされる。
遺構は残っていないが、地籍図によると東館・西館と呼ばれる土塁と堀で囲まれた長方形の曲輪が並んだ構造であったとされる。 続きを読む

横関館(滋賀県犬上郡甲良町)

横関館

在地の土豪・横関三河守正資の居館。
横関氏は犬上郡甲良に勢力を持った在地土豪。
横関正資は石田三成に仕え、関ヶ原の戦い後に東軍の追討を受けて同地を追われたとされる。

甲良町横関地区の中心部、証得寺および八幡神社の一帯が城域とされる。
遺構は存在しないが、城域の東から南にかけて流れる水路が城の形状を窺わせる。 続きを読む

尼子館(滋賀県犬上郡甲良町)

尼子館

近江尼子氏代々の居館。
詳しい時期は不明だが、尼子高久による築城とされる。

尼子氏は京極高秀の三男・高久を祖とする一族で、犬上郡尼子郷を領して尼子姓を名乗ったことが始まり。
高久の死後、嫡男・尼子詮久が尼子郷を継承。(近江尼子氏)
しかし、その子・氏宗の代に戦乱によって尼子館が落城したことで、近江尼子氏は没落したとされる。
尼子高久の二男・持久は出雲守護代に任じられて出雲国に下向し、出雲尼子氏の祖となった。

甲良町尼子地区の南東、県道227号線が通る集落一帯が城域とされる。
近年まで集落内には深い堀跡が残されていたが、宅地造成によって消滅。
現在は堀の一部が「殿城池」として住宅地内に残る。
1988年、滋賀県教育委員会の調査によって玄翁堂裏手より土塁と堀の一部が発見され、尼子館の遺構と判明。
1996年に集落のむらづくり事業の一環として保存・修復され、『尼子土塁公園』として整備された。 続きを読む

下之郷城(滋賀県犬上郡甲良町)

下之郷城

豊後守家多賀氏代々の居城。
1397年、京極高数(京極高員)による築城。

多賀氏は多賀地方の在地土豪で多賀大社の神官を務めた一族だが、その出自には諸説ある。
鎌倉時代に北条得宗家に領地を寄進して関係を強め、犬上郡に大きな勢力を持った。
室町時代に入ると京極氏の被官となり、犬上郡下之郷を拠点とする「豊後守家」と東浅井郡中野に土着した「出雲守家」に分割。
京極氏から豊後守家に入った多賀高忠は侍所所司代として京の治安維持に務め、応仁の乱では東軍として活躍した。
その子孫は高島郡に移った後、江戸時代に加賀藩士として存続している。

桂城神社の南側一帯にあったとされ、現在はデイサービス施設の敷地となっている。
施設の正面道路沿いに「城」の旧地名が刻まれた石碑が建ち、付近には堀跡を示す碑が建っていたとされる。
以前は集落内に土塁が残っていたが現在は消滅しており、遺構は存在しない。 続きを読む

勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町)

勝楽寺城

佐々木道誉晩年の居城。
1368年、高筑豊後守による築城。

佐々木道誉は1337年に麓の勝楽寺に館を構えて隠棲し、78歳で亡くなるまで同地に居住。
館と領地の守護のため、高筑豊後守に命じて山上に詰めの城を築城した。
天文年間には豊後守家多賀氏が入城し、後に六角氏の管理下となる。
1563年、観音寺騒動に乗じて犬上郡に侵攻した浅井氏の支配下に置かれるも、後に六角氏が奪還している。
1568年、織田信長の上洛軍との戦いにおいて麓の勝楽寺とともに炎上し、そのまま廃城になったものと思われる。

勝楽寺の背後、甲良町と多賀町の境に位置する山城。
尾根伝いに約400mに渡って8つの曲輪が連なる連郭式の構造を持つ。
城域は大きく南北に分かれ、中央の南北150mの細長い曲輪で連結されている。
北側は南を頂部に北に向かって3つの曲輪が配され、最頂部の30m四方の平削地を持つ曲輪が主曲輪と考えられる。
その下段の「見張り台」と呼ばれる曲輪は三方が崖となり、愛知川以北を一望し、五個荘・愛知川・四十九院・高宮の主要道と西側の前衛となる河瀬氏・多賀氏の動向を把握できる位置にあったとされる。
北端は尾根上に50mほどの細長い曲輪が見られ、その先は自然地形となって麓へ続く。
南側は北を頂部に4つの曲輪が配され、最頂部は南北25m、東西15mの主曲輪に次ぐ広さの平削地が確認できる。
その南に幅6~7m程度の小曲輪、女中が暮らした上臈屋敷があったとされる「上臈落とし」と呼ばれる曲輪が続き、東西20mほどの曲輪を南端に自然地形となって尾根に続く。
また、主曲輪から東に伸びる尾根を降りると石垣が見られるが後世のものである可能性が高く、城の遺構であるかは不明。

麓の勝楽寺の山門は上臈屋敷の城門とされ、天明年間に山麓に移築されたと伝わる。
そのことから、勝楽寺城の廃城後も山上には何らかの施設が存在していたことが窺える。 続きを読む

勝楽寺館(滋賀県犬上郡甲良町)

勝楽寺館

佐々木道誉の隠居館。
1337年、室町幕府設立後に隠棲地として築城。

佐々木道誉(佐々木高氏)は足利尊氏に従い、室町幕府の設立に絶大な貢献を果たした人物。
鎌倉幕府執権・北条高時に御相伴衆として仕えていたが、足利尊氏に従って倒幕運動に参加。
室町幕府設立後は政所執事と若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津6ヶ国の守護を兼ねた。
1337年より勝楽寺に館を構えて隠棲し、78歳で亡くなるまで同地に居住した。

現在、城域には勝楽寺が建つ。
勝楽寺は1341年に佐々木道誉が東大寺の雲海和尚を開山として創建した臨済宗の寺院。
道誉の念持仏とされる大日如来坐像、道誉の三男・高秀の画による道誉画像(ともに重要文化財)が伝わり、境内には道誉の墓が建つ。 続きを読む

楢崎城(滋賀県犬上郡多賀町)

楢崎城

六角氏被官・楢崎氏代々の居城。
鎌倉時代、楢崎氏による築城。

楢崎氏は鎌倉時代より犬上郡楢崎を領した一族。
佐々木氏(六角氏)に従って主に軍事の面において活躍したとされ、城主には「楢崎内蔵介」「楢崎太郎左衛門弼高」の名が見られる。
1568年、主家である六角氏が観音寺城を放棄して甲賀郡に逃れると、それに従って同地を離れた。
城はそのときに廃城になったものと思われる。

高源寺の南東、標高180m地点の山中に位置する山城。
山中に建てられた保安用施設の上段に10m四方程度の平削地が見られ、南側の尾根筋は堀切で断ち切られている。
堀切の先のさらに上段に同規模の平削地があり、その先は尾根伝いに山上の勝楽寺城へと通じる。
保安用施設までが城域とも考えられるが、改変が著しいため判別は困難。
山上の勝楽寺城は北の楢崎を大手にしており、楢崎氏が古くから佐々木氏に従っていることから、勝楽寺城の大手を守る出城であった可能性が考えられる。 続きを読む

藤堂虎高屋敷(滋賀県犬上郡甲良町)

藤堂虎高屋敷

在地の土豪・藤堂虎高の居館。
藤堂虎高は鯰江城主・三井乗綱の次男に生まれ、藤堂忠高の養子となって京極氏・浅井氏に仕えた人物。
1595年に二男・藤堂高虎が伊予国板島7万石の大名となると板島に移住し、1599年に同地で没した。

地元伝承によると、下之郷農事集会所の北西にある空き地に藤堂虎高が居住していたと伝わる。
藤堂氏代々の居館は北に約460mの住宅地内に「藤堂高虎公出生地」が伝わり、同地は虎高の隠居屋敷であったと推測される。 続きを読む