八田館 / 田辺城(京都府舞鶴市)

田辺城

丹後国守護・一色氏の守護所、のちに田辺藩の藩庁。
1392年、一色満範による築城。(南北朝時代に一色範光が築城したともされる)

1392年、一色満範が丹後国守護に補任された際に守護所として築城。
一色氏は若狭武田氏との抗争を続けながら、1582年まで代々に渡って丹後国守護を務めた。
1578年に織田氏による丹後侵攻が始まり、翌年には丹後守護所と詰城である建部山城が落城。
当主・一色義道は但馬国の山名氏を頼って亡命の途中、中山城で沼田幸兵衛の離反に遭って自害した。
一色氏の没落後、丹後国を制圧した長岡藤孝(細川幽斎)が入城。
丹後守護所のあった加佐郡八田の地名を「田辺」と改めて田辺城を築き、丹後統治の拠点とする。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、西軍1万5千による包囲に対して500の兵で抵抗。
50日間に及ぶ籠城戦の末、後陽成天皇の勅命によって開城した。(田辺城の戦い)

細川氏は関ヶ原の戦い後に豊前国中津33万9千石に転封となり、丹後国には京極高知が12万3千石で入領。
その際、関ヶ原の戦いで焼失した宮津城を再建して本拠を移し、田辺城は城門などを移築した後に破却された。
1622年に京極高知が没すると丹後国は3人の子に分知され、京極高三(京極高知の次男)が田辺を3万5千石で継承して田辺藩が成立。
石垣の修復や櫓の再建が進められ、田辺城は再建された。
1668年に京極氏が但馬国豊岡藩に転封となると、牧野親成が入領。
以降10代に渡って牧野氏の居城となり、明治維新を迎えた。

舞鶴湾に面した平地に建つ平城。
東西を伊佐津川と高野川に囲まれ、北は舞鶴湾に面し、南には湿原が広がっていたとされる。
再建時の絵図によると本丸と二の丸は渦巻き状に展開される渦郭式、その周囲は西側に外曲輪、それ以外の三方を三の丸で囲んだ輪郭式の構造を持つ。
京極高三による再建は二の丸を中心に行なわれており、二の丸の南に御殿、北に二重櫓が建てられたほか、二の丸に2基、三の丸に3基の櫓門が建てられていた。

現在、本丸跡および二の丸跡の一部が『舞鶴公園』として整備されている。
1940年に本丸北西隅の二層櫓が「彰古館」として再建。
1997年には本丸西辺に城門が再建され、内部は田辺城資料館として運営されている。(但し、本来の城門の位置とは異なる)
遺構として本丸内部に天守台石垣と本丸北辺の石垣が現存するほか、JR舞鶴線沿いの二の丸東辺にも石垣の一部が残る。
堀は都市開発によってすべて埋め立てられたものの、一部は幅を狭めた水路として確認することができる。

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所在地

京都府舞鶴市南田辺

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