タグ別アーカイブ: 紀州征伐

玉津島砦(和歌山県和歌山市)

玉津島砦

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

玉津嶋神社の裏山、奠供山(標高35m)の山頂部に位置する丘城。
遺構は存在しないが、和歌浦を一望できる絶好の景観を持つ。 続きを読む

雑賀崎城(和歌山県和歌山市)

雑賀崎城

雑賀衆の城砦のひとつ。
天正年間、鈴木重秀による築城。

石山本願寺を追われた教如を匿うため、雑賀衆の棟梁である鈴木重秀(雑賀孫市)が築城した。
教如は崖下にあった上人窟に隠れていたといわれる。
1585年、羽柴秀吉による紀州征伐の後に廃城となった。

現在、城域には観光施設として雑賀崎灯台が建つ。
教如が隠れていたとされる上人窟は和歌山県の天然記念物に指定されており、灯台から遊歩道が整備されている。
しかし、現在は台風によって遊歩道が途中で崩落しており、上人窟へは到達できない。 続きを読む

弥勒寺山城(和歌山県和歌山市)

弥勒寺山城

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、雑賀衆による築城。

1577年、織田信長が雑賀攻めのために紀伊国に侵攻すると、雑賀衆は多くの城砦を築いてそれに抵抗。
雑賀川沿いの弥勒寺山城を本陣として雑賀衆3千が布陣し、北に東禅寺山砦・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜砦を築いて防衛網を展開した。
緒戦は雑賀方が優勢であったが次第に膠着状態となり、雑賀衆は鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら7人の連署で誓紙を差し出して織田方に降伏。
本陣となった弥勒寺山城は1585年の羽柴秀吉による紀州征伐で使用された記録がないことから、そのときに廃城になったと思われる。

秋葉山(標高73m)の山上一帯に築かれた山城。
元は紀伊国における一向宗の中心地である弥勒寺があり、その跡地を城塞化したものと考えられる。
秋葉山全体が「秋葉山公園」として整備され、城域とされる山頂一帯は展望台と遊具が置かれて住民の憩いの場となっている。
山頂東側には櫓台と思われる東西20m、南北50mほどの高まりがあり、中央に顕如上人卓錫所の碑が建つ。
北麓の散策路沿いに曲輪らしい平坦地がいくつか見られるものの、公園整備のために造成された平地との区別が難しく、どこまでが城郭遺構であるかは判然としない。 続きを読む

雑賀城(和歌山県和歌山市)

雑賀城

雑賀衆・鈴木氏の居城。
詳しい時期は不明だが、鈴木佐大夫重意による築城。

鈴木氏は紀伊国十ヶ郷の平井を本拠とし、雑賀荘を領した一族。
雑賀荘を中心とした荘園の土豪が結集した『雑賀衆』の有力者であり、十ヶ郷の指導的立場にあったとされる。
鈴木重意は1560年の久米田の戦いにおいて畠山高政方として名が見られ、1569年には同じく畠山高政の高屋城奪還に雑賀衆のひとりとして従軍している。

1577年、織田信長が紀伊国に侵攻すると一度は撃退するも降伏。
本能寺の変後は羽柴秀吉に属した。
しかし、1585年に羽柴秀吉に攻められて雑賀城は落城。
鈴木重意は早期に降伏するも、紀伊国粉河で藤堂高虎に謀殺された。

和歌浦に突き出た妙見山(標高32m)の山上一帯に築かれた丘城。
南端の養珠寺から北側の尾根筋にある「千畳敷」と呼ばれる台状地に展開されていたとされるが、明確な遺構は存在しない。 続きを読む

秋月城(和歌山県和歌山市)

秋月城

太田城の支城。
延徳年間、紀伊国造64代・紀俊連が神領保護を目的に築城したことが始まりとされる。

元は延徳年間に紀俊連が日前宮の神領を保護するために築いた4城(太田城・秋月城・井辺城・三葛城)のひとつで、板垣周防守が守備していた。
1576年に太田左近が太田城に入城すると、その支城として機能。
1585年の羽柴秀吉による紀州征伐では城兵は太田城に集結しており、秋月城は放棄されたものと考えられる。

城域には県道145号が横切っており、遺構のほとんどが消滅。
道路北側の水田に曲輪の一部と思われる東西20mほどの微高地が確認でき、その周囲には僅かに堀跡が見られる。 続きを読む

太田城(和歌山県和歌山市)

太田城

宮郷衆(太田党)党首・太田左近の居城。
延徳年間、紀伊国造64代・紀俊連が神領保護を目的に築城したことが始まりとされる。

元は延徳年間に紀俊連が日前宮の神領を保護するために築いた4城(太田城・秋月城・井辺城・三葛城)のひとつ。
1576年に太田左近が入城し、城を修築。
1577年、織田信長による紀州征伐(雑賀攻め)に協力したことで雑賀衆に攻められるも抗戦し、1ヶ月に及ぶ籠城戦の末に和睦した。(第一次太田城の戦い)

1585年、羽柴秀吉による紀州征伐では6万(一説には10万)の大軍が太田城を包囲。
羽柴方は初戦に敗北したことで水攻めに切り替え、紀の川を堰き止めるために総延長6kmに及ぶ堤防を構築。
太田方は物資の補給が途絶えたまま約1ヶ月間の籠城を経て降伏し、太田左近以下53名が自害した。(第二次太田城の戦い)
この戦闘は備中高松城・忍城ととも「日本三大水攻め」のひとつに数えられる。
但し、包囲の日数に対して堤防の規模や動員人数が過大であるなど不明な点が多く、伝えられているより小規模な戦闘であったか、紀の川の氾濫を防ぐための堤防が流用された可能性が指摘される。

城域は現在の来迎寺と玄通寺を中心に、約270m四方の範囲と伝わる。
発掘調査によると周囲には土塁と堀を巡らせ、土塁の上にさらに土壁が設けられていたとされる。
各所には高櫓が建てられ、城門は大門(和歌山市内の大立寺に移築現存)・南大門・西北門の3ヶ所が設けられた。
昭和初期には1585年の戦いの堤防跡が20ヵ所ほど残されていたが、現在はほとんどが消滅している。 続きを読む

中津城(和歌山県和歌山市)

中津城

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

1577年の織田信長による紀州征伐(雑賀攻め)に対抗するため、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。
雑賀権太夫が城主を務めた。
1585年の羽柴秀吉による紀州征伐の際にも北の前線として機能し、10万の大軍を迎え撃って落城している。

JR紀和駅から南側の西覚寺付近に至る東西70m、南北120mほどの範囲が城域とされる。
周辺は宅地化され、遺構は存在しない。 続きを読む

東善寺山砦(和歌山県和歌山市)

東善寺山砦

雑賀衆の城砦のひとつ。
1577年、弥勒寺山城の支城として雑賀衆が築城。

和歌川の西岸、打越山(標高45m)の山頂部「打越山公園」に位置する丘城。
現在は草が生い茂って遺構の観察が困難であるものの、40m四方の平坦地が確認できる。
南側の散策路沿いにいくつかの平坦地が見られるも、城郭遺構であるかは不明。 続きを読む