山中館(滋賀県甲賀市)

山中館

在地の土豪・山中氏(宇田村系山中氏)の居館。
南北朝時代の築城と思われるが、同時代の山中氏の系図には諸説あるため、築城主は不明。

『山中文書』によると、山中氏は橘諸兄の後裔と伝えられる。
1226年、橘俊信が鈴鹿山の盗賊鎮圧の功によって鎌倉幕府より山中村地頭および鈴鹿山盗賊追捕使に補任され、山中氏を称したことが始まり。
南北朝時代には伊勢神宮祭司より柏木御厨の代官職に任じられ、総領家が宇田村に移住。
それによって山中氏は山中村と宇田村の系統に分かれ、宇田村の山中氏は戦国期に伴氏・美濃部氏とともに「柏木三方中惣」を組織して甲賀二十一家のひとつに数えられ、同地に大きな勢力を持つようになった。

1585年、山中俊好は他多くの甲賀武士とともに羽柴秀吉の紀州攻めに従軍。
しかし、紀ノ川の堤防工事における失策や命令違反を咎められて所領を没収された。(甲賀破儀)
1600年、山中宗俊が徳川家康より赦免を受けて宇田村に戻り、1町四方の屋敷を構えたとされる。
1763年に屋敷地は縮小。
1847年、山中俊哲が水口藩に仕えて水口城下に移ったことで屋敷は廃されたものと思われる。

宇田公民館の北側に位置する50m四方の単郭居館。
現在は竹藪となっており、東側を除く三方に土塁が残る。
水田に面した北辺の土塁は土が剥き出しとなっており、北側を走る県道535号線からも明瞭に確認することができる。
土塁の高さは5~7mほどあり、その内部は広い平坦地になっているが折り重なった竹によって進入は困難。

現状の竹藪の範囲から推察できる居館の規模は、1763年に縮小されたものに相当。
1600年に構えられた屋敷は一辺が100mほどあったとされ、中世にはさらに広大な敷地を擁していたと思われる。

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所在地

滋賀県甲賀市水口町宇田

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