日別アーカイブ: 2016年10月15日

香庄城(滋賀県近江八幡市)

香庄城

香庄氏代々の居城。
築城時期などの詳細は不明だが、城主に「香庄佐渡守頼輔」「香庄源左衛門賢輔」の名が確認できる。

1525年に香庄貞信が朽木稙綱宛に(武田元光から救援要請のあった)六角定頼の丹後出陣は行なわれないことを伝えた書状が残されており、香庄氏が主君・六角氏に近い存在であったことが窺える。

香庄地区にある熊野神社の南側、水田の広がる区画が城域とされる。
城域のすぐ西側を流れる農業用水路は堀の名残と考えられるが、近年の河川改修で周辺の地形は大きく変化しているため、現状から城の状態を推察することは困難と思われる。
付近の住宅地案内板には、熊野神社の南に「香庄城(館)跡」が描かれている。 続きを読む

北之庄城(滋賀県近江八幡市)

北之庄城

六角氏の支城のひとつ。
時期は不明だが、六角定頼が観音寺城の出城として築城したとされる。

八幡山から尾根伝いの北東頂部(標高254m)に位置する山城。
50m四方の主曲輪と、その北側に続く100m四方の副曲輪で構成された副郭式の構造。
いずれの曲輪も周囲を高さ5mほどの厚い土塁で囲われ、主曲輪の南側は深さ5mほどの堀切を設けて尾根筋を断ち切っている。
主曲輪の南北には虎口が設けられ、副曲輪に繋がる北側には枡形が形成される。
また、副曲輪の北側と東側にも虎口が確認できる。
特に東側の虎口は高さ5mほどの土塁で見事な枡形が形成されており、同時期の山城の中でも先進的な構造を持っていたことが窺える。
但し、外部の残存状態に対して曲輪の内部は経年によって削平状態が悪くなっており、整備もされていないためにその構造を把握することは困難。
主曲輪の南側と副曲輪の北西側に櫓台と思われる小さな削平地が確認でき、南側は八幡山から尾根伝いに到達する際の目印となり、北西側は平野部と琵琶湖を一望できる絶好の景観を見せている。

虎口の完成度から後年に織田氏による改修が入ったとも推測されるが、史料から織田氏が同地を利用したことを窺い知ることはできない。
続きを読む

金剛寺城(慈恩寺館)(滋賀県近江八幡市)

金剛寺城

室町時代中期おける佐々木六角氏の本城。
時期は不明だが、六角高頼による築城とされる。

同地以前に六角氏の本城であった金田館に隣接する金剛寺は1469年に戦火で焼失しており、1486年に同地に再建された。
そのため、同時期に本城の機能も移されたものと考えられる。

JR安土駅の南西、浄厳院の西側一帯が城域とされる。
過去に4回の発掘調査が行なわれており、1991年の調査で堀の南辺と北東隅、1993年の調査で堀の東辺と南東隅が確認され、方形単郭の城館であることが判明した。
東辺140m、西辺130m、南北105mの台形の区画を持ち、周囲の堀幅は8mあり、西側は川を堀として取り込んでいたものと推定される。
城館を中心に300m四方に集落の痕跡が検出され、大規模な居館集落が形成されていたと考えられる。 続きを読む

南津田城(滋賀県近江八幡市)

南津田城

在地の土豪・津田氏代々の居城。
築城時期・築城主は不明。
津田氏は蒲生郡津田庄を領した在地土豪で、その末裔が越前に移住して織田氏の祖となったとされる。

平家滅亡に際して平資盛の子を身籠った女性が蒲生郡津田庄に匿われ、在地の津田氏の妻となり、生まれた子は「津田親真」と名乗る。
親真は後に斎部親澄の養子となって越前丹生郡織田庄に移り、織田氏の祖となったとの伝承が残る。
但し、津田親真を平資盛の子とした場合は享年が100歳を超えることになり、斎部親澄の実子とすることが有力。

八幡山の西麓、八王子神社の周辺が城域と考えられる。
現地には八幡山に向かって「南津田城 八王子山砦」「南津田城 山城」の案内板が建ち、その先は八幡山城の出丸に到達する。
山中にいくつかの平坦地や竪堀と思われる地形が確認できるが、城郭遺構であるかは不明。
町内の別の場所には「津田城跡」の碑と津田親眞顕彰碑が建つ。 続きを読む

水茎岡山城(滋賀県近江八幡市)

水茎岡山城

六角氏の支城のひとつ。
南北朝時代より、佐々木氏(六角氏)による湖上警備のための拠点として機能。

1508年に足利義澄が京から落ち延びてきた際、それを保護するために六角高頼の命で九里信隆が本格的な城郭として改修した。
九里氏は伊庭氏の被官で、蒲生郡本郷を本拠とした一族。
1510年、室町幕府軍3千に攻められるも撃退。
しかし、翌年に足利義澄は同地で病没した。
義澄の死によって六角高頼と伊庭貞隆の対立が激化すると、伊庭方の九里信隆は1514年に六角高頼に殺害され、城は1520年に落城。
1525年に伊庭氏の残党とともに同地で挙兵するも敗れ、九里氏は滅亡した。
そのときに、城は廃城になったと考えられる。

琵琶湖に接した独立丘陵である岡山(標高102m)山上に築かれた山城。
築城当時は四方を琵琶湖で囲まれた小島であったが、近代に周辺一帯が干拓されて陸続きとなった。
東西方向に曲輪が連なる連郭式の構造で、幅5mほどの大堀切を挟んで土橋で連結された東西ふたつの曲輪を中心に、それぞれの南側に帯曲輪、さらにそれらの周囲を取り囲む帯曲輪で構成される。
城域の北東に巨大な土塁が設けられ、西に位置する主曲輪との間に堀切を形成する。
全体として北側を土塁、南側を深い切岸で防御する構造を持つ。

北麓には複数の平坦地が残存し、発掘調査によって石垣が検出されている。
その規模と構造から、足利義澄を保護するための御殿が建てられていたものと推察される。 続きを読む