出石城(兵庫県豊岡市)

出石城

出石藩の藩庁。
1604年、小出吉英による築城。

1580年、有子山城の山名堯熙が織田氏に降伏し、戦国大名としての但馬山名氏は滅亡。
有子山城には1585年に前野長康、1595年に小出吉政が入城した。
関ヶ原の戦いで小出吉政は西軍に属したものの、東軍に属した弟・小出秀家の功によって6万石の所領を安堵され、出石藩が成立。
1604年、小出吉政の和泉国岸和田藩への転封に伴い、嫡男・小出吉英が出石藩を継承した。
その際、有子山城の山上部分の曲輪および天守を廃し、山麓の曲輪と館のみを居城とするように幕府に申請。
城は『出石城』と命名され、出石藩代々の居城となる。

1696年に9代藩主・小出英及が3歳で死去すると小出氏は無嗣断絶となり、松平忠周が4万8千石で入領。
1706年に松平忠周が信濃国上田藩へ転封となると仙石政明が5万8千石(後に3万石に減封)で入領し、明治維新に至るまで9代に渡って同地を統治した。

有子山の北西山麓に築かれた平山城。
主要部は最上段の稲荷曲輪から雛壇状に曲輪が展開され、本丸・二の丸・下曲輪と続く梯郭式の構造を持つ。
麓には谷山川を隔てた正面の平地に三の丸、主要部の西側下に西の丸が展開され、三の丸は川と水堀で囲まれていた。
また、本丸の東側には東西に細長い山里曲輪が配されている。
築城当時より天守は存在せず、本丸の四隅に櫓が建てられていた。
小出氏の統治時代には本丸に藩主邸宅、二の丸に政庁があったが、松平忠周の代に三の丸に対面所を築いて政庁を移している。
小出吉英の代に城下町が整備され、現在の出石の町並みの基礎が形成されたと考えられる。

1871年、廃城。
建物はすべて取り壊されたものの主要部の石垣がほぼ完存し、三ノ丸北辺の水堀が現存する。
1968年、出石町史跡(後に豊岡市史跡)に指定。
同年に本丸東隅櫓および西隅櫓が、1994年には登城橋および登城門が復元された。
三の丸跡には豊岡市役所出石総合支所(旧出石町役場)が建ち、西の丸跡の一部は駐車場になっている。
現存する水堀の周囲は「登城橋河川公園」として整備され、1871年建造の辰鼓楼(元は城主の登城を知らせる太鼓を叩く楼閣、1881年に現在の時計台となる)をシンボルとした観光名所となっている。
1989年に城下町の景観形成に向けた計画が策定され、町並み調査を開始。
城下町に残る歴史的建造物の保存活用活動が展開された。

2017年、有子山城とともに続日本100名城に選定。

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所在地

兵庫県豊岡市出石町内町

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