御着城(兵庫県姫路市)

御着城

赤松氏一族・小寺氏の居城。
1519年、小寺政隆による築城。(それ以前から柵を巡らせた砦規模の建物があったとする説もある)

小寺氏は赤松氏一門・宇野氏の庶流。
赤松頼範の四男・赤松将則を遠祖とし、将則の曾孫・宇野頼定の二男・頼季が小寺氏を称したことが始まりと伝えられる。
1349年に小寺頼季が赤松氏の命で姫山城に入り、小寺氏は代々に渡って姫山城代を務めた。
1519年、小寺政隆が茶臼山と呼ばれる小丘上に隠居城として御着城を築城。
1530年、浦上村宗に攻められて落城し、小寺政隆は自害した。
しかし、翌年1531年に大物崩れが起こったことを機に小寺則職(政隆の子)が城を奪還。
以後、御着城が小寺氏の本城となる。

1575年に織田氏による播磨侵攻が始まると、小寺政職(則職の子)は織田氏に従う。
しかし、後に別所長治や荒木村重に同調して離反した。
1578年に織田氏による播磨国内の諸勢力への攻撃が本格化すると、御着城は翌年に落城。
城は羽柴秀吉に接収され、ほどなく廃城となった。

天川を背後に、山陽道を城下に取り込んで建てられた平城。
1755年に描かれた『播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図』によると、本丸の周囲を内堀が囲み、北東に隣接する二の丸には3重の堀が巡らされていた。
南西を流れる天川を天然の外堀とし、山陽道や町屋を取り込んだ惣構えの城であったことが窺える。
1977年から1979年にかけて実施された発掘調査にて、城内から食器や茶器のほか、将棋の駒、碁石などが発見された。
現在、本丸跡には姫路市役所東出張所と御国野公民館が建ち、城域全体が「御着城跡公園」となっている。
公園の東端には二の丸の土塁の一部が残る。

別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び、「播磨三大城」と称される。

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所在地

兵庫県姫路市御国野町御着

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