六角氏の支城のひとつ。
南北朝時代より、佐々木氏(六角氏)による湖上警備のための拠点として機能。
1508年に足利義澄が京から落ち延びてきた際、それを保護するために六角高頼の命で九里信隆が本格的な城郭として改修した。
九里氏は伊庭氏の被官で、蒲生郡本郷を本拠とした一族。
1510年、室町幕府軍3千に攻められるも撃退。
しかし、翌年に足利義澄は同地で病没した。
義澄の死によって六角高頼と伊庭貞隆の対立が激化すると、伊庭方の九里信隆は1514年に六角高頼に殺害され、城は1520年に落城。
1525年に伊庭氏の残党とともに同地で挙兵するも敗れ、九里氏は滅亡した。
そのときに、城は廃城になったと考えられる。
琵琶湖に接した独立丘陵である岡山(標高102m)山上に築かれた山城。
築城当時は四方を琵琶湖で囲まれた小島であったが、近代に周辺一帯が干拓されて陸続きとなった。
東西方向に曲輪が連なる連郭式の構造で、幅5mほどの大堀切を挟んで土橋で連結された東西ふたつの曲輪を中心に、それぞれの南側に帯曲輪、さらにそれらの周囲を取り囲む帯曲輪で構成される。
城域の北東に巨大な土塁が設けられ、西に位置する主曲輪との間に堀切を形成する。
全体として北側を土塁、南側を深い切岸で防御する構造を持つ。
北麓には複数の平坦地が残存し、発掘調査によって石垣が検出されている。
その規模と構造から、足利義澄を保護するための御殿が建てられていたものと推察される。 続きを読む →