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尼崎城(兵庫県尼崎市)

尼崎城

尼崎藩代々の居城。
1617年、戸田氏鉄による築城。

1615年、建部政長・池田重利が播磨国川辺郡および西成郡に1万石を領して尼崎藩が成立。
1617年に建部政長が林田藩に、池田重利が鵤藩にそれぞれ転封したことに伴い、戸田氏鉄が5万石で入領。
1635年に戸田氏が美濃国大垣藩に転封となると、その跡を青山氏4代、1711年より桜井松平氏7代が藩主を務め、明治維新を迎えた。

大物川と庄下川に挟まれた三角州に位置する平城。
周囲を3重の水堀で囲み、4重の天守と3棟の三重櫓・本丸御殿を持つ本丸を中心に、西側と北側を囲むように二ノ丸、東に松ノ丸、それらを囲むように西側に西三ノ丸、東側に東三ノ丸が配置。
本丸は一辺が約115mのほぼ正方形をしており、北東隅に天守と付櫓として寅卯二重渡櫓と二重渡櫓、他の3隅にはそれぞれ三重櫓が建てられた。
天守は西側と南側に付櫓を持つ複合式層塔型4重4階の構造で、その規模は東西21m、南北17m、天守台上からの高さは16.8mあったとされる。
本丸の中央には尼崎藩の藩庁である御殿が建ち、大書院を中心に台所、居間、式台、金之間などの建物が繋げられていた。
御殿は1846年に本丸の女中部屋付近からの出火で全焼したものの、翌年には再建されている。

1873年に廃城。
建物のほとんどは取り壊され、1874年に深正院(尼崎市大物町)の本堂として移築された本丸御殿も戦災で焼失。
そのため、地表面に遺構はほとんど残っていない。
尼崎市教育委員会では20回以上に渡って発掘調査を実施しており、本丸御殿などの建物遺構や庄下川の堤防の下から石垣の一部が見つかるなど、城跡からは多数の遺物・遺構が出土している。

現在、本丸跡地は尼崎市立明城小学校の敷地として利用。
また、城跡の一部は『尼崎城址公園』として整備され、石垣および土塀が模擬復元されている。
2018年、西三ノ丸跡地である公園の中央付近に外観復元天守が完成した。 続きを読む

大覚寺城(兵庫県尼崎市)

大覚寺城

室町幕府2代将軍・足利義詮の陣城。
1359年、足利義詮が在陣。

大覚寺は605年に百済の僧・日羅によって創建され、1275年に琳海が再興した律院寺院。
1359年に足利義詮が半年間に渡って在陣したことから、『大覚寺城』と呼ばれるようになった。
大覚寺の門前には市場が設けられて市庭町として発展し、中世都市としての尼崎が形成されたといわれる。

現在の大覚寺は1617年の尼崎城築城に伴って移転したもの。
当時の絵図には境内の北東側に大物橋が描かれており、現在の尼崎市東本町4丁目付近にあったと推測される。 続きを読む

大物城(尼崎古城)(兵庫県尼崎市)

大物城

海運上の要地である大物浦を抑える城砦。
文献上の初見は1473年の『萩藩閥閲録』に見られるが、一般的には1519年に細川高国が「柵城」を築いたことを始まりとする。

大物浦は古くから海運上の要地として栄えた地域。
1519年に管領・細川高国が同地に「柵城」を築き、1526年には細川尹賢に城の拡張を命じている。
1527年、細川高国と細川晴元が争った桂川原の戦いの折に落城。
播磨守護代・浦上村宗の支援を得た高国は、1530年に城将の薬師寺三郎左衛門国盛を降伏させて城を奪還した。
しかし、その翌年に中嶋で細川晴元勢に大敗して尼崎に敗走。(大物崩れ)
細川高国は大物城へ撤退中、紺屋に潜伏していたところを三好元長に捕縛され、廣徳寺で自害した。

その後も大物の地は幾度も戦場となっており、天文年間から元亀年間のうちに28回の在陣が確認できる。
1577年には荒木村重の嫡男・荒木村次が城主となり、翌年に村重が織田氏に対して謀叛を起こすと、大物城は荒木方の要地のひとつとなった。

阪神電鉄大物駅の南側から大物主神社にかけての一帯が城域とされる。
周辺は宅地開発が進み、遺構は存在しない。 続きを読む

安満山陣所(大阪府高槻市)

安満山陣所

1578年の高槻城攻めにおける織田方の本陣。

1578年、有岡城の荒木村重が織田氏から離反。
織田信長は村重の与力である高山右近の高槻城を攻めるため、安満山に着陣。
西国街道沿いの安満・天神馬場・芥川に「つなぎの要害」を築き、高槻城を攻囲した。
高山右近は領地を返上して、織田方に降伏。
その功績を認めた信長によって高槻城主の地位と領地を安堵され、有岡城攻めに加わることとなった。

具体的な位置は不明だが、高槻城との位置関係から安満山の南側中腹にあったと推測される。
標高125m地点の尾根上に安満宮山古墳があり、その付近もしくは少し前方の弥生の丘付近に陣が置かれたものと思われる。 続きを読む

安満砦(大阪府高槻市)

安満砦

1578年の高槻城攻めにおける織田方の陣城のひとつ。

1578年、織田氏から離反した荒木村重の与力である高山右近の高槻城を攻めるため、織田信長は安満山を本陣として麓の安満・天神馬場・芥川に「つなぎの要害」を構築。
織田信忠・信意・信孝と越前衆が在陣し、高槻城を攻囲した。

具体的な位置は不明だが、西国街道に面した立地と地形から磐手杜神社付近にあったと推測される。
磐手杜神社は666年の創建と伝えられ、天正年間に「高山氏の戦火」で社殿が焼失。
それが戦闘に巻き込まれてのことであるか、陣取りのために焼き払われたものかは不明。
1622年に社殿が再建され、現在に至る。 続きを読む

太田北の山砦(大阪府茨木市)

太田北の山砦

1578年の茨木城攻めにおける織田方の陣城のひとつ。

『信長公記』によると、茨木城攻めに際して滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆・氏家直通・安藤守就・稲葉良通が芥川・糠塚・太田村・猟師川辺に陣取り、織田信長より「太田の郷、北の山」に砦の普請を命じられたとされる。
それから間もなく茨木城の中川清秀が降伏したことにより、僅か9日ほどで砦は引き払われた。

具体的な位置は不明だが、太田村の北という位置関係から現在の太田神社もしくは太田茶臼山古墳付近にあったものと推測される。
同地は茨木城のほぼ真北に位置し、西国街道を見下ろす要地にあったことが窺える。 続きを読む

山崎砦(大阪府三島郡島本町)

山崎砦

山崎の戦いにおける明智光秀方の城砦のひとつ。
同地は西国街道から山崎の集落に入る位置にあり、それ以前から城砦が存在していたかは不明。

本能寺の変で織田信長・信忠父子を討った明智光秀は、西国への備えとして山城・摂津国境にある山崎で防備を固めた。
しかし、羽柴秀吉が摂津国富田に到着した報を受けると戦線を後退。
開戦の前夜、山崎は羽柴方の中川清秀・高山友照らに占拠された。

西国街道が貫く山崎集落の東西に築かれた黒門のうち、西黒門付近にあったとされる。
開戦時には明智方は東黒門まで後退しており、西黒門は羽柴秀吉方の高山友照が占拠して門を閉めたとされる。
街道沿いの自動販売機近くに、近年まで門の礎石が残っていたといわれる。 続きを読む

水無瀬殿(大阪府三島郡島本町)

水無瀬殿

後鳥羽上皇の離宮。
1199年、後鳥羽上皇による造営。

後鳥羽上皇が避暑のために造営した離宮。
庭には北白川から取り寄せた砂が敷かれ、川の水を引いて造られた池に築山から滝を落とす贅を尽くした華やかなものであったとされる。
しかし、「大風洪水」によって殿舎が流出し、1217年に山上に再建された。
後鳥羽上皇は承久の乱の後に隠岐に流されて同地で没し、離宮跡地には1240年に遺勅によって水無瀬信成・親成親子が御影堂を建立した。

御影堂は明治時代に神式に改められた後、1939年に官幣大社に列格して『水無瀬神宮』と改称されて現在に至る。
境内には名水百選に選ばれた「離宮の水」が湧き出ている。
また、2014年に実施された発掘調査で、再建後の水無瀬離宮の庭園跡と考えられる遺構が見つかっている。 続きを読む

山崎関(大阪府三島郡島本町)

山崎関

摂津国と山城国の境にあった古代の関所。
設置時期は不明。

山崎の地は淀川と天王山に挟まれ、西国街道による陸路と淀川の水運を繋ぐ古くからの交通の要衝。
摂津国と山城国(山背国)の境にあって、古代には関所が設けられた。
平安時代の初め、嵯峨天皇の河陽離宮造営の頃に廃止された。

同地は現在も大阪府と京都府の県境となっており、跡地には関大明神社が建つ。 続きを読む

桑津環濠(大阪府大阪市)

桑津環濠

大坂の陣の激戦地に形成された江戸時代の環濠集落。
詳しい時期は不明だが、大坂夏の陣が終結して間もなく成立したものと思われる。

桑津の地一帯は大坂夏の陣において激戦地となり、住人は四方に環濠を掘って環濠集落を形成。
北に2ヶ所、南に1ヶ所、西に1ヶ所の計4ヶ所に木戸を設けて外部との通行を制限し、夜間には木戸は閉ざされていた。
1868年の鳥羽伏見の戦いの頃、落武者が夜に救いを求めて木戸を叩いたときにも、住人は灯りを消して木戸を開けることはなかった伝わる。

環濠は昭和初期まで存在したが、現在は埋め立てられて道路となっている。
現在の東住吉区桑津3丁目の南東部分に相当し、桑津公園の東側の道路を西辺、桑津天満宮前から東向きに続く路地を北辺とする東西150m、南北180mほどの範囲。
南辺以外は環濠の形状が道路となって残り、複雑に入り組んだ集落内の路地は江戸時代の絵図とほぼ合致する。
唯一の遺物として北の木戸口に祀られていた北口地蔵尊が現存し、往時を偲ばせている。 続きを読む

大塚城 / 茶臼山陣城(大阪府大阪市)

茶臼山陣城

細川氏の陣城、後に大坂の陣における徳川・豊臣両陣営の陣城のひとつ。
1546年、山中又三郎による築城。

元は細川晴元が築いた陣城とされ、1546年に家臣の山中又三郎が茶臼山古墳に築城したことが始まりとされる。
1547年、舎利寺の戦いで細川氏綱・遊佐長教連合軍に攻められて落城した。
その後の城の動向は不明だが、1614年の大坂冬の陣では徳川家康の本陣が置かれた。
『武徳編年集成』によると山頂部に徳川家康の寝所があり、西麓には茶屋、南麓には納戸、東には浴室があったと記されている。
翌年の大坂夏の陣では、豊臣方の真田信繁が同地に陣を構えた。

天王寺公園内、河底池の背後に現在も茶臼山古墳が残る。
山頂部には15m四方程度の平坦地があるものの城の遺構であるかは不明で、後世の改変である可能性が高い。
また、周囲に曲輪跡と思われる平坦地がいくつか見られるも、城郭遺構である確証はない。

周辺には大坂夏の陣で戦死した本多忠朝の墓所がある一心寺、同じく大坂夏の陣で真田信繁が戦死した安井天満宮、毛利勝永の陣が置いた四天王寺など、大坂の陣に関連する史跡が数多く存在している。 続きを読む

高津城(大阪府大阪市)

高津城

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

『信長公記』『陰徳太平記』に城砦の存在を示す記述が見られるが、具体的な位置は不明。
文献上の裏付けはないが高津宮跡地とされる大阪府立高津高校付近が地形的に有力であるほか、その南の小橋町には大坂冬の陣で豊臣方の真田信繁が陣を置いた築山がかつて存在しており、同地付近に城砦があった可能性が考えられる。 続きを読む

難波砦(大阪府大阪市)

難波砦

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

『信長公記』『陰徳太平記』に城砦の存在を示す記述が見られるが、具体的な位置は不明。
難波砦の所在地と思われる旧上難波村は現在の南船場およびその周辺に相当し、同地には真宗大谷派の難波別院や反正天皇創建の難波神社が建つ。 続きを読む

真田丸(真田出城)(大阪府大阪市)

真田丸

大坂冬の陣において大坂城惣構の平野口に築かれた豊臣方の出城。
1614年、真田信繁による築城。

大坂冬の陣の緒戦に木津川口砦・鴫野砦・博労淵砦などの拠点を失った豊臣方は、残りの砦を放棄して大坂城内に撤収。
籠城戦が本格化するなか、大坂城南方の守備強化のために真田信繁が出城を構築。
前方の篠山と合わせて真田勢5千の兵が守備し、そのことから『真田丸』と呼ばれるようになった。

慶長19年12月4日(1614年1月3日)、幕府方は真田丸を含む大坂城南側一帯に攻撃を開始する。
前田利常・井伊直孝・松平忠直ら2万6千に対し、豊臣方は真田丸に真田信繁5千、八丁目口・谷町口に後藤基次・木村重成・長宗我部盛親ら1万2千を配して迎撃。
激しい戦闘の末に幕府方は1万の損害を出して敗走し、豊臣方が勝利した。
しかし、豊臣方の劣勢は変わらず同月20日に和議が成立。
和議の条件のひとつとして、真田丸は破壊された。

平野口の南(大坂城惣構の南東端)に構築された丘城。
その実態には諸説あり、通説では心眼寺坂を西端、三光神社を東端にした東西180mほどの半円形の構造とされていた。
しかし、最近の研究によって規模については「南北220m、東西140m」「南北270m、東西280m」とする説が唱えられ、形状も従来の半円形に加えて不定形とする説や矩形に近い五角形とする説、独立した出城ではなく大坂城と土橋で連結されていたとするなど、現在も議論が続いている。
尚、所在地は「真田山」の旧地名が残る大阪明星学園付近で確定とされている。
2016年、大阪明星学園のグラウンド脇に「真田丸顕彰碑」が建てられた。 続きを読む

寺岡砦(大阪府大阪市)

寺岡砦

旧住吉郡寺岡村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

寺岡周辺では戦国期に畠山氏・細川氏・三好氏らの抗争があり、たびたび戦場となっていた。
1615年の大坂夏の陣では幕府方の砦として機能。
戦後、豊臣方に味方した多くの浪人が同地に集まり、集落が形成された。
そのとき、松平忠直の配下であった多賀谷靭負政頼が武士を捨てて同地に土着し、開拓の指導者になったとされる。

現在、城域には神須牟地神社が建つ。
神社境内が道路より微高地となっているほかに、遺構は存在しない。
寺岡村は江戸時代に環濠集落として発展したとされ、かつては集落の西側に南北方向に堀跡が残っていた。
周辺には「一の木戸」「櫓の下」「鉄砲足」などの旧地名が残る。 続きを読む

北島新田台場(大阪府大阪市)

北島新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1861年、江戸幕府による築造。

北島新田は大和川河口の北岸にあり、1746年に桜井甚兵衛(加賀屋甚兵衛)によって開発された新田。
1861年、その西側先端部に方形の砲台と観測所が設けられる。
日清戦争では由良要塞築造までの臨時施設として運用され、28糎榴弾砲8門と野砲4門が設置された。
日清戦争講和後の1896年より施設の売却が進み、1909年に取り壊される。
1910年、跡地には大阪砲兵工廠北島新田火薬庫が新設された。

詳しい位置は不明だが、位置および西側の道路の形状が当時の絵図の海岸線と合致する新北島南公園付近にあったと思われる。 続きを読む

新堀城 / 堀村環濠(大阪府大阪市)

新堀城

石山本願寺の支城のひとつ。
室町時代、「周防守」を名乗る人物が同地に城を築いたことが始まり。

室町時代に「周防守某」が城を築いたとされるが、その頃の詳細は不明。
元亀年間に石山本願寺と織田氏の争い(石山合戦)が激化すると砦が築かれ、十河一行と香西長信が守備。
1575年、織田方は堀を草で埋め立てて火を放つと大手と搦手の両面から突撃し、170余の首級を挙げて城は落城。
この戦で十河一行は戦死、香西長信は捕らえられた後に斬首された。

長居公園の南側、「長居の宮」と呼ばれる保利神社の境内一帯が城域とされる。
同地には堀村と呼ばれる集落があり、昭和初期まで堀に囲まれた環濠集落の姿を残していた。
保利神社の創建時期は不明だが、周防守某が城を築いた際に鎮守として勧請されたと伝わる。 続きを読む

我孫子城 / 我孫子環濠(大阪府大阪市)

我孫子城

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争に際して今井兵部房(河瀬兵部丞)が築城。

今井兵部房は元は「河瀬兵部丞」を名乗り、大和国今井郷の住人とされる。
永禄年間、河合清長(後の今西正冬)とともに在郷の門徒や武士、牢人を集めて称念寺を中心とする寺内町を作った。
石山本願寺と織田氏の争い(石山合戦)が激化すると我孫子に砦を築いて抗戦。
1575年に織田方に降伏し、豊臣政権期には我孫子村の代官となった。

「あびこ観音」として知られる吾彦山観音寺の境内を含む周辺一帯が城域とされる。
周辺は住宅地および商業地として開発され、遺構は存在しない。
明治時代に描かれた地図によると城域の西側に大きな堀が見られ、現在は我孫子グラウンドとなっている。
グラウンドの一帯は周囲よりも低い位置にあり、その東側の段差が唯一の城の名残と思われる。 続きを読む

千本松台場(木津川口台場)(大阪府大阪市)

木津川口台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1864年、土佐藩による築造。

1854年、ロシア使節・プチャーチンを乗せたディアナ号が大坂湾に侵入し、天保山沖に停泊。
江戸幕府は大坂湾防衛のため、大坂城代・土屋采女正寅直に木津川河口および安治川河口への台場築造を命じる。
同年に高松藩が木津川河口を防備を命じられるも、そのときには台場の築造は見送られた。
1863年より土佐藩が木津川河口の防備を担当し、台場の築造が開始。
翌年の1864年に完成した。
しかし、実戦使用されることはなく、1867年の神戸開港によってその役目を終える。

木津川河口の南岸にあったとされるが、詳しい位置は不明。
同地は一帯が工場地として開発されており、遺構は存在しない。 続きを読む

中間村城(大阪府大阪市)

中間村城

石山本願寺の支城のひとつ。
大坂冬の陣では幕府方の砦として機能し、本多忠朝が300の兵を率いて布陣した。

石山本願寺の時代については詳細不明。
大坂冬の陣で本多忠朝は大坂城を東側から攻める一角を担い、猫間川と平野川を隔てた中浜村(中間村)に300の兵を率いて布陣。
白山神社前に陣を置き、物見のために境内の大銀杏の木に登って大坂方を偵察したと伝わる。

白山神社の創建時期は不明だが、応永年間まで付近の中浜・鴫野・森の諸村の氏神として崇められてきた。
社殿は1576年の石山合戦で焼失した後、1603年に豊臣秀頼が再建。
古くから端午の日に流鏑馬式が行なわれてきたことから、本多忠朝が陣に選んだとされる。
大坂冬の陣で再び焼失するも、1617年に再建されている。

物見に使われた大銀杏の木は幾多の戦火を免れて残存し、『白山神社のいちょう』として大阪府の天然記念物に指定されている。 続きを読む

四天王寺陣所(大阪府大阪市)

四天王寺陣所

大坂夏の陣における大坂方・毛利勝永の陣所。

毛利勝永は4千の兵を率いて徳川家康本陣の正面、四天王寺南大門前に布陣。
物見に出ていた幕府方先鋒・本多忠朝勢を急襲する。
毛利勢は本多忠朝とその救援に駆け付けた小笠原秀政・忠脩父子を討ち取り、幕府方先鋒は壊滅。
徳川家康本陣へと肉薄した。(天王寺口の戦い)

現在の四天王寺南大門は、1985年11月に再建されたもの。
四天王寺を背後に南・東・西の三方の谷筋を見下ろす位置にあり、大坂の陣における要所である東方の岡山口、南方の天王寺口の両面を抑える高所にあったことが窺える。 続きを読む

摂津職(大阪府大阪市)

摂津職

奈良時代における摂津国の国庁(地方政庁)。
詳しい時期は不明だが、難波宮および難波津の管理と摂津国の行政を兼任する行政機関として設置。

摂津国は難波宮と外交および交通の重要拠点である難波津を要したことから、国司と宮および津の管理を兼ねる『摂津職』と呼ばれる特別の行政機関が置かれた。
793年に摂津職は廃されるが、国府機能が渡辺津に移転する805年まで国府として機能した。

難波京内に置かれたと考えられ、現在の大阪市天王寺区国分町とする説が有力。
国分町は摂津国分寺があった場所とされ、付近の公園内に『摂津国国分寺跡』の碑が建つ。 続きを読む

常吉新田台場(大阪府大阪市)

常吉新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1861年、岡山藩による築造。

常吉新田は1834年、西成郡南方村の住人・常吉庄左衛門によって開発された新田。
詳しい位置は不明だが、大阪鉛錫精錬所酉島事業所の敷地北西付近で道路が僅かに盛り上っており、その周辺にあったと思われる。
付近には常吉新田の開墾主である常吉庄左衛門の墓が建つ。 続きを読む

矢倉新田台場(大阪府大阪市)

矢倉新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1861年、岡山藩による築造。

矢倉新田は1776年、京都下立売の鍵屋・矢倉九右衛門によって開発された新田。
詳しい位置は不明だが、当時の絵図との比較で合同製鐵大阪製造所の敷地西側付近と考えられる。
同地は度重なる高波の被害を受けており、1896年の淀川改修工事で大部分が河川敷となった。 続きを読む

島屋新田台場(大阪府大阪市)

島屋新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1861年、岡山藩による築造。

島屋新田は宝暦年間、島屋市兵衛(浅田市兵衛)によって開発された新田。
詳しい位置は不明だが、島屋市兵衛が勧請した産土神社の南西に広がる工場地帯にあったと思われる。 続きを読む

目標山台場(安治川口台場) / 天保山台場(大阪府大阪市)

安治川口台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1855年、江戸幕府が安治川河口の天保山を切り崩して築造。

1854年、ロシア使節・プチャーチンを乗せたディアナ号が大坂湾に侵入し、天保山沖に停泊。
江戸幕府は大坂湾防衛のため、大坂城代・土屋采女正寅直に命じて天保山に台場を築造した。(目標山台場)
築造当時は楕円形の敷地に5基の砲台が設置され、1864年に松江藩が稜堡式の西洋式砲台に改修。
1867年の神戸開港によって実戦使用されることはなくなったが、1880年に石垣と土塁の修繕、1884年には大砲砲架の修理が行なわれており、少なくともその時点までは実戦配備がされていたものと考えられる。
『陸軍省大日記』によると、明治期には24ポンド砲が12門備えられていたことが確認できる。
1886年、『天保山台場』と改称。
日清戦争では由良要塞築造までの臨時施設として運用され、28糎榴弾砲8門と野砲4門が設置された。
日清戦争講和後の1896年より施設の売却が進み、1900年頃には武装解除されたものと思われる。

現在の天保山公園一帯にあったとされる。
周辺は宅地および商業施設としての開発が進み、遺構は存在しない。
大阪城天守閣の入口に展示されている大砲は天保山台場に設置された大砲のひとつと伝えられ、1863年に津山藩の鋳工・百済清次郎が幕府の命で製作したとされるが史料的根拠はない。 続きを読む

布屋新田台場(大阪府大阪市)

布屋新田台場

大坂湾岸防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1861年、岡山藩による築造。

布屋新田は1853年、高瀬甚九郎(布屋甚九郎)によって開発された新田。
1861年に岡山藩が台場を築造し、15拇砲6門を配備した。
日清戦争では由良要塞築造までの臨時施設として運用され、28糎榴弾砲4門と野砲4門が設置されたことが確認できる。
日清戦争講和後の1896年より施設の売却が進み、1900年頃には武装解除されたものと思われる。

詳しい位置は不明だが、当時の絵図との比較で西淀川区中島地区の中島公園付近と考えられる。
同地を校区とする大阪市立川北小学校が1963年に刊行した自校史には、「砲台跡に行って旗採りをした」「台場で運動会をした」と記述されている。 続きを読む

三田城 / 三田陣屋(兵庫県三田市)

三田城

有馬氏代々の居城、後に三田藩の藩庁。
詳しい時期は不明だが、戦国期に有馬村秀による築城とされる。

三田城の成立時期には諸説あるが、東野上城を居城とする有馬氏が同地に勢力を拡げる過程で居城を移したものと考えられる。
有馬氏は赤松則祐の五男・義祐が摂津国有馬郡の地頭となって移り住み、有馬氏を称したことが始まり。
有馬国秀の代に荒木村重の支配下となるも不義の疑いによって自害させられ、有馬氏の嫡流は断絶。
村重の家臣・荒木平太夫重堅が三田城主となった。
1578年に荒木村重が織田氏から離反すると間もなく落城し、織田氏の支配下となる。
1582年、山崎片家が入城。
この頃、山崎氏の家臣・車瀬政右衛門が縄張りを担当したことから「車瀬城」と呼ばれるようになったとされる。(諸説あり)
山崎氏が因幡国若桜3万石に転封となると、有馬氏庶流の有馬重則が入城して有馬氏の旧領を回復。
1620年に有馬豊氏が久留米藩21万石に加増転封となった後、松平重直、次いで九鬼久隆が入領。
以降、九鬼氏13代の居城として明治維新を迎えた。

武庫川の西岸、三田丘陵から張り出した舌状台地上に築かれた丘城。
三田市立三田小学校および兵庫県立有馬高等学校の敷地が城域とされる。
有馬高等学校付近には「古城」の地名が残り、戦国時代のものと思われる遺物が出土。
また、山崎氏の家紋が入った軒瓦が大量に出土したことにより、「古城」付近が中世の城域であったと考えられる。
九鬼氏時代の構造は絵図『三田御館指図』によって明らかにされている。
しかし、小学校の改築工事に伴う発掘調査で絵図と一致しない建物痕が検出されており、複数回に渡る改築が行なわれたものと推測されてる。 続きを読む