美濃部城(滋賀県甲賀市)

美濃部城

甲賀二十一家・美濃部氏の居城。
築城時期は不明。

『美濃部天満宮社記』によると、美濃部氏は菅原道真の五男・菅原淳茂に始まると伝わる。
901年に菅原道真が失脚した際、淳茂は菅原氏の荘園があった美濃部郷梅ヶ畑の郷長・平左兵衛門為親の屋敷に逃れて娘婿となり、923年に赦免されると帰洛。
その子は美濃部郷に残って居宅を構え、「美濃部直茂」を名乗って同地の領主になったとされる。
戦国期には伴氏・山中氏とともに「柏木三方中惣」を組織して甲賀二十一家のひとつに数えられ、同地に大きな勢力を持つようになった。

滋賀県立水口高等学校の東側の住宅地が城域とされる。
北東端に相当するレオパレス南小路の駐車場にかつてはL字状に土塁が残っていたが、現在は消滅している。
その西側の道路を南下すると旧信楽街道と合流し、その三叉路付近が大手門跡とされる。
周辺の道路形状から、城館の規模は東西120m、南北70mほどあったと推察される。

城域の南西に美濃部氏の同名中(同姓者で形成した擬似的な同族組織)である富川氏の屋敷が隣接しており、近世の水口城は美濃部氏の出屋敷跡に建てられたと伝わる。
美濃部氏とともに柏木三方中惣を組織した山中氏が一族の屋敷を連ねた城館群を形成していることから、美濃部氏も同様の城館群を形成していた可能性が考えられる。

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所在地

滋賀県甲賀市水口町八光・梅が丘

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