月別アーカイブ: 2015年2月

打下城(滋賀県高島市)

打下城

高島氏、後に林員清の居城。
1502年、高島玄蕃允による築城。
元亀年間に浅井氏によって改修され、浅井氏滅亡後は林員清が入城する。

1574年、木戸城・田中城攻めのために織田信長が陣所として滞在したとされる。
1578年の大溝城築城により、その役目を終えた。

打下山(標高378.7m)の山頂一帯に築かれた典型的な中世山城で、その領域は東西270m・南北300m以上に及ぶ規模を誇る。
大きく南郭・中主郭・北主郭に分かれ、それぞれに土塁と虎口が設けられている。
中主郭と北主郭は比高50mほどの高低差があり、その間に多数の小曲輪群が連なる。
城域全体に多くの空堀と土塁、竪堀の跡が現存。
中主郭の虎口には石積の跡も残る。
別名『大溝古城』。 続きを読む

長法寺城(滋賀県高島市)

長法寺城

平安時代創建の山岳寺院・長法寺の敷地内に建てられた山城、
長法寺は1572年に織田信長による焼き討ちで廃絶したとされ、城も同時期に廃城になったものと思われる。

長らくその所在は不明とされてきたが、1956年に再発見された。

50m四方の単郭式の構造で、土塁や切岸、石積の跡が確認されている。 続きを読む

大溝城(滋賀県高島市)

大溝城

織田氏の高島郡における統治居権。
1578年、津田信澄による築城。

1578年、高島郡を統治する新庄城主・磯野員昌が織田信長の叱責を受けて突如として高野山へ出奔。
員昌の養嗣子となっていた津田信澄(織田信長の甥)がその跡を継承し、高島郡に入領する。
大溝に明智光秀の縄張りによる新城を築城し、新庄城に代わる新たな統治拠点とした。
1582年に信澄が本能寺の変の混乱で討たれると丹羽長秀・加藤光泰・生駒正親が相次いで入城し、1586年に京極高次が1万石で入城。
1595年の高次の大津城への移封に伴って廃城となり、建物の多くは水口岡山城に移築された。
1619年、一国一城令によって三の丸以外が破却される。
その後に分部氏が城下町を引き継ぎ、三の丸跡地に陣屋(大溝陣屋)を構えた。

JR近江高島駅の東側一帯が城域とされる。
本丸は高島市民病院の北東に位置し、野面積みの天守台が現存。
1983年に実施された発掘調査で本丸跡から安土城と同氾の瓦が出土し、織田氏一門の城であったことが裏付けられた。
南西と北東に堀跡が水路として残り、城域の南側にある乙女ヶ池は大溝城の外堀の名残とされる。
また、近年の発掘調査で船入りの跡が確認され、本丸周囲の内堀から琵琶湖に直接繋がる水城であったことが判明している。 続きを読む

大溝陣屋(滋賀県高島市)

大溝陣屋

大溝藩・分部氏11代の藩庁。
1619年、分部光信が2万石で入封。
当初は大溝城に入っていたが、一国一城令の発令によって廃城。
三の丸跡に陣屋を構え、明治維新まで分部氏が治める。

現存建造物として武家屋敷への出入口であった長屋門が残り、『総門』の名で高島市の有形文化財に指定されている。 続きを読む

鳥取尾城 / 宝寺城(山崎城)(京都府乙訓郡大山崎町)

宝寺城

天王山(標高270.4m)に建つ山城。
山城国と摂津国の国境に位置し、京の防衛と京への圧力の両面を持った城として古来より何度か戦場となっている。

史料上の初出は観応年間に赤松範資が林直弘に宛てた文書に『鳥取尾城』として登場し、応仁の乱では山名是豊軍が陣を構えた。
桂川原の戦いでは薬師寺国長が籠城するも、波多野稙通によって落城させられている。

1582年、山崎の戦いにおいて羽柴秀吉方が本陣を置いたとされる。
以降、大坂城完成まで居城として利用した。

現在の遺構はほぼ羽柴時代のもので、天王山山頂の東西250m・南北200mの範囲に主郭と複数の曲輪が配置されている。
主郭には天守台と思われる小曲輪がある。
主郭東側には虎口が設けられ、山麓の宝積寺から山頂にかけて一体化した防御機能が存在したと推測される。 続きを読む

物集女城(京都府向日市)

物集女城

西岡被官衆・物集女氏代々の居城。
築城時期・築城主は不明。

物集女氏は秦氏の一族と伝わり、天竜寺領物集女庄の代官として勢力を持った在地土豪。
桂川西岸一帯に割拠した西岡被官衆の一角で、1487年の『上久世荘公文』に惣国の代表として「物集女四郎右衛門尉光重」の名が確認できる。
神足城の神足孫左衛門尉友善、鶏冠井城の鶏冠井八郎次郎雅盛と並び、西岡被官衆の主導的な立場にあったとされる。

1573年、細川藤孝が織田信長から桂川西岸一帯の支配を任されると、物集女氏はこれに抵抗。
1575年、勝竜寺城への挨拶参上を拒否したことで当主・物集女忠重は謀殺され、物集女氏は衰退した。

現在、城域は個人の所有地として畑地となっている。
主曲輪と副曲輪で構成された複郭式の平地城館で、周囲は高さ2mほどの土塁と幅5~10mの水堀で囲われていた。
その規模は東西100m、南北75mに及ぶ。
西側の主曲輪には城主・物集女氏の屋敷が建ち、東側は配下の居住地であったと考えられる。
城域の北東隅と東辺に土塁と水堀の一部が残存。
2016年11月より主曲輪部分の発掘調査が行なわれ、建物の柱穴や曲輪内部を区画する土塀の基礎と推定される溝を検出された。
物集女地区の公民館には復元模型が展示されている。 続きを読む

茨木城(大阪府茨木市)

茨木城

茨木氏、後に中川清秀・片桐貞隆の居城。
建武年間、楠木正成によって同地に築城されたことが始まりとされる。

茨木城の築城時期には諸説あり、建武年間に楠木正成が築いた説のほか、時期は不明だが安富氏が築いたともされる。
文明年間には茨木氏が同地を支配。
1467年、応仁の乱で東軍の安富元綱方に属した野田泰忠が陣を構えたことが史料上の初出となる。
戦国期には茨木重朝が織田信長に臣従し、本領を安堵。
1571年の白井河原の戦いで茨木重朝以下300名が戦死して茨木氏が滅亡すると、中川清秀が入城。
1578年に荒木村重が織田氏に謀叛を起こすと当初は縁故の村重に味方したが、後に開城して織田方に寝返った。
賤ヶ岳の戦いで中川清秀が戦死した後、子の秀政は播磨国三木城に移封。
以降、茨木城は羽柴秀吉の直轄となり、安威了佐・河尻秀長らが城代を務める。
関ヶ原の戦い後に片桐貞隆が城主(兄・片桐且元の城代と考えられる)となり、そのまま大坂夏の陣を迎えた。
1616年、一国一城令の発布により廃城となる。

茨木市の中心地にあり、一帯は宅地化されて遺構は存在しない。
本格的な発掘調査はされておらず、「殿町」「旧本丸町」「佐助屋敷」などの旧町名から城域が推察され、その範囲は東西220m、南北330mに及ぶと推測される。
移築建造物として茨木神社に搦手門が、大和郡山市の慈光院に櫓門が現存。
それ以外にも脇門が妙徳寺表門に移築されていたが、1995年の阪神淡路大震災で崩壊した。
本丸推定地とされる茨木小学校には櫓門が原寸大で復元されている。 続きを読む

穂積城(大阪府茨木市)

穂積城

旧島下郡春日村にあったとされる城砦。
築城時期・築城主などは一切不明。

JR茨木駅の西側、住宅街の中にある小高い丘に位置する丘城。
城域には同地の鎮守である春日神社が建ち、境内に案内板と城址碑が建てられている。
城の西側には「城の堀」の旧地名が残り、『大阪府全志』によると塁堡の址として城砦の存在を窺わせるものの同時代の史料にその存在は確認できない。
『摂津志』によると山田十三城のひとつとされている。 続きを読む