日別アーカイブ: 2018年8月19日

佐土構(兵庫県姫路市)

佐土構

旧印南郡佐土村にあったとされる城館。
築城時期は不明だが、天正年間の城主に「清水小左衛門久勝」の名が確認できる。

清水氏は赤松氏庶流・妻鹿孫次郎貞祐を祖とする一族で、5代・規次の子である弥左衛門吉春が清水姓を名乗ったことに始まる。
清水久勝は吉春の孫にあたり、1573年に同地に居住していたことが確認できる。

福乗寺の境内一帯が城域とされる。
寺院前面の道路は堀跡とされ、西側の路地および寺院の背後を北から東に向けて流れる水路も堀跡の可能性があると考えられる。
北西300mの位置に小寺氏の本城・御着城があり、寺院背後の水路は御着城の堀と繋がっていたとも伝わる。 続きを読む

御着城(兵庫県姫路市)

御着城

赤松氏一族・小寺氏の居城。
1519年、小寺政隆による築城。(それ以前から柵を巡らせた砦規模の建物があったとする説もある)

小寺氏は赤松氏一門・宇野氏の庶流。
赤松頼範の四男・赤松将則を遠祖とし、将則の曾孫・宇野頼定の二男・頼季が小寺氏を称したことが始まりと伝えられる。
1349年に小寺頼季が赤松氏の命で姫山城に入り、小寺氏は代々に渡って姫山城代を務めた。
1519年、小寺政隆が茶臼山と呼ばれる小丘上に隠居城として御着城を築城。
1530年、浦上村宗に攻められて落城し、小寺政隆は自害した。
しかし、翌年1531年に大物崩れが起こったことを機に小寺則職(政隆の子)が城を奪還。
以後、御着城が小寺氏の本城となる。

1575年に織田氏による播磨侵攻が始まると、小寺政職(則職の子)は織田氏に従う。
しかし、後に別所長治や荒木村重に同調して離反した。
1578年に織田氏による播磨国内の諸勢力への攻撃が本格化すると、御着城は翌年に落城。
城は羽柴秀吉に接収され、ほどなく廃城となった。

天川を背後に、山陽道を城下に取り込んで建てられた平城。
1755年に描かれた『播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図』によると、本丸の周囲を内堀が囲み、北東に隣接する二の丸には3重の堀が巡らされていた。
南西を流れる天川を天然の外堀とし、山陽道や町屋を取り込んだ惣構えの城であったことが窺える。
1977年から1979年にかけて実施された発掘調査にて、城内から食器や茶器のほか、将棋の駒、碁石などが発見された。
現在、本丸跡には姫路市役所東出張所と御国野公民館が建ち、城域全体が「御着城跡公園」となっている。
公園の東端には二の丸の土塁の一部が残る。

別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び、「播磨三大城」と称される。 続きを読む

加里屋城(兵庫県赤穂市)

加里屋城

赤松氏一族・岡氏の居城。
享徳年間、岡豊前守光広による築城。

岡光広は千種川上流の赤穂郡有年に城(大鷹山城)を構えており、享徳年間に加里屋城を築いて居城を移した。
その後の城の動向は明らかでないが、天正年間に同地が宇喜多氏の支配下となった頃に廃城になったものと思われる。

詳しい位置は不明だが、大蓮寺およびその北側付近にあったと考えられる。
赤穂城下の寺町付近が「古城」と呼ばれており、大蓮寺裏手にかつては「長池」と呼ばれる堀状の池があったとされる。
また、花岳寺と高光寺の間に「鉄砲屋敷」と呼ばれる区画があるなど、大蓮寺もしくは花岳寺周辺にあったことが推測される。

加里屋城は近世赤穂城の前身とされるが、天正年間に宇喜多氏が代官として津浪法印を派遣した代官所との混同と思われる。
尚、津浪法印の居所は「城ヶ洲」と呼ばれる場所にあり、赤穂城三の丸に含まれる。 続きを読む

国分寺構(兵庫県姫路市)

国分寺構

小寺氏一族・原田氏の居館。
原田氏の詳しい動向は不明だが、小寺氏の被官に「原田兵庫」の名が見られるほか、『飾磨郡誌』によると「原田某」が1580年の庄山城の戦いで戦死したとある。

東西100m、南北60mの規模を持つ方形の居館。
県道397号線が城域を分断しており、道路西側の水田は僅かに低くなっていることから堀跡と考えられている。
また、道路東側にある住宅の畑地がL字状に形成され、道路を挟んだ西側の畑地に連続した地形が見られることから、畑地が城域の南東端であると思われる。 続きを読む

赤穂藩唐船山台場(兵庫県赤穂市)

赤穂藩唐船山台場

近海防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1863年、赤穂藩による築造。

1862年、赤穂藩は近海防衛のために台場築造の計画を具体化し、その位置を御崎・唐船山・丸山・松ヶ鼻に定める。
赤穂城のすぐ東を流れる千種川河口では東岸の唐船山に台場の築造が始まり、1863年9月に完成した。
但し、実際には砲台は置かれなかったといわれる。

千種川河口の東岸端、唐船山(標高19m)の山頂に位置する。
山頂の先端には土盛りで囲まれた直径3mほどの窪地があり、海側が開けて石積みで補強されており、台場遺構と思われる。 続きを読む

大鷹城 / 赤穂城(兵庫県赤穂市)

赤穂城

赤穂藩(加里屋藩)の藩庁。
1600年に池田長政(池田輝政弟)が築城した大鷹城を前身とし、1661年に浅野長直が近世城郭に改修。

1600年、関ヶ原の戦いにおける岐阜城攻めで功のあった池田長政が、2万2千石で播磨国赤穂に入領。
赤穂郡加里屋に大鷹城を築城した。
1613年に赤穂は岡山藩領となり、1615年には池田政綱(池田輝政五男)が3万5千石で赤穂藩を立藩。
しかし、1645年に藩主・池田輝興が発狂して正室や侍女数人を斬殺する事件(正保赤穂事件)が起こると、赤穂藩池田氏は改易となる。
1646年に浅野長直が5万3千石で入領すると近世城郭への改修が進められ、1648年に近藤正純の設計による築城計画を幕府に提出。
それが認められると築城が始まり、1661年に近世城郭としての赤穂城が完成した。

1701年、吉良義央に対する刃傷事件によって浅野氏は改易となる。(元禄赤穂事件)
翌年の1702年に永井直敬が、1706年には永井氏の信濃国飯山藩転封に伴って森長直が2万石で入領。
以降、森氏が明治維新に至るまで12代に渡って同地を領した。

三方を山に囲まれた広大な平野の中心に位置し、東に千種川、南に瀬戸内海を臨む海城。
本丸と二の丸が輪郭式、その北側に三の丸が梯郭式に配置された変形輪郭式の構造を持つ。
立藩当初は一重の堀に囲まれた簡素な構造であったが、甲州流兵学者・近藤正純による縄張りと山鹿素行の助言によって近世城郭へと変貌。
櫓10ヶ所、門12ヶ所、桝形5ヶ所を絡めた複雑な縄張りと、稜堡に似た折れとともに歪みを多く用いた塁線は実戦を強く意識したものと思われる。
本丸には藩主の屋敷や番所、倉庫のほか、「くつろぎ」と呼ばれる兵の戦時活動場所が置かれた。
藩庁である御殿は表御殿、中奥、奥御殿から構成され、現在はコンクリート上に当時の間取りが原寸で平面復元されている。
本丸の南東に天守台が残るが、天守は建てられていない。
5層天守の造営が計画されていたものの、幕府への遠慮もしくは財政難が理由であったと考えられる。
千種川から上水道を敷設し、城内だけでなく城下の各戸にも給水されており、「日本三大上水道」のひとつに数えられている。

1873年、廃城。
飾磨県権令によって建築物は破却されて堀と石垣のみが残り、石垣の一部は1892年に起こった千種川の洪水の復旧と流路変更のために転用されたほか、本丸の外堀も埋め立てられた。
1923年、三の丸に建てられた大石内蔵助邸が国史跡に指定。
昭和に入ると徐々に再建が進み、1935年に大手門前の堀と太鼓橋、1953年に本丸外堀、1955年に大手隅櫓と大手門、1996年に大手門枡形と本丸門および枡形、本丸厩口門が復元された。
1971年、国史跡に指定。
2002年には旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定された。

2006年、日本100名城に選定される。 続きを読む

那波山城(兵庫県相生市)

那波山城

旧赤穂郡那波村にあったとされる城砦。
1173年、平経盛による築城と伝わる。

平経盛は平忠盛の三男で、平清盛の異母弟にあたる人物。
伝承によれば、那波山城は1173年に平経盛によって築城され、1183年に源義経に攻められて落城。
平経盛は敗走中に自害したとされる。
但し、平経盛が都落ちして西国に逃れたのは1183年であり、1185年の壇ノ浦の戦いで入水したこと、1183年の時点で源義経は入洛を果たしたばかりであることから、那波山城の伝承は誤伝と思われる。

国道2号線沿いの長専寺背後、現在は公園になっている付近が城域とされる。
台地の先端にあって公園の東辺が急な斜面になっており、その先に川が流れる地形からも東側への防衛を意識した城であることが窺える。
公園の北西隅に城址碑が建つ。 続きを読む

坂越浦会所(兵庫県赤穂市)

坂越浦会所

坂越浦を管理する会所。
1831年、赤穂藩による設置。

赤穂藩主の茶屋および坂越村の会所として、1831年に築かれた。
木造2階建ての構造で、1階に8部屋、2階に10部屋、5つの庭を持つ。
「観海楼」と名付けられた2階の藩主専用の部屋は坂越浦に面し、眼前に坂越湾が広がる。

1992年、赤穂市指定文化財となる。
現在は『旧坂越浦会所』として、博物館施設として利用されている。 続きを読む

赤穂藩御崎台場(兵庫県赤穂市)

赤穂藩御崎台場

近海防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1862年、赤穂藩による築造。

1862年、赤穂藩は近海防衛のために台場築造の計画を具体化し、その位置を御崎・唐船山・丸山・松ヶ鼻に定める。
同年、赤穂御崎に赤穂藩にとって最初の台場である御崎台場が完成した。

赤穂御崎の伊和都比売神社境内に位置する。
神社境内はほぼ八角形の形状をしており、南側を除く三方が崖状になっている。
遺構は存在しないものの、海側に開けた展望と地形からは同地に台場が存在したことを窺わせている。 続きを読む

赤穂藩松ヶ鼻台場(兵庫県赤穂市)

赤穂藩松ヶ鼻台場

近海防衛のために幕末に築造された台場(砲台)のひとつ。
1864年、赤穂藩による築造。

1862年、赤穂藩は近海防衛のために台場築造の計画を具体化し、その位置を御崎・唐船山・丸山・松ヶ鼻に定める。
赤穂城のすぐ東を流れる千種川河口では西岸の松ヶ鼻に台場の築造が始まり、1864年10月に完成した。

新赤穂大橋から海浜大橋までの千種川西岸にあったと思われるが、具体的な位置は不明。
赤穂藩の藩庁である赤穂城よりも海側を防衛ラインに仮定した場合、海浜大橋西詰付近の微高地の可能性が高いと推測される。 続きを読む

別所構(兵庫県姫路市)

別所構

別所氏被官・大塩氏の居館。
築城時期は不明。

大塩氏は播磨国印南郡の大塩荘(現在の姫路市大塩町・別所町および高砂市北浜町)を領した一族。
『播磨鑑』によると、戦国期の城主・大塩半左衛門尉は織田氏による播磨攻めの際に小寺氏に呼応して御着城に籠城し、1579年の御着城落城に殉じて戦死したとされる。
別所構は前年の1578年、羽柴秀吉による別所村の焼き討ちの際に落城したものと思われる。

JRひめじ別所駅の北、実際寺から日吉神社の付近が城域とされる。
1998年に実施された第13次別所土地区画整理事業地内調査にて、近世初頭に人工的に埋め戻されたと思われる堀跡や柱跡、井戸、土坑に埋った焼土、焼けた一石五輪塔が検出されている。 続きを読む

坂越浦城(兵庫県赤穂市)

坂越浦城

坂越浦防衛のために築かれた城砦。
1454年、山名持豊による築城と伝わる。

坂越浦は播磨灘の坂越湾に位置する天然の港。
古くから瀬戸内往来の重要な中継地として栄え、901年に九州の大宰府へ下る途中であった菅原道真が足跡を残し、1565年には長崎から京に向かう途中のルイス・フロイスが立ち寄っている。
江戸時代には瀬戸内海で有数の廻船業の拠点として発展し、西国大名の参勤交代の港としても使用されていた。

坂越浦城の築城者については諸説あるが、1454年に山名持豊(山名宗全)が築城したと伝わる。
明応年間には龍野城主・赤松村秀の支配下にあり、同城を通じて坂越浦を支配していた。
廃城時期は不明だが、江戸時代には赤穂藩の番所が跡地に置かれている。

大避神社の西側、神社脇の道路を山に向かって登る途中にある公園一帯が城域とされる。
遺構は残っていないものの坂越湾を見渡す絶好の位置にあり、海を臨む西側と南側が断崖状になって城が存在したことを窺わせる。 続きを読む

大島城(兵庫県相生市)

大島城

在地の土豪・海老名氏の居城。
1104年、海老名太郎左衛門尉家季による築城。

海老名氏は播磨国矢野荘別名の下司職を務めた一族。
小野盛兼の子・季兼が源有兼の養子となって相模国海老名郷に土着し、海老名姓を名乗ったことが始まるとされる。
1104年に一族の海老名家季が播磨国に下向し、孫の盛重の代に歓喜光院領矢野荘別名の下司職となった。
南北朝時代には7代・海老名景知が赤松円心に属し、弟の海老名詮季や同族の海老名泰知とともに白旗城に籠城した新田義貞と戦い、功を挙げた。
しかし、その留守中に大島城は新田方に攻められて焼失している。

大島山(標高30m)山頂に建つ丘城。
江戸時代に開墾されたことで現在は陸続きとなっているが、当時は蝦江(相生湾)に浮かぶ島であった。
山頂は南北80m、東西50mほどの平坦地で、善光寺の境内となっている。
山頂の西側から北側にかけて細長い平坦地が見られ、帯曲輪と思われるものの城郭遺構である確証はない。
現在は北西の麓から西側斜面に沿って道路が作られているが、城の正面は善光寺の参道が作られた北側斜面であったと思われる。

江戸時代中期の文書によると、「大島城は那波城とも言い、丘ノ台は二の丸で矢倉跡」とある。
そのことから、湾を隔てた西側の丘ノ台(現在の相生市立那波中学校付近)までを城域とする大規模な城であったことが窺える。 続きを読む

釜井城(兵庫県加古川市)

釜井城

旧加古郡篠原村にあったとされる城館。
築城時期・築城主など、詳細は一切不明。

JR加古川駅前、釜居公園付近が城域とされる。
公園は西側の道路に対して若干高くなっているが、公園整備によるものと思われる。 続きを読む

白鷺城 / 那波浦城(兵庫県相生市)

那波浦城

赤松氏一族・宇野氏の居城。
建武年間、宇野弥三郎重氏による築城。

1157年、河野伊予守(河野親清のことか?)が小千通清に命じて築城した白鷺城が前身。
『正統那波史』によると、丘ノ台より大島山に架橋し、周囲の入江を濠に利用して西北の陸続きに大手門を築いたとされる。

建武年間、赤松氏一族の宇野重氏が丘ノ台に築城。
宇野重氏は武功の人物とされ、1336年に赤松円心に敗れた和田範長・児島高徳勢の敗残27騎が那波浦から東へ落ち延びていくところを追い、伊保荘で自決させたとある。

相生市立那波中学校を含む高台(丘ノ台)が城域とされる。
すぐ東側に大島山を臨み、当時の位置関係を窺うことができる。 続きを読む