日別アーカイブ: 2018年7月1日

山崎砦(大阪府三島郡島本町)

山崎砦

山崎の戦いにおける明智光秀方の城砦のひとつ。
同地は西国街道から山崎の集落に入る位置にあり、それ以前から城砦が存在していたかは不明。

本能寺の変で織田信長・信忠父子を討った明智光秀は、西国への備えとして山城・摂津国境にある山崎で防備を固めた。
しかし、羽柴秀吉が摂津国富田に到着した報を受けると戦線を後退。
開戦の前夜、山崎は羽柴方の中川清秀・高山友照らに占拠された。

西国街道が貫く山崎集落の東西に築かれた黒門のうち、西黒門付近にあったとされる。
開戦時には明智方は東黒門まで後退しており、西黒門は羽柴秀吉方の高山友照が占拠して門を閉めたとされる。
街道沿いの自動販売機近くに、近年まで門の礎石が残っていたといわれる。 続きを読む

加納藩佐太陣屋(大阪府守口市)

加納藩佐太陣屋

加納藩の河内国における采地陣屋。
貞享年間、永井伊賀守直敬による設置。

1658年、徳川家綱の小姓であった永井尚庸(淀藩主・永井尚政の三男)は河内国内に2万石を領して大名となり、後に二男の永井直敬が継承。
永井直敬は渚にあった永井氏の陣屋を佐太に移転し、摂津・河内両国における所領を管理する采地陣屋とした。
その子孫が転封を重ねて美濃国加納藩主となった後も、佐太には1万2000石の所領が残されて明治維新まで存続し、陣屋は加納藩の大坂蔵屋敷の役割を兼ねていたとされる。

佐太老人福祉センターの敷地一帯が城域とされる。
駐車場の北側から東側にかけてL字状に積まれた石垣は陣屋のものとされるが、石材を転用して積み直されたもの。
また、施設の入口のスロープは枡形の名残とされる。 続きを読む

水無瀬殿(大阪府三島郡島本町)

水無瀬殿

後鳥羽上皇の離宮。
1199年、後鳥羽上皇による造営。

後鳥羽上皇が避暑のために造営した離宮。
庭には北白川から取り寄せた砂が敷かれ、川の水を引いて造られた池に築山から滝を落とす贅を尽くした華やかなものであったとされる。
しかし、「大風洪水」によって殿舎が流出し、1217年に山上に再建された。
後鳥羽上皇は承久の乱の後に隠岐に流されて同地で没し、離宮跡地には1240年に遺勅によって水無瀬信成・親成親子が御影堂を建立した。

御影堂は明治時代に神式に改められた後、1939年に官幣大社に列格して『水無瀬神宮』と改称されて現在に至る。
境内には名水百選に選ばれた「離宮の水」が湧き出ている。
また、2014年に実施された発掘調査で、再建後の水無瀬離宮の庭園跡と考えられる遺構が見つかっている。 続きを読む

山崎関(大阪府三島郡島本町)

山崎関

摂津国と山城国の境にあった古代の関所。
設置時期は不明。

山崎の地は淀川と天王山に挟まれ、西国街道による陸路と淀川の水運を繋ぐ古くからの交通の要衝。
摂津国と山城国(山背国)の境にあって、古代には関所が設けられた。
平安時代の初め、嵯峨天皇の河陽離宮造営の頃に廃止された。

同地は現在も大阪府と京都府の県境となっており、跡地には関大明神社が建つ。 続きを読む

森口城(守口城)(大阪府守口市)

森口城

旧茨田郡森口にあったとされる城砦。
築城時期・築城主など、詳細は不明。

城がいつ頃から存在していたかは不明だが、1351年に南朝の土屋宗直が書いた『土屋宗直軍忠状』に「守口陣」の記述が見られることが史料上の初出となる。
1399年に起こった応永の乱では、大内義弘配下の杉九郎が入城。
元亀・天正年間の石山合戦では、織田方の明智光秀が同地に城砦を築いていることが確認できる。

森口城の位置には諸説あるが、「守口市浜町」「守口市土居町」の何れかとされる。
守口市浜町とした場合、大阪メトロ守口駅近くの難宗寺付近が主曲輪、その北側の盛泉寺付近が副曲輪と考えられる。
同地には近世に守口宿があり、東海道五十七次の最後の宿場町となる。 続きを読む

森口表砦(大日砦)(大阪府守口市)

大日砦

石山本願寺の支城のひとつ。
詳しい時期は不明だが、元亀年間の織田氏との抗争(石山合戦)に際して石山本願寺の出城として築城。

森口表の白山神社に砦を築き、鈴木飛騨守重幸が守備した。
石山本願寺の51ある支城の最東端にあり、淀川南岸を防衛する支城網の最前線を担っていたと考えられる。

近畿自動車道守口JCTの北東付近、国道1号線沿いにあったとされる。
同地には数十年前まで藤森社が建っていたが現在は開発が進み、一帯は住宅地となって遺構は存在しない。 続きを読む