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今橋城 / 吉田城(愛知県豊橋市)

吉田城

三河東部の統治拠点として代々の領主が在城した城。
1505年、牧野古白(牧野成時)が今川氏親の命により築城したことが始まりとされる。

牧野古白は三河国宝飯郡の牧野城を本拠とした在地の土豪。
宝飯郡に大きな勢力を持った一色時家の被官であったが、1477年に一色時家が波多野時政に討たれると衰退。
1493年に主君の仇である波多野時政を灰塚野で討ち、一色城に入城した。(灰塚野合戦)
1505年、今川氏親の命で豊川・朝倉川の合流点南岸に城(今橋城)を築き、今橋城主となる。
しかし、その翌年に今川氏親と戸田宗光に攻められて落城し、牧野古白は討死。(今橋合戦)
その後は戸田氏と牧野氏との間で今橋城の争奪戦が続くも、1546年より今川氏の直接統治が始まり、以降は東三河における今川氏の統治拠点となった。

1560年に今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると今川氏の支配は弱まり、1565年に松平家康(徳川家康)が攻略。
酒井忠次を城代とし、徳川氏による三河東部・遠江西部を統括する拠点となる。
1590年、徳川氏の関東移封に伴って池田照政(池田輝政)が15万石で入城。
城郭の大幅な改修と城下町の整備、吉田大橋(豊橋)の架け替えなどが行なわれ、近世城郭へと発展を遂げる。
江戸時代には吉田藩の藩庁が置かれ、譜代大名22人が代々の藩主を務めた。
明治時代には兵部省の管轄となり、1875年に大日本帝国陸軍歩兵第18連隊が置かれる。
1873年、失火によって多くの建物が焼失した。

豊川と朝倉川の合流地点に立地した半円郭式の平城。
池田氏による大規模な改修が行なわれているが、縄張りは戦国期のものを踏襲しているとされる。
豊川に面した本丸を中心に、南東側に二の丸、西側に三の丸を配置。
北東側には細長い曲輪(金柑丸)があり、今川氏の統治時代にはこの場所に主曲輪があったとされる。
本丸を囲むように4隅に石垣と隅櫓が配置され、その周囲には空堀が巡らされていた。
本丸には慶長年間に築かれた御殿があったが、1707年の宝永地震で崩壊。
当時より天守は存在せず、隅櫓のひとつである鉄櫓が天守を代用していたと考えられる。
鉄櫓を支える石垣は池田氏時代のもの、それ以外の部分は慶長期の天下普請によるものとされ、動員された大名家の家紋が刻印された石垣が数多く確認されている。

1954年に本丸隅櫓のひとつである鉄櫓が模擬再建され、内部は資料館として利用されている。
三の丸跡地が一部を除いて「豊橋公園」として整備。
豊橋市役所、美術館、スポーツ施設、文化会館が三の丸跡地に立地している。 続きを読む

鴨江城(静岡県浜松市)

鴨江城

南北朝時代における南朝方の城砦のひとつ。
築城時期は不明。

鴨江寺が城塞化したものと考えられるが、詳しくは不明。
鴨江寺は大宝年間に創建された寺院で、鴨江の長者・芋堀長者が行基に願って観音堂を建立したことに始まると伝わる。
史料上の初出は1333年、後醍醐天皇が鴨江寺に知行を与える綸旨を出したことが確認できる。
1339年には北朝方の高師泰・高師冬らによって「鴨江城」が落城したことが、『瑠璃山年録残編』の裏書に記される。

現在も同地には鴨江寺が建つ。
鴨江寺境内一帯と、その東隣にある浜松市立西小学校の敷地までが城域とされる。 続きを読む

曳馬城(静岡県浜松市)

曳馬城

今川氏被官・飯尾氏の居城。
永正年間、今川氏親による築城。(但し、それ以前から同地には城が存在した)

曳馬城の築城時期には諸説あり、遠州今川氏4代当主・今川貞相が遠江国西部の支配のために同地に城を築いたことが始まりとされる。
1516年、曳馬を領した大河内貞綱が今川氏から離反。
その翌年に大河内貞綱は今川氏親に敗れて戦死し、今川氏による遠江国の平定が達成された。
曳馬城には今川氏被官の飯尾賢連が入城し、以降は飯尾氏の居城となる。

桶狭間の戦い後も飯尾氏は今川氏に属するも、今川氏真は飯尾氏の織田氏への内通を疑って曳馬城を攻め、駿府城で城主・飯尾連龍を謀殺。
その後は飯尾氏の家老・江馬時成が城を守備するも家中は分裂し、1568年に徳川家康に攻められて落城。
その際、徳川家康は飯尾連龍の未亡人・お田鶴の方に降伏の使者を送るも拒否され、お田鶴の方は城兵を指揮して奮戦し、侍女とともに討死にした伝承が残る。
1570年、徳川家康は居城を岡崎城から曳馬城に移して城を大規模に拡張し、「浜松城」と改められた。
曳馬城は浜松城の曲輪の一部に取り込まれ、江戸時代には米蔵などが置かれていた。

浜松元城町東照宮の境内一帯が城域となる。
東照宮は1894年に井上延陵によって創建され、1945年に戦火で焼失するも1959年に再建された。
境内に城址碑と案内板が建ち、遺構はないものの周囲よりも高い丘上の立地が城の存在を窺わせている。 続きを読む

美濃部城(滋賀県甲賀市)

美濃部城

甲賀二十一家・美濃部氏の居城。
築城時期は不明。

『美濃部天満宮社記』によると、美濃部氏は菅原道真の五男・菅原淳茂に始まると伝わる。
901年に菅原道真が失脚した際、淳茂は菅原氏の荘園があった美濃部郷梅ヶ畑の郷長・平左兵衛門為親の屋敷に逃れて娘婿となり、923年に赦免されると帰洛。
その子は美濃部郷に残って居宅を構え、「美濃部直茂」を名乗って同地の領主になったとされる。
戦国期には伴氏・山中氏とともに「柏木三方中惣」を組織して甲賀二十一家のひとつに数えられ、同地に大きな勢力を持つようになった。

滋賀県立水口高等学校の東側の住宅地が城域とされる。
北東端に相当するレオパレス南小路の駐車場にかつてはL字状に土塁が残っていたが、現在は消滅している。
その西側の道路を南下すると旧信楽街道と合流し、その三叉路付近が大手門跡とされる。
周辺の道路形状から、城館の規模は東西120m、南北70mほどあったと推察される。

城域の南西に美濃部氏の同名中(同姓者で形成した擬似的な同族組織)である富川氏の屋敷が隣接しており、近世の水口城は美濃部氏の出屋敷跡に建てられたと伝わる。
美濃部氏とともに柏木三方中惣を組織した山中氏が一族の屋敷を連ねた城館群を形成していることから、美濃部氏も同様の城館群を形成していた可能性が考えられる。 続きを読む