![赤穂城](https://masakishibata.wordpress.com/wp-content/uploads/2018/08/ako_head.jpg?w=625)
赤穂藩(加里屋藩)の藩庁。
1600年に池田長政(池田輝政弟)が築城した大鷹城を前身とし、1661年に浅野長直が近世城郭に改修。
1600年、関ヶ原の戦いにおける岐阜城攻めで功のあった池田長政が、2万2千石で播磨国赤穂に入領。
赤穂郡加里屋に大鷹城を築城した。
1613年に赤穂は岡山藩領となり、1615年には池田政綱(池田輝政五男)が3万5千石で赤穂藩を立藩。
しかし、1645年に藩主・池田輝興が発狂して正室や侍女数人を斬殺する事件(正保赤穂事件)が起こると、赤穂藩池田氏は改易となる。
1646年に浅野長直が5万3千石で入領すると近世城郭への改修が進められ、1648年に近藤正純の設計による築城計画を幕府に提出。
それが認められると築城が始まり、1661年に近世城郭としての赤穂城が完成した。
1701年、吉良義央に対する刃傷事件によって浅野氏は改易となる。(元禄赤穂事件)
翌年の1702年に永井直敬が、1706年には永井氏の信濃国飯山藩転封に伴って森長直が2万石で入領。
以降、森氏が明治維新に至るまで12代に渡って同地を領した。
三方を山に囲まれた広大な平野の中心に位置し、東に千種川、南に瀬戸内海を臨む海城。
本丸と二の丸が輪郭式、その北側に三の丸が梯郭式に配置された変形輪郭式の構造を持つ。
立藩当初は一重の堀に囲まれた簡素な構造であったが、甲州流兵学者・近藤正純による縄張りと山鹿素行の助言によって近世城郭へと変貌。
櫓10ヶ所、門12ヶ所、桝形5ヶ所を絡めた複雑な縄張りと、稜堡に似た折れとともに歪みを多く用いた塁線は実戦を強く意識したものと思われる。
本丸には藩主の屋敷や番所、倉庫のほか、「くつろぎ」と呼ばれる兵の戦時活動場所が置かれた。
藩庁である御殿は表御殿、中奥、奥御殿から構成され、現在はコンクリート上に当時の間取りが原寸で平面復元されている。
本丸の南東に天守台が残るが、天守は建てられていない。
5層天守の造営が計画されていたものの、幕府への遠慮もしくは財政難が理由であったと考えられる。
千種川から上水道を敷設し、城内だけでなく城下の各戸にも給水されており、「日本三大上水道」のひとつに数えられている。
1873年、廃城。
飾磨県権令によって建築物は破却されて堀と石垣のみが残り、石垣の一部は1892年に起こった千種川の洪水の復旧と流路変更のために転用されたほか、本丸の外堀も埋め立てられた。
1923年、三の丸に建てられた大石内蔵助邸が国史跡に指定。
昭和に入ると徐々に再建が進み、1935年に大手門前の堀と太鼓橋、1953年に本丸外堀、1955年に大手隅櫓と大手門、1996年に大手門枡形と本丸門および枡形、本丸厩口門が復元された。
1971年、国史跡に指定。
2002年には旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定された。
2006年、日本100名城に選定される。 続きを読む →